【いじめ論18】いじめは社会的ジレンマなのである
「社会的ジレンマ」とは、次のような特徴がある状況であった。
a 一人ひとりの個人としては、協力を選択するより非協力を選択した方が得をする。
b しかし、全員が非協力を選択した場合は、全員が損をする。
いじめは社会的ジレンマである。(注)
この二つの特徴を持っているのである。
a 一人ひとりの個人としては、傍観者になる方が得である。
b しかし、全員が傍観者になった場合は、全員が損をする。
ある子供がいじめを見たとする。個人としては傍観する方が得である。止めようとするのは危険なのである。いじめを止めようとした結果、いじめられたという話を多く聞く。
グループ内の交換日記に、順番にいじめがはじまり、次は誰をターゲットにするかというなかで、晶子さんがやめようと言い出したことでやられはじめたと書いていた。
(武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、2004年、65ページ)
いじめられたきっかけは「やめようと言い出した」ことである。いじめを止めようとした結果、自分がいじめられることになってしまったのである。
いじめを止めようとするのは危険である。だから、傍観者になるのは、個人としては楽な「選択」である。得な「選択」である。
しかし、全員が傍観者になり誰もいじめを止めないと、いじめが横行する状態になってしまう。それは、学級の成員全員にとって損な状態である。
先に、学級が荒れたため受験で苦労したという事例を挙げた。
現在中三なので受験生ですが、この時の仲間のほとんどは、小学校時代の基礎ができていなかった為からか、とても苦労しています。
(朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、1999年、41ページ)
この子供の学級は荒れてしまい、小学六年生の一年間、満足に学習が出来ない状態になってしまった。そのため「基礎ができていな」い状態になってしまった。受験で苦労することになってしまった。
荒れて、いじめが横行する学級で勉強をするのは難しい。生活するのは難しい。いじめが横行する学級では、全員が損をする。
全員が損をしたのは、一人ひとりが個人として得な傍観を「選択」した結果なのである。個人として得な「選択」した結果、全体としては全員が損をする状態になってしまう。
これは正に社会的ジレンマである。
いじめは社会的ジレンマなのである。
(注)
いじめを社会的ジレンマと捉える発想は次の論文にある。
明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」
『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年
また、次の本にもある。
山岸俊男『日本の「安心」はなぜ消えたのか』集英社、2008年