« 2008年02月 | メイン | 2008年06月 »

2008年04月 アーカイブ

2008年04月20日

江東区役所にはサービス精神とペンが無い

 江東区役所のお役所仕事に疲れている。(苦笑)
 
 1 江東区役所のK氏と約一時間話した。そして、最後に連絡先を伝えようとしたところ、「少々お待ち下さい。ペンを探しますから。」と言われた。江東区役所のK氏には、区民の話を真摯に聞いて、メモを取る習慣が無いらしい。ペンも無いらしい。
 2 私は、江東区の主張の根拠を示すように求めた。すると、法令集のコピーの束が送られてきた。しかし、それについて何の説明も無い。根拠になる条文にしるしをつけることすらしていない。私が条文を探し、どう根拠になるのか考えなければいけないらしい。
 3 上のような状態に対して抗議して、上司からの回答を求めた。しかし、具体的な弁解が無い。その前に、新しく現れた人物が上司かどうかすら分からない。上司だと名乗らないから。(苦笑)
 
 つまり、江東区役所には、区民と普通に話し合う姿勢が無い。まともに、会話が成り立たないのである。
 古くからの読者の方は、あの会社を思い出すであろう。
 そう。三菱地所である。
 
  【三菱地所の情報隠蔽体質批判1】
  ● インターネットによる情報公開は社会をどう変えるか
   
  【三菱地所の情報隠蔽体質批判2】
  ● 〈反-対話戦略〉を破壊せよ
   
  【三菱地所の情報隠蔽体質批判3】
  ● 情報公開は、だまされない権利を個人に保障するためのシステム
 
 江東区役所の対応は、この三菱地所の異常な顧客対応に似ている。
 あまりにひどい江東区役所の対応に疲れ果て、友人に次のように言う。
 
 「江東区役所の対応が三菱地所の異常な対応に似ていて、疲れる。」
 
 すると、笑いながら、次のように言われる。
 
 「三菱地所がお役所仕事なんですから、お役所の方が本家ですよ。」
 
 そうか。俺は今、お役所仕事の本家と闘っているのか。
 疲れるはずだ。(苦笑)
 

江東区役所は、お役所仕事をやめよ。(お役所にこう言うのも変な話だが。)

 これは、〈私の主張を認めよ〉という意味ではない。〈主張を認める認めないの前に、きちんと相手と向き合え〉という意味である。
 
 江東区役所にはサービス精神とペンが無いようである。
 サービス精神もペンも大切である。
 ちゃんと準備した方がいい。
 
                         諸野脇@ネット哲学者


〔補1〕
 サービス精神が無かった三菱地所は、その後どうなったか。
 社長が辞任せざるを得なくなった。(これは、土壌汚染隠しをしてマンションを売っていたからである。顧客に対して不誠実な対応をする体質に罰がくだったである。)
 異常な顧客対応を繰り返したI氏は、その後、会社を辞めたようである。(辞めさせられたのだろうと想像する。)
 
〔補2〕
 今のところ、江東区役所の担当者の名前は匿名にしている。武士の情けである。
 しかし、対応が改まらない場合は、実名で詳しく批判することも考えざるを得ない。
 江東区役所の異常な顧客(区民)対応の資料は十分に揃っている。
 役所という閉じた組織にいるから、その異常さに気がつかないのである。

2008年04月21日

欠点を自ら情報公開! 江東区役所はすばらしい!(苦笑)

 江東区のホームページを見る。
 次のような意見を発見し、「これはひどいな。」と思う。

ご意見
区政相談に行きました。
相談員はまあまあでしたが、「今日はどんな相談ですか?」と言い、メモをとることはしなかった。相手の気持ちになって、もっと親身になってもよいのでは。言われてから、メモを取った。頭に入っていると言っていた。
  http://www.city.koto.lg.jp/php/faq_detail.php?faqid=1740

 どうやら、江東区役所には「メモをとる」習慣が無いようである。
 私も同じ目に会っている。
 
  ● 江東区役所にはサービス精神とペンが無い
 
 これは「親身にな」っていることが感じられないお役所仕事である。もちろん、お役所仕事は悪い。
 しかし、注目していただきたい事実がある。
 この意見は江東区のホームページに載っているものである。江東区役所は、批判的な意見を自ら公開しているのである。欠点を自ら公開しているのである。
 この点で、江東区役所の情報公開は非常によい。
 江東区役所の情報公開の実例は次のページを見てもらいたい。
 
  ● いただいたご意見と回答
  
 批判的な意見も含めて、多くの意見が公開されている。(また、それに対する江東区役所の回答も公開されている。)
 すばらしい。
 批判的意見を情報公開することが必要である。
 自分に都合の悪い事実を情報公開することが必要である。

 江東区役所は、自分に都合の悪い事実を公表している。だから、私が江東区役所の言動を批判できたのである。逆に言えば、江東区役所は、私に批判してもらうことが出来たのである。批判は進歩の母である。
 しかし、このような情報公開は、なかなか出来ない。あなたが所属してる組織を考えて欲しい。あなたの会社はこのようなことが出来るであろうか。ホームページ上で意見を求め、批判的意見も含めて情報公開する。多くの会社は、そのようなことは出来ないだろう。

 このような観点で見ると、江東区役所は大変すばらしい。
 後は、お役所仕事を直すだけである。
 当面、まずメモを取ろう!(苦笑)
 

〔補〕
 ちなみに、上の意見に対する回答は下の通りである。
 これは、紋切り型の回答に過ぎない。だから、本当に「指導・監督を徹底」できているか疑問である。現に、私の時も、メモを取っていなかったのである。

回答
広報広聴課の区民相談窓口では、日頃から、区民の皆様からの様々な相談等に対して親切丁寧な対応に努めているところです。
また、相談内容については必ず記録をし対応をしておりますが、いただきましたご意見のように、職員の執務態度につき、区民の方から誤解を招くことのないよう、今後とも、本人をはじめ、他の職員にも改めて指導・監督を徹底してまいります。

2008年04月27日

【オリコン訴訟】東京地裁が〈ジャーナリズムなど消えてしまえ〉判決を出す

 オリコン・烏賀陽訴訟で、東京地裁の判決が出た。次のような内容である。(注)

 烏賀陽弘道氏はオリコンに百万円を支払え。烏賀陽氏側の反訴は棄却する。

 誠に異常な判決である。強い憤り感じる。
 この判決は、一言で言えば、〈ジャーナリズムなど消えてしまえ〉判決である。
 この判決は次のような事実を示した。
 電話取材を受けコメントしただけで、訴訟を起こされ数百万円のお金を取られる可能性がある。また、出版社を訴えず、コメントした人だけを訴えてもよい。
 
 これはSLAPP(恫喝訴訟)を認める判決である。司法を利用した嫌がらせを認める判決である。
 このような判決が認められれば、ジャーナリズムは成立しなくなる。
 この判決は、どのような世界を導くのか。
 電話取材に答える人はいなくなる。そんなリスクを負って、電話取材に答える人はいないであろう。
 電話取材だけが危険なのではない。これは情報源への攻撃なのである。ありとあらゆる取材に答えることが危険である。訴訟の対象にされて高額な賠償金を求められる可能性がある。しかも、出版社から切り離されて、自分一人だけが訴えられるのである。
 このような危険性があっては、情報源が口を閉ざしてしまうであろう。つまり、ジャーナリズムが成立しなくなるであろう。
 
 東京地裁の判決は、正に〈ジャーナリズムなど消えてしまえ〉判決なのである。
 既に、このような危惧は、烏賀陽弘道氏自身が詳しく述べている。
 
  ● オリコン訴訟について烏賀陽はこう考えます
 
 私も、次の文章でオリコン訴訟の危険性を指摘した。
 
  ● ジャーナリスト個人を対象にした高額訴訟の不当性  --反SLAPPの論理
 
 しかし、それにも関わらず、〈ジャーナリズムなど消えてしまえ〉判決が出てしまった。
 なぜ、このような異常な判決が出たのか。裁判長の綿引穣氏が虚偽だらけの異常な思考をしているからである。
 東京地裁の判決は、虚偽だらけの異常な判決である。(私は、東京地裁の判決文を繰り返し読んだ。不快さのあまり気分が悪くなった。)
 東京地裁の判決文は虚偽だらけである。今後、連続して東京地裁の虚偽を指摘していく。つまり、異常な判決がどのように異常かを説明していく。

                        諸野脇@ネット哲学者
 
(注)

 詳しくは以下の記事を参考。
 
  http://www.ohmynews.co.jp/news/20080422/23819
  http://www.news.janjan.jp/media/0804/0804225490/1.php
  http://www.j-cast.com/2008/04/22019316.html
  
 判決文の原文は次の通り。
 
  http://ugaya.com/column/080422oricon_verdict.pdf
 

2008年04月30日

【オリコン訴訟 判決批判1】東京地裁・綿引穣裁判長のSLAPP(恫喝訴訟)容認論の虚偽

■ 虚偽だらけの綿引穣判決

 東京地裁・綿引穣裁判長の判決は虚偽だらけである。(注1)
 例えば、綿引穣裁判長はオリコンが烏賀陽弘道氏個人を訴えることを認める。SLAPP(恫喝訴訟)を容認する論を展開する。次のようにである。 

 一般に、不法行為責任を負担する者が複数存在する場合に、その被害者が全ての不法行為責任者に対して訴訟を提起する義務を負うことはない。
 したがって、原告が、本件雑誌(サイゾー)の発行者や本件記事(サイゾー)の編集者に対して訴訟を提起せず、被告〔烏賀陽氏〕に対してのみ訴訟を提起したことをもって、本訴の提起を違法と評価することはできない。
 〔東京地裁判決 41ページ〕

 これは虚偽の論法である。
 「一般に」「全ての不法行為責任者」を訴える「義務」が無いからと言って、名誉毀損訴訟において出版社を訴える「義務」が無いとは言えない。
 名誉毀損訴訟の場合は、必ず出版社を訴えるべきである。訴える「義務」がある。なぜか。
 名誉毀損の「主犯」は出版社だからである。「主犯」を抜きにして、「従犯」であるコメント提供者だけを訴えるのは著しく不合理だからである。もっとも重要な「不法行為責任者」を抜きにした訴訟は著しく不合理だからである。


■ 拳銃を撃った実行犯を訴えない訴訟を認めるのか

 次のような喩えが分かり易いであろう。 

 殺人事件が起こった。
 実行犯と実行犯に拳銃を渡した者の二人が逮捕された。
 しかし、なぜか、実行犯は訴えられない。拳銃を渡した者だけが訴えられる。
 「全ての不法行為責任者に対して訴訟を提起する義務」は無いからである。
 
 綿引穣裁判長はこのような訴訟を認めるのか。
 殺人事件で実行犯を訴えないことはありえない。
 拳銃だけでは殺人は成立しない。拳銃を発射する行為があって初めて殺人は成立するのである。だから、実行犯を訴えない訴訟はどう考えても不合理である。
 名誉毀損もこれと同様である。コメント(拳銃)だけでは名誉毀損は成立しない。出版(拳銃を発射する行為)があって初めて名誉毀損は成立するのである。(注2)

 
■ 損害額全額の支払いを実行犯でない者に要求する異常さ

 さらに、具体的に問おう。
 綿引穣裁判長は、烏賀陽弘道氏に対してオリコンへ100万円を支払うように命じた。
 この100万円は、どういう金額なのか。
 綿引穣裁判長は言う。

 ……〔略〕……本件コメント(サイゾー)による名誉毀損によって原告が被った損害の額は、100万円と認めるのが相当である。
 〔東京地裁判決 41ページ〕
 
 「損害の額は、100万円」とある。これは「損害」の総額である。
 なぜ、「損害」の総額を「従犯」である烏賀陽弘道氏が全額払わなければならないのか。もし、払う必要があるのならば、「主犯」である出版社と烏賀陽弘道氏が共同で支払うのが当然である。責任の割合に応じて負担するのが当然である。
 先程の喩えを思い出して欲しい。 
 家族を殺害された遺族が損害賠償請求の訴訟を起こす。しかし、なぜか、実行犯は訴えられない。拳銃を渡した者だけが訴えられる。そして、損害額が1億円と認定される。その損害額全額が拳銃を渡した者に請求される。
 
 綿引穣裁判長はこのような状態を認めるのか。
 著しく不合理であるとは考えないのか。

 
■ 正しい判決文はこうだ

 要するに、綿引穣裁判長は虚偽の論法を使ったのである。名誉毀損の実態を踏まえずに、一般論を過剰に適用したのである。
 先の判決文を正しく直せば次のようになる。 

 一般に、不法行為責任を負担する者が複数存在する場合に、その被害者が全ての不法行為責任者に対して訴訟を提起する義務を負うことはない。
 しかし、主要な不法行為責任者に対して訴訟を提起しない行為は、著しく不合理である。名誉毀損は出版抜きでは成立しない。ゆえに、出版社に対して訴訟を提起しない場合、著しく妥当性を欠く訴訟であると判断される。
 ゆえに、オリコンの訴えは妥当性を欠く。

 綿引穣裁判長はこう言えばよかったのである。
 しかし、綿引穣裁判長は、名誉毀損の実態を見ずに一般論を適用した。虚偽の論法を使ってしまった。


■ 重大な問題を引き起こす虚偽の論法

 綿引穣氏の論法を使えば、次のようにさまざまな間違った主張が出来る。 

 一般に、鳥は空を飛ぶ。したがって、ニワトリは空を飛ぶ。〔「空を飛ぶ」というほど長い距離は飛べない。〕
 一般に、裁判官は論理的である。したがって、綿引穣裁判長は論理的である。〔明らかに論理的ではない。〕
 
 これは、一般論を不適切な特殊例に適用してしまう間違いである。
 このような間違いを〈一般論過剰適用の虚偽〉と名づけよう。一般論を、適用するべきでない事例にまで過剰に適用してしまう間違いである。(注3)
 綿引穣裁判長がこのような虚偽の論法を使っていることは重大な問題である。このような虚偽の論法でSLAPP(恫喝訴訟)が認められてしまっている。個人に不当な負担が課せられている。そして、ジャーナリズムが危機に瀕しているのである。
 虚偽の論法が重大な問題を引き起こしているのである。
 だから、次回以降、さらに綿引穣判決の虚偽を批判していく。
 
                        諸野脇@ネット哲学者


(注1)

 哲学用語での「虚偽」とは、「間違った論証」のことである。
 一般的に「虚偽の主張をした」と言えば、「意図して嘘の主張をした」という意味になるだろう。しかし、哲学用語では、単に「間違った主張をした」という意味になる。
 哲学用語の「虚偽」には、意図を批判する意味は無い。
 この点、注意していただきたい。
 

(注2)

 もちろん、烏賀陽弘道氏のコメントは名誉毀損に問われるような内容ではない。だから、烏賀陽弘道氏のコメントは「拳銃」ではない。しかし、ここでは話を分かり易くするために、烏賀陽弘道氏のコメントが「拳銃」であるという比喩を使っている。
 だから、もちろん、烏賀陽弘道氏は「従犯」でもない。


(注3)

 これは、哲学・論理学の世界では、「単純偶然の虚偽」として知られる虚偽である。 

単純偶然の虚偽〔fallacy of direct (simple) accident〕
 一般的主張を特殊の場合にそのまま適用するために生じるアヤマリ〔思想の科学研究会編『哲学・論理用語事典』三一書房、184ページ〕
 
 しかし、なんとも名前が分かりにくい。
 だから、〈一般論過剰適用の虚偽〉と名づけた。


〔補論〕

 念のため、出版社が「主犯」である理由を詳しく説明をしておこう。
 それは、名誉毀損が成立するためには出版が不可欠だからである。
 例えば、私のノートにこのような内容が書いてあったとする。 

 オリコンのチャートは予約枚数もカウントされている。大手レコード会社は、大量買い取りなどでオリコンのチャートを操作しようとしている。お金をもらって、オリコン自身がチャートを操作したこともあるらしい。
 実は、オリコンはヤクザのフロント企業である。小池恒社長の背中には刺青が入っている。……

 どんなことがそのノートに書いてあってもいい。
 それが出版されない限り、ノートの内容を他者が読むことはない。出版されて初めて、読者の目に触れる。多数の目に触れる。多数の目に触れることによって、評判の低下が起こる。つまり、名誉毀損が起こるのである。
 つまり、出版されない限り、名誉毀損は成立しないのである。 
 名誉毀損が成立するためには出版が必要不可欠である。
 
 出版を抜きにした名誉毀損はあり得ない。
 つまり、名誉毀損の「主犯」は出版社なのである。


About 2008年04月

2008年04月にブログ「諸野脇 正の闘う哲学」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2008年02月です。

次のアーカイブは2008年06月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34