「法律を解釈する」という発想
なぜ、多くの者が総務省に「お伺い」を立てるのか。
法律で、何が禁止されているのか知りたいのであろう。
しかし、それは危険である。次の文章で論じた。
● 〈問い合わせ〉行為自体が相手の行動を変えてしまう
役人は、自分の得になるように法律を解釈する傾向があるのである。
相手が神であるならば、「お伺い」を立ててもよい。神は公平無私である。(ということになっている。)
しかし、役人はそうではない。
総務省は次のように解釈する。
ホームページの公開は、公職選挙法の禁ずる「文書図画」の「頒布」である。
実に、恣意的な解釈である。「ホームページを頒布(配布)した」などと言う人はいない。日本語として、不自然である。
私は次のように解釈した。
ホームページの公開は「文書図画」の「頒布」ではない。
「文書図画」を「頒布」すれば、減る。ビラ・葉書を「頒布」すれば、減る。
しかし、ホームページは、アクセスされても減らない。
また、ホームページにアクセスするのは、有権者の自発的行動である。
それに対して、ビラ・葉書は、望まなくてもポストに入っている。
だから、ホームページの公開は、選挙事務所内の資料室の公開と同様に考えるべきである。
この解釈の方が、ずっと自然である。
なぜ、総務省は、自然な解釈をしないのか。不自然な解釈をするのか。
そう解釈した方が、自分が得をするからではないか。そう疑われても仕方ない。それ位、不自然な解釈なのである。
上の「解釈」という語に注目してもらいたい。
法律とは、解釈するものなのである。
私は、この文章をキーボードで打っている。確かにキーボードは存在する。
しかし、それと同じ意味では、法律は存在しない。
法律は記号である。記号は、解釈されることによって、初めて意味が生ずるものである。解釈を離れて、固定的に意味が定まっているものではない。
まず、自分で法律を解釈してみよう。
「敵」に解釈をゆだねるようでは、その段階でもう負けである。(笑)
自分で解釈して、なお心配ならば、弁護士・法学者の解釈を聞いてみよう。
どの解釈が適切かを決めるのは法曹関係者なのである。
おおまかに言って、どの解釈が適切かは、裁判において裁判官が決める。(裁判官の判断が間違いであるという立場はもちろんあり得るが。)
総務省の解釈は、そのような司法の判断を一度も受けていない。
つまり、総務省の解釈が適切であるという判断が下った訳ではない。
なぜ、政治家が、たかが総務省ごときの恣意的な解釈に従っているのか。
誠に不思議である。
なぜ、マスコミが、総務省の恣意的な解釈に過ぎないものを事実として報道しているのか。
誠に不思議である。
もしかしたら、彼らの頭の中には〈「法律を解釈する」という発想〉自体が無いのかもしれない。間違って、「総務省が事実を伝えている」と誤解しているのかもしれない。「〈事実として存在する法律〉を伝えている」と誤解しているのかもしれない。
しかし、総務省が伝えているのは事実ではない。彼らの解釈なのである。
法律は、解釈を離れて存在するものではない。
解釈されて、初めて意味が生ずるものである。
法律とは、解釈するものである。そして、我々は、複数の解釈のどれが適切かを争うのである。それなのに、自分で法律を解釈せず、「敵」に解釈をゆだねてしまえば、負けるに決まっている。
法律は自分で解釈しよう。(注)
その前に、〈「法律を解釈する」という発想〉を持とう。
(注)
法律を自分で解釈するためには、法律の原文を読む必要がある。
次のサイトで読むことが出来る。
◆ 法庫
総務省の恣意的な解釈に従っている政治家は、原文を読んだのだろうか。また、その恣意的な解釈に過ぎないものを事実として報道しているマスコミ関係者は、原文を読んだのだろうか。
読んではいないのだろう。
まず、原文を読んで、自分で解釈しよう。
「敵」に騙されないために。