« 2015年03月 | メイン | 2015年05月 »

2015年04月 アーカイブ

2015年04月26日

【いじめ論9】〈いじめの「原因」〉ではなく〈いじめの発生メカニズム〉を問うべき

 「心の教育」という考えはナンセンスである。「運をよくしよう」いう考えと同じくらいナンセンスである。既に、詳しく説明した通りである。
 確かに、我々は次のように言うことがある。
 

 「最近、運がよい。」
 
 これは、よいことが続いているという意味である。宝くじに当たったり、会ったことも無いブラジルのおじさんの遺産を相続することになったりしたのであろう。
 しかし、「運」が実体として存在する訳ではない。ある状態を「運がいい」と表現できるだけである。事後的に「運」という語を使って、その状態をそう表現できるだけである。
 だから、「運」を実体化して、次のように考えるのは問題である。
 
 「運をよくするためにはどうしたらいいだろうか。」
 
 このように考えては、間違った方向に行動してしまう可能性がある。
 例えば、次のような行動を引き起こす可能性がある。負けが続いている野球チームがベンチに塩を盛ったりする。勝ち続けているチームのキャッチャーが同じパンツをはき続けたりする。
 このような行動は本筋から外れている。(また、不潔である。)
 チームが負け続けている理由を考えるためには、別の種類の語を使わなくてはならない。その事実を見えにくくする点で、「運」という語は有害である。「運」という語は事実を明らかにするためには使えない。
 「心」という語もこれと同様である。
 教育関係者が次のよう言ったらどうだろうか。
 
 「心を善くするためにはどうしたらいいのか。」
 
 〈「心の教育」を推進すればいい〉となるのであろう。これは、とんでもない間違いである。「運」をよくしようと考えて、ベンチに塩を盛ったりパンツをはき替えなかったりするレベルの間違いである。
 プロ野球の監督ならば、連敗の理由を「運」に帰結させるべきではない。より具体的なレベルの事実に帰結させるべきであろう。例えば、先発メンバーの選択ミス、投手の交代時期のミス、バント・ヒットエンドランなどの作戦の選択ミスなどである。
 教育関係者もこれと同様である。
 「心」ではなく、具体的なレベルの事実の検討が必要である。
 確かに、一般的な領域では、「心」という語は一定の役に立っている。(注)
 しかし、教育方法を構想する領域では「心」という語は役に立たない。「心」という語は害になる。
 いじめ問題を「心」という語を使って説明しようという試みも有害である。いじめの「原因」が「心」だと考えると、次のような間違った教育方法を導くことになる。〈一人ひとりの心が悪いからいじめが起こる。だから、「心の教育」を強化しなければならない〉
 「心」という語は有害である。
 なぜ、「心」という語を使いたくなるのか。
 
 「いじめの原因は何か。」
 
 この問いが「思考法の病気」を引き起こす。
 「いじめの原因」と名詞で表現すると、「いじめの原因」があるような気がしてくる。単純な答えがあるような気がしてくる。「いじめの原因は、心・道徳意識の悪さである」などと言いたくなる。「心・道徳意識」に「原因」を求めたくなる。
 「いじめの原因は何か」と問うのではなく、「いじめはどのようなプロセスで発生するのか」と問うべきである。「いじめがある集団はどのような状態なのか」と問うべきである。
 〈いじめの「原因」〉ではなく〈いじめの発生メカニズム〉を問うべきである。〈いじめの過程〉を問うべきである。〈いじめの事実〉を問うべきである。
 事実の確認をすっ飛ばして「原因」を問うことが、「思考法の病気」を引き起こす。擬似的・事後的な説明に過ぎない「心・道徳意識」を「原因」だと考えるようになってしまう。
 〈いじめの事実〉を明らかにするが言葉が必要なのである。
 
 
 
(注)
 
 我々は次のように言うことが出来る。
 
 「心が苦しい。」
 
 この言葉で、我々は意味のある会話ができる。友人は心配してくれるであろう。これはこれでよい。
 「心」という語は、ある状況では十分役に立つ。
 しかし、ある領域で役に立つ語が別の領域では役に立たない。教育方法を考えるためには害になる。
 この事実に注目いただきたい。

About 2015年04月

2015年04月にブログ「諸野脇 正の闘う哲学」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2015年03月です。

次のアーカイブは2015年05月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34