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2007年09月 アーカイブ

2007年09月01日

「法律を解釈する」という発想

 なぜ、多くの者が総務省に「お伺い」を立てるのか。
 法律で、何が禁止されているのか知りたいのであろう。
 しかし、それは危険である。次の文章で論じた。
 
  ● 〈問い合わせ〉行為自体が相手の行動を変えてしまう
 
 役人は、自分の得になるように法律を解釈する傾向があるのである。
 相手が神であるならば、「お伺い」を立ててもよい。神は公平無私である。(ということになっている。)
 しかし、役人はそうではない。
 
 総務省は次のように解釈する。 

 ホームページの公開は、公職選挙法の禁ずる「文書図画」の「頒布」である。
  
 実に、恣意的な解釈である。「ホームページを頒布(配布)した」などと言う人はいない。日本語として、不自然である。
 私は次のように解釈した。 
 ホームページの公開は「文書図画」の「頒布」ではない。
 「文書図画」を「頒布」すれば、減る。ビラ・葉書を「頒布」すれば、減る。
 しかし、ホームページは、アクセスされても減らない。
 また、ホームページにアクセスするのは、有権者の自発的行動である。
 それに対して、ビラ・葉書は、望まなくてもポストに入っている。
 だから、ホームページの公開は、選挙事務所内の資料室の公開と同様に考えるべきである。

 この解釈の方が、ずっと自然である。
 なぜ、総務省は、自然な解釈をしないのか。不自然な解釈をするのか。
 そう解釈した方が、自分が得をするからではないか。そう疑われても仕方ない。それ位、不自然な解釈なのである。
 
 上の「解釈」という語に注目してもらいたい。
 法律とは、解釈するものなのである。
 
 私は、この文章をキーボードで打っている。確かにキーボードは存在する。
 しかし、それと同じ意味では、法律は存在しない。
 法律は記号である。記号は、解釈されることによって、初めて意味が生ずるものである。解釈を離れて、固定的に意味が定まっているものではない。
 
 まず、自分で法律を解釈してみよう。
 「敵」に解釈をゆだねるようでは、その段階でもう負けである。(笑)
 自分で解釈して、なお心配ならば、弁護士・法学者の解釈を聞いてみよう。
 どの解釈が適切かを決めるのは法曹関係者なのである。
 
 おおまかに言って、どの解釈が適切かは、裁判において裁判官が決める。(裁判官の判断が間違いであるという立場はもちろんあり得るが。)
 総務省の解釈は、そのような司法の判断を一度も受けていない。
 つまり、総務省の解釈が適切であるという判断が下った訳ではない。
 
 なぜ、政治家が、たかが総務省ごときの恣意的な解釈に従っているのか。
 誠に不思議である。
 なぜ、マスコミが、総務省の恣意的な解釈に過ぎないものを事実として報道しているのか。
 誠に不思議である。
 もしかしたら、彼らの頭の中には〈「法律を解釈する」という発想〉自体が無いのかもしれない。間違って、「総務省が事実を伝えている」と誤解しているのかもしれない。「〈事実として存在する法律〉を伝えている」と誤解しているのかもしれない。
 しかし、総務省が伝えているのは事実ではない。彼らの解釈なのである。 
 
 法律は、解釈を離れて存在するものではない。
 解釈されて、初めて意味が生ずるものである。
 
 
 法律とは、解釈するものである。そして、我々は、複数の解釈のどれが適切かを争うのである。それなのに、自分で法律を解釈せず、「敵」に解釈をゆだねてしまえば、負けるに決まっている。
 法律は自分で解釈しよう。(注)
 その前に、〈「法律を解釈する」という発想〉を持とう。
 

(注)

 法律を自分で解釈するためには、法律の原文を読む必要がある。
 次のサイトで読むことが出来る。
 
  ◆ 法庫
  
 総務省の恣意的な解釈に従っている政治家は、原文を読んだのだろうか。また、その恣意的な解釈に過ぎないものを事実として報道しているマスコミ関係者は、原文を読んだのだろうか。
 読んではいないのだろう。
 まず、原文を読んで、自分で解釈しよう。
 「敵」に騙されないために。

2007年09月16日

どのように法律を解釈すればよいのか --文理解釈と論理解釈

 法律は自分で解釈しよう。
 では、どのように法律を解釈すればよいのか。
 法律の解釈を「文理解釈」と「論理解釈(体系的解釈)」に分けるのは、安定した考えである。(注) 

 1 文理解釈……法文を語・文法の通常の知識に基づき解釈する
 2 論理解釈……法文を法的文脈を考慮して解釈する。「法的文脈」とは、法文の意図などである。つまり、法文で何を実現しようとしているかなどである。

 法文の解釈においては、まず文理解釈をおこなう。日本語として普通に法文を解釈するのである。しかし、それだけでは、法文の意味が確定できないことがある。法文が二つの意味に解釈できる場合などである。その場合、論理解釈をおこなう。法文の意図などを考慮して、どの意味が正しいかを判断するのである。
 まず、この二種類の解釈を意識すればよい。 
 次の法文を見ていただきたい。
選挙運動のために使用する文書図画は、次の各号に規定する通常葉書並びに第1号及び第2号に規定するビラのほかは、頒布することができない。(公職選挙法 第142条)

 この法文を総務省(当時は自治省)は次のように解釈した。 
 ホームページの公開は「文書図画」の「頒布」である。
 
 これは奇怪な解釈である。恣意的な解釈である。
 許し難い。
 では、どうすればいいのか。 
 総務省の解釈を覆す形で、上の二種類の解釈をおこなえばよい。文理解釈と論理解釈をおこなえばよい。
 それをおこなったのが、次の二つの文章である。 
 1 文理解釈……インターネット選挙になるべきだった選挙
              --あなたも公職選挙法に「違反」してみませんか
 2 論理解釈……インターネット選挙は公職選挙法違反か
              --「馬」は「自動車」か
 
 1の文章で、私は次のように書いた。 
 ホームページの公開と「文書図画」の「頒布」とは、どう違うのか。ビラは読みたくなくても、新聞に折り込まれている。葉書も読みたくなくても、ポストに届いている。しかし、ホームページは、本人が望まなくては見ることはない。ホームページを見た人は、アドレスを自分で打ち込んだのである。または、リンクを自分でクリックしたのである。ホームページは、自発的に行動しなくては見ることが出来ない。
 だから、「ホームページの頒布を受ける」という文言には、違和感があるのである。「頒布を受ける」のではなく、「ホームページにアクセスした」のである。「ホームページを見た」のである。
 次のような比喩が正しい。
 
 〈ホームページの公開は、選挙事務所内の資料室の公開である。〉
 
 選挙事務所内に資料室ある。さまざまな政策の資料がある。その資料室は、一般に公開されている。そこに、自発的に閲覧希望者が来る。いろいろな資料を閲覧して、帰っていく。
 おこなわれているのは、〈資料室の公開〉である。「文書図画」の「頒布」ではない。これは、公職選挙法に違反していない。
 
 これは、文理解釈をおこなっているのである。法文を日本語として普通に解釈しているのである。「ホームページの公開」は、「文書図画」の「頒布」と言えるかを検討しているのである。通常の日本語では、「ホームページの公開」は「文書図画」の「頒布」とは言えないことを論証しているのである。つまり、文理解釈をおこなったのである。
 
 私は、大筋でこの検討で十分だと考えていた。しかし、総務省は〈ホームページの公開が「文書図画」の「頒布」である〉という解釈を訂正しなかった。そして、なぜか、ほとんどの政治家がその恣意的な解釈に従っていた。
 仕方がないので、念押しの文章を書くことにした。
 2の文章である。 
 公職選挙法で規定外の「文書図画」の「頒布」を禁止したのはなぜか。「頒布」できる数を制限したのはなぜか。
 公平な選挙活動を望んだからであろう。数の制限がなければ、お金を持っている者だけがたくさんのビラを「頒布」できる。これを不公平と考えたのであろう。
 確かに、ビラをたくさん作るにはお金がかかる。たくさん作れば作るほど、お金がかかる。
 しかし、ホームページの場合は、どうであろうか。アクセスが増えれば増えるほど、お金がかかるのだろうか。大筋でそんなことはないであろう。
ホームページでは、お金を持っている人だけが有利になることはない。
 ……〔略〕……
 「文書図画」の「頒布」を禁止した意図は、〈公平な選挙の実現〉であろう。
 この意図を基準に解釈すると、どうなるであろうか。ホームページの公開は〈公平な選挙の実現〉の妨げにはならない。お金を持っている人だけが有利にはならない。つまり、ホームページの公開を「文書図画」の「頒布」と解釈することは出来ない。

 これは、論理解釈をおこなっているのである。法文の意図を解釈しているのである。
 〈公平な選挙の実現〉という意図を基準にした場合、法文がどう解釈できるかを論じている。意図を基準にした場合、ホームページの公開を「文書図画」の「頒布」と解釈するべきではないことを論証した。つまり、論理解釈をおこなったのである。

 既に、私は、文理解釈と論理解釈の両方をおこなった。
 そして、どちらの解釈においても、〈インターネット上の選挙活動は禁止されていない〉ことを示した。
 
 法律の解釈には、おおざっぱに言って、文理解釈と論理解釈の二種類がある。
 この二種類を意識しよう。
 
 この二種類の解釈をおこなっておけば、まず、だいじょうぶであろう。
 裁判になっても。(笑)
 
 
(注)

 例えば、碧海純一氏は次のように言う。 

 法の解釈については、伝統的に、「文理解釈」(grammatische oder buchstäbliche Auslegung)と「論理解釈」(logische Auslegung)とが区別されてきた。文理解釈とは、法文の意味を文法の知識およびその法文を構成する語の通常の意味の知識にもとづいて説明することであり、法文が十分に明晰で、複数の解釈の余地がないばあいには、解釈は原則として文理解釈に終始する。しかし、法文が不明晰であれば、その文理解釈上の可能な意味がなんらかの見地からさらに限定されねばならない。この限定操作は、まず、その法文のおかれている〈法的文脈〉の考慮によってなされる。「法的文脈」とは、その法文と他の関係諸法文との関連、法秩序全体のなかでその法文が占める相対的な位置、一般的にみとめられる法上の諸原理、法秩序に内在する統制目的、などである。このような法的文脈への考慮にもとづいて法文の文理上可能な意味に対して加えられる限定操作がいままで「論理解釈」とよばれてきたところのものにほかならない。しかし、文理解釈をふくめて、あらゆる解釈は当然論理的でなければならないから、「論理解釈」という名称は誤解をまねきやすい。むしろ、「体系的解釈」という名称のほうが適当であろう。〔傍点を山カッコに改めた。〕
 (『新版 法哲学概論 全訂第一版』弘文堂、148ページ)

2007年09月17日

【世界選手権優勝】谷亮子選手の〈集中〉に学べ

 谷亮子選手が柔道世界選手権で優勝した。
 当然である。
 普通の人は、谷亮子選手には勝てない。
 〈集中〉が違うのである。
 
 例えば、犬の名前である。
 谷亮子選手は、犬に次のような名前を付けている。(実話) 

 五輪ちゃん、アトランタちゃん(アトランタ五輪から命名)、ピコちゃん(オリンピコから命名)、ロッキーくん(試合前に必ず見る映画『ロッキー』から命名)

 恐ろしい〈集中〉である。
 全ての犬が、柔道に関係する名前なのである。
 一時も勝負を忘れまいとする姿勢が凄い。
 こんな人と戦って勝てるとは、とても思えない。
 勝負にかける執念が違うのである。
 
 谷亮子選手は〈集中〉の人である。
 大きいことを成し遂げようと思ったら、〈集中〉しなくはいけない。
 詳しくは、次の文章を読んでもらいたい。
 
  ● ヤワラちゃん・孫正義氏の〈集中〉に学べ
 
 私の授業を語ろう。
 「夏休み」前の最後の授業で言う。 
 それでは、よい〈夏自己学習〉を!

 学生の呟きが聞こえる。 
 夏休みじゃないんだ。

 私は答える。 
 そう。夏休みじゃないんだ。〈夏自己学習〉なんだ。
 君達に休んでいる暇は無いんだ。
 
 みんなニコニコしている。楽しそうである。
 お前ら、本当に分かっているのか。
 私の「論理学」は必修だ。合格しないと、卒業できないんだぞ。
 犬の名前は「論理ちゃん」だ。分かったな。
 
 学校は〈集中〉を教える所なのだ。放っておいては、学生は〈集中〉するようにはならない。まず、課題を与えて、〈集中〉するように強制するべきなのだ。
 「夏休み」明けに大量の提出物を出させる。試験を課す。
 「夏休み」は、そのための自己学習の期間である。だから、夏休みではなく、〈夏自己学習〉なのである。
 
 何かを成し遂げるためは〈集中〉が必要である。エネルギーを分散させてはいけない。
 学生も、この原理に自覚的であるべきである。外部から強制されるだけでなく、自ら〈集中〉しようと努めるべきである。
 

2007年09月18日

〈法律は自分で解釈せよ〉という私の主張に中央官庁が賛意を表す(笑)

 〈法律は自分で解釈せよ〉と主張してきた私に大きな援軍が現れた。(笑)
 金融庁である。
 金融庁首脳は言う。 

 すべて行政に指示を仰ぐのではなく、法の趣旨を踏まえ自ら考えて行動できないのか
  (『日本経済新聞』 2007.9.14.)
 
 その通りである。
 「法の趣旨を踏まえ自ら考えて行動」すればいいのである。
 どうやら、金融庁には「指示を仰ぐ」問い合わせが殺到して、困っているらしい。(笑) 
 金融庁は金商法〔金融商品取引法〕の完全施行を目前に控え、金融機関からの問い合わせに追われている。ただ、どうすれば法違反にならないかなど、法解釈にかかわる例が多く、ひっきりなしにかかってくる電話に困惑気味だ。
 「顧客セミナーの日程を案内する資料は広告に含まれるか」「投資信託の基準価格の一覧データを顧客に送る際も、リスクの説明を明記する必要があるか」「商品を販売する時に配る資料の冒頭に、何を書かなければいけないか」--。
 (同上)
 
 金融機関は、自力でものを考えられないのか。
 このようなことは、「法の趣旨を踏まえ自ら考えて行動」すればよい。
 金融商品取引法の趣旨は〈利点だけを強調しての広告・販売の禁止〉であろう。〈利点を強調する際には、リスク・コストも同程度に強調すること〉であろう。
 上の「顧客セミナーの日程を案内する資料は広告に含まれるか」を考えてみよう。これが「広告」かどうかは、どのような「資料」かによる。ただの「日程の案内」ならば、「広告」ではない。だから、特に「リスクの説明」は必要ない。しかし、特定の商品の利点を強調する文言があった場合は、同程度に強調した「リスクの説明」が必要である。
 金融機関も、このように自力で法律を解釈すればよい。
 
 金融庁首脳はよいことを言ってくれた。
 もう一度、引用しよう。 
 すべて行政に指示を仰ぐのではなく、法の趣旨を踏まえ自ら考えて行動できないのか

 総務省にも、金融庁と同じように腹の太いところを見せてもらいたい。
 腹が太ければ、総務省は候補者やブロガーから問い合わせに次のように応えるはずである。 
 公職選挙法の趣旨を踏まえて、自ら考えて行動してください。
 
 やるな。総務省。(笑)

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