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2015年08月 アーカイブ

2015年08月18日

【いじめ論18】いじめは社会的ジレンマなのである

 「社会的ジレンマ」とは、次のような特徴がある状況であった。

 a 一人ひとりの個人としては、協力を選択するより非協力を選択した方が得をする。
 b しかし、全員が非協力を選択した場合は、全員が損をする。

 いじめは社会的ジレンマである。(注)
 この二つの特徴を持っているのである。

 a 一人ひとりの個人としては、傍観者になる方が得である。
 b しかし、全員が傍観者になった場合は、全員が損をする。

 ある子供がいじめを見たとする。個人としては傍観する方が得である。止めようとするのは危険なのである。いじめを止めようとした結果、いじめられたという話を多く聞く。

 グループ内の交換日記に、順番にいじめがはじまり、次は誰をターゲットにするかというなかで、晶子さんがやめようと言い出したことでやられはじめたと書いていた。
 (武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、2004年、65ページ)

 いじめられたきっかけは「やめようと言い出した」ことである。いじめを止めようとした結果、自分がいじめられることになってしまったのである。
 いじめを止めようとするのは危険である。だから、傍観者になるのは、個人としては楽な「選択」である。得な「選択」である。
 しかし、全員が傍観者になり誰もいじめを止めないと、いじめが横行する状態になってしまう。それは、学級の成員全員にとって損な状態である。
 先に、学級が荒れたため受験で苦労したという事例を挙げた。

 現在中三なので受験生ですが、この時の仲間のほとんどは、小学校時代の基礎ができていなかった為からか、とても苦労しています。
 (朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、1999年、41ページ)

 この子供の学級は荒れてしまい、小学六年生の一年間、満足に学習が出来ない状態になってしまった。そのため「基礎ができていな」い状態になってしまった。受験で苦労することになってしまった。
 荒れて、いじめが横行する学級で勉強をするのは難しい。生活するのは難しい。いじめが横行する学級では、全員が損をする。
 全員が損をしたのは、一人ひとりが個人として得な傍観を「選択」した結果なのである。個人として得な「選択」した結果、全体としては全員が損をする状態になってしまう。
 これは正に社会的ジレンマである。
 いじめは社会的ジレンマなのである。


(注)

 いじめを社会的ジレンマと捉える発想は次の論文にある。
 
  明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」
   『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年

 また、次の本にもある。
 
  山岸俊男『日本の「安心」はなぜ消えたのか』集英社、2008年
 

2015年08月28日

【いじめ論19】クールビズ問題も社会的ジレンマだった

 結局、いじめは全員にとって損である。しかし、全員が損をするいじめをやめることが出来ない。それはいじめが社会的ジレンマだからである。
 同様の事例を見てみよう。全員が損をしている状態を変えられなかった事例である。
 日本の夏は暑い。しかし、数年前までは、多くの会社員が上着を着てネクタイを締めていた。これは明らかに夏に適した服装ではなかった。汗だくになりながら、全員が苦しい思いをしていた。快適性という点では不合理であった。
 また、エネルギーの無駄であった。上着を着て快適なように冷房を強くせざるを得なかった。
 だから、だいぶ前からクールビズが提唱されていた。夏は、涼しい服装をしようというのである。政府も旗を振った。古くは、1970年代の省エネルックである。
 しかし、会社員の服装はほとんど変わらなかった。それは、この問題が社会的ジレンマだったからである。
 全員が上着を着てネクタイをしている状態で、自分だけ軽装になる訳にはいかない。
 服装は相手に対する敬意の表現でもある。だから、自分だけ軽装になった場合、相手が敬意を表しているのに自分は表さないことになってしまう。
 だから、全員がネクタイをしている集団内で、一人だけネクタイをしないのは困難である。「失礼な奴」と思われる可能性が高いのである。「失礼な奴」と思われるくらいならば、ネクタイを締めた方が得である。
 つまり、ネクタイを締めるのは、一人ひとりにとっては得な選択だった。そして、一人ひとりが自分にとって得な行動をした結果、社会全体としては大きな損失になってしまった。
 これは社会的ジレンマである。

 a 一人ひとりの個人としては、ネクタイを締めた方が締めないより得をする。
 b しかし、全員がネクタイを締めた場合は、全員が損をする。

 上着を着てネクタイを締めたせいで、暑さで体調を崩す。上着を着た人を基準にオフィスの冷房の温度が設定されて、エネルギーの無駄になる。冷え性の人が冷房の寒さで体調を崩す。
 これは全員が損をしている。しかし、それをやめることは出来なかった。
 なぜか。全員が同時にネクタイを外すのならば、外せる。「いっせいのせ」で全員がネクタイを外すなら、外せる。しかし、一人だけ外すことは出来ない。「失礼な奴」と思われてしまうからだ。
 政府がクールビズを勧めようと、状況は同じである。政府の勧めに従って、みんながネクタイを外すなら、外せる。しかし、みんなが政府の勧めに従うことはありえない。それならば外さない「選択」をする方が得である。
 羽田孜元首相を思い出してみよう。羽田孜元首相は省エネルックを一人だけ着続けて、変人扱いされてた。変人扱いされても着続けるのは信念の人である。信念の人しか大多数と違う服装は出来なかった。
 政府の勧めに国会議員すら従わなかったのである。国会議員すら従わない政府の呼びかけに一般国民が従うはずがない。
 政府が呼びかけたくらいでは、クールビズ問題は解決しなかった。(注)
 それはクールビズ問題が社会的ジレンマだったからである。


(注)
 クールビズ問題は数年前にかなり改善された。
 なぜ、改善されたのか。それはこの先の文章で論ずる。

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