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2010年04月 アーカイブ

2010年04月24日

「覚醒剤は使用してはならない」という奇妙な校則を分析する

 私の入学した高校には奇妙な校則があった。
 次のものである。 

 覚醒剤は使用してはならない。
  
 この校則は、どう奇妙なのか。
 「覚醒剤は使用してはならない」のは当たり前のことである。当たり前のことをわざわざ書く必要はない。誠に奇妙である。
 このような当たり前のことを取り立てて校則で書くのは問題である。次のように解釈される恐れがあるからである。 
 このような当たり前のことをわざわざ書くところを見ると、書いていないことはしていいのだろう。例えば、万引きなどはしてもいいのだろう。
 
 校則とは学校の「法律」である。一般社会の法律に反することをしてはいけないのは、既に前提とされている。前提は書く必要はない。
 書く必要の無いものを書くと、上のような解釈が生じてしまう。つまり、「書いていないことはしていい」という解釈である。
 一つだけを「してはならない」と強調すると、他のことは「してもいい」という解釈を生じさせてしまう。
 
 実は、現行法にも同様の事例がある。法曹関係者にはよく知られた事例である。
 日本国憲法第三十六条である。(注1) 
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
 
 この条文には「絶対に」とある。しかし、他の条文にはそのような文言は無いのである。
 例えば、第二十九条である。 
 財産権は、これを侵してはならない。
 
 この条文には「絶対に」とは書いていない。
 つまり、第三十六条だけが強調されているのである。当然、次のような解釈が生じてしまう。 
 財産権は少しくらい侵してもいいんだ。万引き(窃盗)などはしてもいいのだろう。
  
 一部だけを強調すると、他の部分は重要でないという解釈が生じる。
 「解釈」と書いたことに注目いただきたい。
 法律は解釈するものなのである。
 どのように法律を解釈するか。(注2)
 それが問題である。

                     諸野脇@ネット哲学者


(注1)

 日本国憲法の原文は次のページで読める。
 
  http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=1&H_NAME=%8c%9b%96%40&H_NAME_YOMI=%82%a0&H_NO_GENGO=H&H_NO_YEAR=&H_NO_TYPE=2&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=S21KE000&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1
  

(注2)

 古くからの読者は「文理解釈」・「論理解釈」を思い出したであろう。

  ● どのように法律を解釈すればよいのか --文理解釈と論理解釈

 その想像は正しい。


2010年04月25日

略称「日本」問題を分析する 1 ――法律が無いという理由で同一略称を受け入れる総務省に、現実の問題を訴えても無駄である

 政党の略称が問題になっている。
 〈たちあがれ日本〉が「日本」という略称を届け出ようとしているのだ。
 しかし、「日本」という略称は〈新党日本〉が使ってきた略称なのだ。 

 新党「たちあがれ日本」が、夏の参院選の比例代表で用いる略称を「日本」と届け出る方針を固めたことが波紋を広げている。過去3回の国政選挙で略称を「日本」としてきた新党日本は当然、反発。さらに、公職選挙法に同一呼称を禁ずる規定がなく、論理的には、今後結成される新党が略称「民主」や「自民」などを名乗ることも可能だという。

 「同一の略称は混乱をもたらす。大変憂慮している」。新党日本の田中康夫代表は14日の記者会見で不快感を表明。さらに、比例代表票の案分を懸念して、「憲政史上初めて、同一略称で国政選挙に臨みかねない状況を放置するのか」とする質問状を総務省に提出したことを明らかにした。

 田中氏は「『本物の民主』とか『まともな民主』という党を(政党要件を満たすため5人以上の)国会議員が作って、略称『民主』で届けられるかと総務省に聞いたら、『その通りだ』という驚くべき見解だった。2党だけの問題ではない」と訴えた。
 http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100414/stt1004142050014-n1.htm

 
 田中康夫代表は「同一の略称は混乱をもたらす」と言う。
 当然、「混乱」が起こるであろう。

 しかし、総務省側にはそんなことは関係ないのだ。
 彼らの論理はこうだ。 

 私達は法律に基づき行動する。
 法律に規定が無い以上どうしようもない。
 
 総務省側はハードボイルドの世界なのである。現実にどんな大問題が起こっても彼らには関係ない。「民主」や「自民」を名乗る政党が現れても彼らには関係ない。法律に基づき行動するのだから、法律が無ければ何もしない。法律ハードボイルドの世界なのだ。
 このようなハードボイルドな総務省に現実の問題を訴えても無駄である。
 総務省の行動を変えるためには、法律の問題として論ずる必要がある。
 「法律が『同一略称』を禁止しているのだ」と主張する必要がある。
 田中康夫氏はそのような論を立てるべきであった。 
 法律が無いことを理由にする相手に、現実の問題を訴えても無駄である。
 
 そのような相手には、法律が有ると訴えるべきである。
 上の記事には次のようにある。 
 公職選挙法に同一呼称を禁ずる規定がなく……
 
 これは本当か。
 実は、「同一呼称を禁ずる既定」はあるのである。
 公職選挙法はもっと複雑である。
 そして、公職選挙法の解釈はさらに複雑なのである。〔……続く……〕

                     諸野脇@ネット哲学者


2010年04月26日

略称「日本」問題を分析する 2 ――総務省の公職選挙法の解釈は正しいか

 公職選挙法に「同一略称を禁ずる規定」はある。(注1) 

 ……〔略〕……名称及び略称は、第86条の6第6項の規定による告示に係る政党その他の政治団体にあつては当該告示に係る名称及び略称でなければならないものとし、同項の告示に係る政党その他の政治団体以外の政党その他の政治団体にあつては同項の規定により告示された名称及び略称並びにこれらに類似する名称……〔略〕……以外の名称及び略称でなければならない。
 (公職選挙法 第86条の2 3)

 非常に分かりにくい。
 簡単にまとめると次の通りである。 
 1 政党は、届け出た略称を使わなくてはならない。
 2 その他の団体は、それと同一の略称を使ってはならない。
 
 政党以外の団体については、「同一略称を禁ずる規定」があるのである。しかし、政党についてはそのような規定は明文化されていない。(注2)
 この条文をどう解釈するべきか。 
 弱小政治団体が大政党と同じ略称を使って利益を得ようとすることを禁じたのである。
 
 それでは、政党については、なぜ「同一略称を禁ずる規定」が明文化されていないのか。 
 政党が別の略称を使うのは当たり前だからである。

 政党が他の政党とは別の略称を使うのは当たり前である。政党ならば、他の政党との混同を避けたいと願うのが普通である。だから、別の略称を使う。
 それため、「同一略称を禁ずる規定」が明文化されていないのである。
 
 それでは、明文化されていないからといって、政党が「同一略称」を使ってよいのか。
 既に、政党でない政治団体については禁じられているのである。
 それが、政党にだけ認められるのは誠に不自然である。政党だけに「同一略称」を認める理由が思いつかない。

 つまり、公職選挙法の趣旨との関係で条文を解釈するべきなのである。文理解釈だけでなく、論理解釈をおこなうべきなのである。(注3)
 公職選挙法の趣旨を見てみよう。第1条「この法律の目的」を見てみよう。 

 この法律は、日本国憲法の精神に則り、衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長を公選する選挙制度を確立し、その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われることを確保し、もつて民主政治の健全な発達を期することを目的とする。
 
 「公明且つ適正に行われることを確保し」とある。つまり、投票する人の意志が「公明」「適正」に表せる「制度」を「確保」することが公職選挙法の趣旨である。
 この趣旨に照らせば、「同一略称」は認めるべきではない。「同一略称」では、その略称を書いた人の意志が分からなくなる。どの党に投票したかが分からなくなる。それでは、投票する人の意志が「公明」「適正」に表せる「制度」ではなくなる。
 それは、公職選挙法の趣旨に反する状態である。
 
 公職選挙法の趣旨との関係で条文を解釈した。
 政党についても、公職選挙法によって「同一略称」の使用は禁じられている。
 明文の規定が無いのは、当たり前だからである。
 こう解釈する方が自然なのである。
 

                     諸野脇@ネット哲学者


(注1)

 公職選挙法の原文は次のページで読める。
 
  ● 公職選挙法(法庫)


(注2)

 政党についての条文は次の通りである。 

 ……〔略〕……当該政党その他の政治団体の名称及び一の略称を中央選挙管理会に届け出るものとする。この場合において、当該名称及び略称は、その代表者若しくはいずれかの選挙区において衆議院名簿登載者としようとする者の氏名が表示され、又はそれらの者の氏名が類推されるような名称及び略称であつてはならない。
 (公職選挙法第86条の6)


(注3)

 文理解釈と論理解釈については、次の文章をお読みいただきたい。
 
  ● どのように法律を解釈すればよいのか --文理解釈と論理解釈
  

2010年04月27日

略称「日本」問題を分析する 3 ――政治主導とは役所から法律の解釈権を奪うことなのである

 二つの政党が同じ略称を使うのは問題である。有権者の意志が正確に選挙結果に反映されなくなる。もちろん、これは公職選挙法の趣旨に反する。
 そして、現在の公職選挙法においても「同一略称」は禁じられていると解釈した方が自然なのである。
 次の文章で詳しく論じた。
 
  ● 略称「日本」問題を分析する 2 ――総務省の公職選挙法の解釈は正しいか
 
 
 現在の公職選挙法も「同一略称」を禁じていると解釈できるのである。
 しかし、4月16日の会見で原口一博総務相は次のように言った。 

 今の法律では止める手だてはない。
 
 疑問がある。
 原口一博総務相は、自分で公職選挙法の原文を読んだのか。自力で法律を解釈したのか。
 次のような状態なのではないか。 
 総務相の役人が、原口一博総務相に「今の法律では止める手だてはありません。」と言う。
 そして、原口一博総務相は、それを信じて会見で同じように発言する。
 
 よくあることである。
 しかし、そうでない可能性もある。原口一博総務相自身が公職選挙法を解釈した可能性もある。その場合、原口一博総務相は自分が公職選挙法をどう解釈したかを示すべきであろう。(注1)
 次の批判に答えるべきであろう。 
 1 政党ではない政治団体は「同一略称」を禁じられている。それなのに、なぜ政党には認められるのか。
 2 政党が「同一略称」を使ってはいけないのは当たり前のことである。明文規定が無いのは、当たり前だから書かなかっただけである。(注2)
 3 公職選挙法の趣旨は、「公明」「適正」な選挙制度の確立である。その趣旨から見て、政党についても「同一略称」は禁じられていると解釈するのが自然である。
 
 このような批判に前もって答えておくべきなのである。
 しかし、原口一博総務省は何もしなかった。
 もしかしたら、原口一博総務相は法律を解釈するという発想自体をもっていないのかもしれない。
 それならば、次の文章をお読みいただきたい。
 
  ● 「法律を解釈する」という発想
   
 法律とは解釈するものなのである。
 自分に都合よく法律を解釈することで、現実を操作することが可能なのである。だから、法律は自力で解釈しなくてはならない。そして、どちらの解釈が正しいのかを争わなくてはならない。
 役人は法律の解釈を独占することによって、権力を持っているのである。影響力を持っているのである。
 「政治主導」という概念がある。しかし、政治家が役人の法解釈をうのみにしている限り、そのような状態は実現しない。 
 政治主導とは、政治家が法律を解釈することである。
 法律の解釈を通して、現実を変えることである。
 
 政治主導とは役所から法律の解釈権を奪うことなのである
 政治家は、役人から「今の法律では出来ない」と言われるであろう。しかし、それは本当か。自力で法律を解釈しなくてはならない。別の解釈で役人の解釈を圧倒しなくてはならない。その解釈によって現実を変えなくてはならない。
 原口一博総務相は正にそれをするべき立場にいるのである。
 原口一博総務相には私の文章の存在を「つぶやいて」おいた。私の解釈をよく読んでもらいたい。そして、自分の解釈で判断をくだしてもらいたい。(注3)

                     諸野脇@ネット哲学者
 
 
(注1)

 原口一博総務相が役人の解釈をうのみにしたかどうかは分からない。
 しかし、自分の解釈であるのならば、その解釈を示す責任がある。
 
 
(注2)

 条文に書いていないからといって、おこなってよいとは限らない。
 校則に「万引はしてはいけない」と書いていなくても、万引はしてはいけないのである。
 次の文章をお読みいただきたい。
 
  ● 「覚醒剤は使用してはならない」という奇妙な校則を分析する  
 
 この文章の事例と「同一略称」の事例とを比較すると発想が広がるはずである。
 しかし、今はその時間がない。


(注3)

 この文章を書き終わってから、政府が「同一略称」を「受理せざるを得ない」と判断したという事実が報道された。これで二つの政党が「日本」という同じ略称になってしまった。残念である。
 
  ● 参院選で2党が「日本」名乗る 政府、同一略称を受理   
 
 さらに残念なのは、政府や原口一博総務相が自分の解釈を全く述べていないことである。(私にも読み落としがあるかもしれない。述べている事実があればお教えいただきたい。)


2010年04月29日

略称「日本」問題を分析する 4 ――総務省・原口一博大臣は本当に法律ハードボイルドなのか

 二つの政党が同じ略称「日本」を使う事態となった。
 異常な事態である。
 私は、次のように書いた。 

 田中康夫代表は「同一の略称は混乱をもたらす」と言う。
 当然、「混乱」が起こるであろう。

 しかし、総務省側にはそんなことは関係ないのだ。
 彼らの論理はこうだ。
 
   私達は法律に基づき行動する。
   法律に規定が無い以上どうしようもない。

 
 総務省側はハードボイルドの世界なのである。現実にどんな大問題が起こっても彼らには関係ない。「民主」や「自民」を名乗る弱小政党が現れても彼らには関係ない。法律に基づき行動するのだから。法律が無ければ何もしない。法律ハードボイルドの世界なのだ。
  ● 略称「日本」問題を分析する 1 ――法律が無いという理由で同一略称を受け入れる総務省に、現実の問題を訴えても無駄である


 今回の問題に対して、総務省・原口一博大臣はこのような姿勢を取った。法律ハードボイルドな姿勢を取った。
 これは、いわば次のような姿勢である。 
 校則に「万引き禁止」と書いていないから、学生が万引きをしても容認する。
 
 誠にアホらしい。ごく普通の市民はあきれるであろう。
 しかし、観点を変えて考えてみよう。法律ハードボイルドな姿勢にどのような意味があるのかを考えてみよう。
 法律ハードボイルドな姿勢の意義は何か。恣意的な公権力の行使を避けることである。恣意的な公権力の行使は危険である。だから、明文化された法律に基づいて公権力を行使する。出来るだけ公権力を行使しないようにする。
 このような点で、法律ハードボイルドな姿勢には一理ある。

 しかし、総務省・原口一博大臣は本当に法律ハードボイルドなのか。
 本当に法律ハードボイルドであるならば、いつもそのような姿勢を取っているはずである。総務省・原口一博大臣はいつもそのような姿勢を取っているか。
 いや、取っていない。
 インターネットの選挙利用について総務省は恣意的に法律を拡大解釈している。それによって、インターネット上の選挙活動を十年も妨害し続けているのだ。
 
 公職選挙法にはインターネットという語は一語もない。当たり前である。大昔に出来た法律なのである。
 だから、総務省(当時は自治省)は次のように言えばよかったのだ。 

 今の法律では止める手だてはない。

 総務省がこう言っていれば世界は変わったのである。
 選挙におけるインターネット利用が進んだのである。選挙でインターネットを利用するのは世界の常識である。(注1)
 それにもかかわらず、総務省はインターネットの選挙利用を妨害してしまった。〈ホームページが文書図画である〉と恣意的な解釈をしてしまった。
 ホームページは見たい者がアクセスするものである。言わば、選挙事務所の資料室のようなものである。望まなくてもポストに入ってくるビラ(文書図画)とは全く違う。(注2)
 なぜ、総務省は法律ハードボイルドな姿勢を取らなかったのか。「インターネットについては規定が無い」と言わなかったのか。
 なぜ、原口一博大臣は、総務省の姿勢を変えようとしないのか。
 
 やはり、総務省・原口一博大臣は、法律ハードボイルドではない。
 十年間もインターネットの使用を妨害しているのである。公権力を行使し続けているのである。公権力の行使に慎重な訳ではない。
 ある時は、〈法律に規定が無いから禁止できない〉と言う。
 別の時は、法律を恣意的に解釈して禁止する。
 これでは次のように疑われても仕方ない。自分の都合のよいように法律を解釈しているだけではないか。または、法律を解釈する能力が無いのではないか。(注3)
 総務省は、十年間もインターネットの選挙利用を妨害してきたのである。
 
                     諸野脇@ネット哲学者


(注1)

 次の文章をお読みいただきたい。
 
  ● ブログを更新して刑事告発される? オバマ大統領もびっくりだよ!
 
 
(注2)

 詳しくは次の文章をお読みいただきたい。

  ● インターネット選挙になるべきだった選挙 -- あなたも公職選挙法に「違反」してみませんか
  ● インターネット選挙は公職選挙法違反か --「馬」は「自動車」か
 
 総務省の解釈がいかに恣意的かを詳しく論じている。
 
 
(注3)

 役所が出生届を不受理にしたことがある。親が子供に「悪魔」と名づけようとしたのである。
 しかし、戸籍法には次のような文言しかない。 

 第50条 子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。
  
 これで不受理に出来るのならば、今回の政党の名前(略称)も不受理に出来るはずである。なぜ、不受理にしないのか。不思議である。
 また、この条文で不受理にするためには、「ものすごい」論理解釈が必要だったはずである。それなのに、なぜ今回は普通の論理解釈すらしないのであろうか。不思議である。
 

2010年04月30日

総務省は、十年間もインターネットの選挙利用を妨害した責任を取るべきである ――総務省はこっそり公職選挙法の解釈を変えている

 驚くべき事実がある。
 総務省は公職選挙法の解釈を大きく変えているのである。(注1)
 いかに総務省の解釈がいいかげんであるかが分かる。
 
 2000年の段階では、総務省(当時は自治省)はとんでもないことをしていた。選挙期間中、議員のホームページを閉鎖させていたのである。ホームページを閉鎖して、音声だけにした議員がいたくらいである。
 総務省(当時は自治省)の解釈は次の通りであった。 

 ……〔略〕……インターネットのホームページを開設することは「頒布」にあたると解しております。
 ● 新党さきがけ への自治省行政局選挙部選挙課の回答 平成8年10月28日付
 
 「ホームページを開設すること」を公職選挙法で禁じられている「頒布」と解釈していたのである。これでは、ホームページを閉鎖する議員が出るのも当然である。 
 しかし、現在では、〈ホームページを選挙期間中に更新しなければよい〉ことになっている。ホームページを閉鎖しなくてもよくなっている。(注2) 
 十年前は閉鎖させられていたホームページが公開できるようになった。
 
 大変な変化である。なぜ、このような変化が起こったのか。
 法律は変わっていない。
 総務省が解釈を変えたのである。どうして、こんなに大きく解釈を変えたのだろうか。このような形で法律の解釈を変えるべきではない。 
 総務省は、全ての候補者のホームページを閉鎖させるべきである。
 
 総務省は「ホームページを開設すること」が「頒布」だと解釈したのである。違法だと解釈したのである。その解釈を貫くのが筋である。
 総務省の解釈を信じてホームページを閉鎖した議員がいたのである。
 総務省は、その議員にどう弁解するのか。
 弁解の仕様がないのである。
 次のように謝るしかないであろう。 
 本当は、閉鎖しなくてもよかったのです。
 総務省の公職選挙法の解釈が間違っていました。
 申し訳ありません。
   
 しかし、総務省は謝罪すらしない。
 総務省は大きく解釈を変えた。それは自分の解釈が大きく間違っていたことに気がついたからであろう。それにもかかわらず、総務省はこっそり解釈を変えただけである。
 
 総務省は、間違った公職選挙法の解釈で議員のホームページを閉鎖させた。選挙活動を妨害した。言い換えれば、市民の投票活動を妨害したのである。
 これだけの非行をおこなっていならがら、謝罪すらしない。
 総務省は謝罪するべきである。
 そして、その責任を取るべきである。
 
 当時ホームページを閉鎖した議員は当然、総務省に謝罪を求める権利がある。
 また、総務省は、組織としてこの問題の責任を取るべきである。誰がどのように間違ったため、このような大きな間違いが生じたのか。はっきりさせるべきである。
 ホームページを閉鎖させられた議員は総務省を相手に訴訟を起こせばよい。そうすれば、問題がはっきりする。そして、問題をはっきりさせなければならないのである。
 これは言わば、総務省の「薬害エイズ問題」なのである。
 
 事実ははっきりしている。十年前はホームページを閉鎖させていた。そして、今はホームページを閉鎖しなくてもいいのである。
 被害は甚大である。十年もの間、インターネットの利用が妨害されたのである。
 これだけの非行の責任を取らなくていいならば、役人というのはずいぶん楽な仕事である。 
 役人の責任を問おう。
 
 公権力の行使には責任が伴うことを自覚させよう。
 間違ったら責任を取る。
 当たり前のことである。
 
                     諸野脇@ネット哲学者

(注1)

 それに対して、私の解釈は最初から変わっていない。

  ● インターネット選挙になるべきだった選挙 -- あなたも公職選挙法に「違反」してみませんか
  ● インターネット選挙は公職選挙法違反か --「馬」は「自動車」か

 総務省の解釈と比較してもらいたい。


(注2)

 近年、総務省の解釈がさらに大きく変わっている。ホームページ・ブログの更新すら問題にしないようになってきている。次のような解釈である。
 〈選挙活動としての更新してはいけない。しかし、政治活動としての更新は問題ない。〉
 古賀しげる氏の例を思い出していただきたい。
 
  ● 古賀しげる候補のブログ更新に「感銘」を受けた刑事が訪ねて来てくださる
  
 
 古賀しげる氏は選挙期間中にブログの更新をおこなっていた。
 しかし、警察が削除を求めてきたのは次の文言を含む三行だけなのである。 

 ・「勇気ある真の改革者」、古賀しげるにぜひ投票して下さい。
 
 警察は、明確な投票呼びかけ以外は問題にしなかったのである。ブログの更新自体は問題にしなかったのである。
 政治活動としての更新は問題ない。
 それならば、十年前に〈政治活動としてならば、ホームページの開設も更新も問題ありません。〉と言えばよかったのである。
 

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