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教育一般 アーカイブ

2007年09月17日

【世界選手権優勝】谷亮子選手の〈集中〉に学べ

 谷亮子選手が柔道世界選手権で優勝した。
 当然である。
 普通の人は、谷亮子選手には勝てない。
 〈集中〉が違うのである。
 
 例えば、犬の名前である。
 谷亮子選手は、犬に次のような名前を付けている。(実話) 

 五輪ちゃん、アトランタちゃん(アトランタ五輪から命名)、ピコちゃん(オリンピコから命名)、ロッキーくん(試合前に必ず見る映画『ロッキー』から命名)

 恐ろしい〈集中〉である。
 全ての犬が、柔道に関係する名前なのである。
 一時も勝負を忘れまいとする姿勢が凄い。
 こんな人と戦って勝てるとは、とても思えない。
 勝負にかける執念が違うのである。
 
 谷亮子選手は〈集中〉の人である。
 大きいことを成し遂げようと思ったら、〈集中〉しなくはいけない。
 詳しくは、次の文章を読んでもらいたい。
 
  ● ヤワラちゃん・孫正義氏の〈集中〉に学べ
 
 私の授業を語ろう。
 「夏休み」前の最後の授業で言う。 
 それでは、よい〈夏自己学習〉を!

 学生の呟きが聞こえる。 
 夏休みじゃないんだ。

 私は答える。 
 そう。夏休みじゃないんだ。〈夏自己学習〉なんだ。
 君達に休んでいる暇は無いんだ。
 
 みんなニコニコしている。楽しそうである。
 お前ら、本当に分かっているのか。
 私の「論理学」は必修だ。合格しないと、卒業できないんだぞ。
 犬の名前は「論理ちゃん」だ。分かったな。
 
 学校は〈集中〉を教える所なのだ。放っておいては、学生は〈集中〉するようにはならない。まず、課題を与えて、〈集中〉するように強制するべきなのだ。
 「夏休み」明けに大量の提出物を出させる。試験を課す。
 「夏休み」は、そのための自己学習の期間である。だから、夏休みではなく、〈夏自己学習〉なのである。
 
 何かを成し遂げるためは〈集中〉が必要である。エネルギーを分散させてはいけない。
 学生も、この原理に自覚的であるべきである。外部から強制されるだけでなく、自ら〈集中〉しようと努めるべきである。
 

2010年10月19日

「ハーバード白熱教室」批判 ――サンデル教授の「対話型講義」は授業としてダメ

 「ハーバード白熱教室」がブームである。NHKの番組はDVDとして発売され、サンデル教授の著書『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)はベストセラーになった。

   http://www.nhk.or.jp/harvard/

 しかし、サンデル教授の「白熱教室」は「白熱」していないし、「教室」でもない。サンデル教授の「対話型講義」は授業としてダメなのである。
 この趣旨をツイッターで詳しく述べた。
 

諸野脇 正 の Twitter

ハーバード白熱教室批判1 「ハーバード白熱教室」なるものが流行っているようである。しかし、「ハーバード白熱教室」は、「白熱」していないし「教室」でもない。授業としてダメなのである。以下、この趣旨を論ずる。

ハーバード白熱教室批判2 サンデル教授の本の著者紹介を見る。「講義の名手」とある。授業で「講義」などしてはいけない。「講義」をすること自体が授業がヘタである証拠である。

ハーバード白熱教室批判3 つまり、「講義の名手」とは「駄文の名手」のような表現なのである。サンデル教授は「駄文の名手」であるらしい。(苦笑)

ハーバード白熱教室批判4 「講義」とは「学説…を口頭で説明すること」(大辞林)である。なぜ、「口頭で説明」するのか。人の話を聞くのは楽なのである。だらけやすいのである。

ハーバード白熱教室批判5 だから、学生は、居眠り・私語・内職などをすることが可能である。サンデル教授の授業は千人が入る大講堂でおこなわれている。学生がだらけるのは簡単である。

ハーバード白熱教室批判6 居眠りなどのはっきりした「非行」がなくも、学生は楽なのである。人が話すのを聞くのは楽なのである。学生が緊張しているつもりでも、それは本人がそう思っているだけに過ぎないのである。

ハーバード白熱教室批判7 こう考えれば、分かり易い。サンデル教授と学生とどちらが緊張して頭を使っているか。それは、話をしているサンデル教授である。サンデル教授は頭を使い話をする内容を考えている。学生にはそのような必要はない。

ハーバード白熱教室批判8 これは当然の原理を述べただけである。ライブをするバンドと観衆ではどちらが緊張するか。劇をする俳優と観衆ではどちらが緊張するか。舞台の上で何かをする方が緊張するに決まっている。

ハーバード白熱教室批判9 つまり、「講義」では一番緊張するのはサンデル教授なのである。つまり、一番勉強になっているのはサンデル教授なのである。

ハーバード白熱教室批判10 これでは、サンデル教授によるサンデル教授のための授業である。授業をすればするほど、サンデル教授は勉強になる。新しい本が書けるかもしれない。

ハーバード白熱教室批判11 しかし、サンデル教授の授業は、学生にとっては勉強にはならない。サンデル教授が勉強になるほどは勉強にはならない。

ハーバード白熱教室批判12 学生がこの授業で本が書けるような内容を発見することはない。それは、人の話を聞くのは楽だからである。自分では自覚していなくてもだらけているからである。

ハーバード白熱教室批判13 この私の批判に対して次のような反論が考えられる。「サンデル教授の授業は対話型講義である」しかし、サンデル教授の授業は「沈黙型講義」と呼んだ方が実態に近い。

ハーバード白熱教室批判14 千人の中で発言している学生は数人である。つまり、ほとんどの学生は沈黙しているのである。だから、「沈黙型講義」である。(笑)

ハーバード白熱教室批判15 まず、千人もの学生に対して授業をするのが間違っている。ハーバード大学にはお金が無いのか。そんなはずはない。せめて、十分割して、百人の教室にするべきである。

ハーバード白熱教室批判16 千人もの学生をいっぺんに教えようとすれば、学生は沈黙していても済む。それでは、だらける学生が増える。

ハーバード白熱教室批判17 千人の教室という存在自体が過去の産物なのである。数百年前は役に立ったものである。なぜ、昔は役に立ったのか。それは印刷物が高価だったからである。

ハーバード白熱教室批判18 巨大教室が必要だったのは、印刷物が高価だったから。印刷物が高価だったので、教師が「学説を口頭で説明」し学生がノートに筆記する必要があった。それならば大人数を対象にした方が効率がよい。

ハーバード白熱教室批判19 「講義」は印刷物の代わりだった。つまり、学説を印刷物で伝えることが出来ないので口頭で伝えていたのである。しかし、印刷物は安くなった。学説を理解したければ、学生が自分で本を読めばいいのである。

ハーバード白熱教室批判20 つまり、「講義」自体が時代遅れなのである。数百年前に役に立った方法を繰り返しているだけなのである。ちなみに、ハーバード大学の歴史は三百年近くある。そのころには、「講義」は役に立っただろう。

ハーバード白熱教室批判21 先程、サンデル教授の授業を「沈黙型講義」と批判した。しかし、数人の学生が発言しているのは事実である。その数人の学生とサンデル教授は「対話」をしている。この事実をどう考えるか。

ハーバード白熱教室批判22 数人の学生は発言している。サンデル教授がそれに応えている。一見、対話のように見える。しかし、それはサンデル教授の学説を説明するための「ダシ」にされているに過ぎない。

ハーバード白熱教室批判23 学生の発言は「ダシ」にされている。結論は最初から決まっている。「功利主義」「自由至上主義」などの概念を理解することである。これが対話か。

ハーバード白熱教室批判24 サンデル教授は授業の最初に言う。「『正義』について考えていきたい」私が次のように言ったとする。「なぜ、政治哲学の授業で『正義』を考える必要があるのか。」サンデル教授はどうするか。

ハーバード白熱教室批判25 さらに、私が次のように言ったとする。「『正義』概念を持っていないために現実の政治に何か問題が起こっているのか。例えば、湾岸戦争はどうか。」これにサンデル教授が応えたすれば対話である。

ハーバード白熱教室批判26 しかし、実際には、学生の発言は、サンデル教授が自身の学説を説明するための「ダシ」に使われているに過ぎない。サンデル教授が教える内容は前もって決まっているのだ。

ハーバード白熱教室批判27 学生の発言によって、サンデル教授が教える概念を変えることはない。つまり、これは、対話ではなく「対話風講義」である。

ハーバード白熱教室批判28 だから、サンデル教授がおこなっているのはやはり「講義」に過ぎない。学生の発言を「ダシ」にして、自分の学説を教えているに過ぎない。

ハーバード白熱教室批判29 問題は沈黙してた九百数十人の頭の中である。授業で問題なのは学生の頭の中が変わったかどうか。話された言葉がいくら「白熱」していても意味はない。学生全員の頭の中が「白熱」していなければならない。

ハーバード白熱教室批判30 黙っていた九百数十人の頭の中はあまり「白熱」してはいないだろう。あまり勉強になってはいないだろう。サンデル教授や発言した学生と比べれば。人の話を聞くのはどうしても楽なのである。

ハーバード白熱教室批判31 だから、教師は全員に活動をさせるような工夫を考えるのである。確かに、サンデル教授も学生に賛否を挙手させていた。これはよい。しかし、どちらにも手を上げない学生がいた。これは問題である。

ハーバード白熱教室批判32 賛否の挙手しない学生は授業に参加していない。だらけている可能性が高い。サンデル教授はそれを見逃している。このような場合、どうすればいいのか。

ハーバード白熱教室批判33 次のように言えばいい。「賛成の者はノートにマル、反対の者はバツをつけなさい。必ずどちらかをつけなさい。」その後、挙手をさせればよい。これで全員の手が上がる。

ハーバード白熱教室批判34 もし、挙手しなかった者がいたら、その者を指名して理由を問えばよい。「追及」すればよい。こうすれば全員が必ず授業に参加するようになる。自分の意見を持たざるを得なくなる。

ハーバード白熱教室批判35 サンデル教授は問題を出して、その答えを発表させる。その答も全員ノートに書かせるべきである。そうすれば、全員が考えざるを得なくなる。だらけていることが困難になる。

ハーバード白熱教室批判36 そして、教師は学生のノートを見て回る。(そのためには千人教室は大き過ぎる。コンサートじゃないんだから。苦笑)サンデル教授はどうして、ステージから降りて学生の様子を確かめないのか。

ハーバード白熱教室批判37 サンデル教授は、なぜ、挙手した学生を指名するのか。挙手していない学生こそ指名するべきである。つまり、考えがはっきりしていない学生こそ指名して指導するべきである。

ハーバード白熱教室批判38 挙手した学生を指名するのは、優等生だけで授業を進めていくことである。挙手できない学生は発表できない状態のまま放置される。これは「公平」か。(苦笑)

ハーバード白熱教室批判39 千人の学生全員の頭の中を進歩させる必要がある。そのためには、千人全員を授業に参加させなくてはならない。千人全員を緊張させ、考えさせなくてはいけない。これは大変なことである。

ハーバード白熱教室批判40 しかし、サンデル教授はそのための工夫をしていない。千人の学生全員を授業に参加させる工夫をしていない。挙手して発言できる数人の優等生だけで授業を進めてしまっている。

ハーバード白熱教室批判41 サンデル教授は本を出している。それならば、学生に授業の前にその本を自分で読ませればよい。そして、サンデル教授の論に対する批判を書かせて提出させればよい。千人全員に提出させればよい。

ハーバード白熱教室批判42 批判を発想するためには、学生は真剣にサンデル教授の本を読まざるを得なくなる。そして、サンデル教授は授業でその批判に応える。この形ならば、千人の学生全員に思考させることが可能である。

ハーバード白熱教室批判43 「講義」と「授業」とは違う。「講義」は「口頭で学説を説明すること」である。「授業」は「全員の頭を進歩させること」である。この意味で、サンデル教授の行為は「授業」ではない。「講義」に過ぎない。

ハーバード白熱教室批判44 サンデル教授は恐ろしく授業がヘタなのである。自分でそのヘタさを自覚すべきである。既に論じたように、学生全員を思考させる発想がない。一人ひとりを伸ばそうとしていない。学生をマスとして扱っている。

ハーバード白熱教室批判45 念のため書く。ほとんどの日本の大学教師よりサンデル教授の方がよい「講義」をしている。しかし、所詮「講義」である。既に述べたように「講義」は歴史的使命を終えている。「講義」はするべきではない。

 サンデル教授は「講義」ではなく、「授業」をするべきだった。「口頭で学説を説明する」のではなく、「全員の頭を進歩させる」べきだった。千人全員の頭を進歩させるべきだった。
 大学で「講義」をするべきではない。既に、この趣旨は宇佐美寛氏が詳しく述べていた。『大学の授業』・『大学授業入門』・『大学授業の病理』などの著書で詳しく述べていた。
 
   http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%89F%8D%B2%94%FC%8A%B0%81@%91%E5%8Aw
 
 宇佐美寛氏の本を一冊でも読んでいたら、サンデル教授は「講義」などできなかったはずである。たぶん、サンデル教授は日本語は読めないだろう。
 しかし、アメリカでもさまざまな教育研究がおこなわれている。例えば、デューイはアメリカ人だ。(注)
 サンデル教授は教育研究の業績に学んでいない。教育研究の業績と「対話」していない。
 サンデル教授が「対話」していない。
 これは悲しい矛盾である。
 
                    諸野脇@ネット哲学者
 
 
(注)

 デューイが「講義」を批判した文章は発見できなかった。しかし、「なすことによる学び」(Learing by doing)を主張するデューイは、原理的には「講義」を批判するはずである。「講義」を聞くことは「doing」ではないからである。

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