« 2015年04月 | メイン | 2015年06月 »

2015年05月 アーカイブ

2015年05月03日

【いじめ論10】間違った〈いじめ認識〉が間違った〈いじめ対策〉を導く

 何か問題が起こった時に、「心・意識」に「原因」を求めるのは簡単なことである。それは、飲み屋の野球談義に似ている。飲み屋で、贔屓のチームが負けた理由を「気合いが足りなかった」「向かっていく気持ちが足りなかった」など話すのである。つまり、「心・意識」に問題があることにするのである。このような発言は非常に簡単に出来る。現実を詳しく検討しなくても、いくらでも出来る。
 これは野球ファンのストレス発散なのである。「心・意識」に「原因」を求めて、ファンがストレス発散をするのはあまり害は無い。
 しかし、そのようなことをいくら言っても、チームが負けた理由ははっきりしない。そして、チームを強くする方法も分からない。
 だから、チームの監督やコーチが飲み屋レベルの野球談義をしていたら大きな問題である。監督やコーチが「気合いが足りなかった」「向かっていく気持ちが足りなかった」などと言っていたら大きな問題である。
 同様に文部科学省が飲み屋談義レベルであるのは大きな問題である。「『いじめは人間として絶対に許されない』という認識を徹底できなかった」などと言っているのは大きな問題である。それでは、〈いじめの事実〉が明らかにならない。いじめを解決する方法も分からない。
 そして、文部科学省は飲み屋の談義レベルの認識に基づき、対策を立ててしまう。
 教育再生実行会議は「いじめの問題等への対応について」で言う。

 1.心と体の調和の取れた人間の育成に社会全体で取り組む。道徳を新たな枠組みによって教科化し、人間性に深く迫る教育を行う。   いじめの問題が深刻な事態にある今こそ、制度の改革だけでなく、本質的な問題解決に向かって歩み出さなければなりません。  (「いじめの問題等への対応について(第一次提言)抜粋」平成25年2月26日 教育再生実行会議)

 「いじめの問題等への対応」のために「道徳」を「教科化」せよ、と首相直属の諮問機関である教育再生実行会議が提言したのである。
 この提言を受け、現実に「道徳」が「教科化」されようとしている。
 つまり、「心・意識」がいじめの「原因」であるという認識が、間違った対策を導いたのである。文部科学省は飲み屋の談義レベルの認識に基づき、アホらしい対策を立てしまったのである。
 教育再生実行会議は先の提言において言う。

 ○ 子どもが命の尊さを知り、自己肯定感を高め、他者への理解や思いやり、規範意識、自主性や責任感などの人間性・社会性を育むよう、国は、道徳教育を充実する。

 これは、飲み屋で「気合いが足りなかった」「向かっていく気持ちが足りなかった」などと言うのと同じレベルである。
 このように文部科学省や首相直属の諮問機関の認識が飲み屋の野球談義レベルであるのは大きな問題である。それでは、〈いじめの事実〉が明らかにならず、有効な対策が立てられないからである。
 間違った〈いじめ認識〉を基にしていては、有効な〈いじめ対策〉を作ることは出来ない。有効な対策のためには、正しいいじめ認識が必要である。
 次回以降の論述で〈いじめの事実〉を明らかにする。〈いじめの過程〉をい明らかにする。〈いじめの発生メカニズム〉を明らかにする。
 つまり、私がおこないたいのは、〈いじめ認識〉のパラダイム転換である。いじめを捉える枠組み自体を変えることである。いじめを「心・道徳意識」の問題と捉える枠組みに代わる新しい枠組みを提供することである。

2015年05月10日

【いじめ論11】女子高生のスカート長さが東京と大阪で違う理由

 〈いじめ〉を理解するために事例を分析する。重要な事例である。

 女子高生のスカートの長さ

 東京に住んでいると、短いスカートの女子高生ばかり見る。極端なミニの女子高生もいる。女子高生と言えば、ミニスカートという意識がある。
 しかし、大阪に赴任した日経新聞の記者は言う。

 大阪に赴任した際、街中で見かける女子高生の制服のスカート丈が長いことに驚いた。東京ではふとももが見えるミニが主流だったのに、こちらはふくらはぎが半分隠れるくらい長い生徒が目立つ。独自のファッション感覚なのか。  (『日本経済新聞』2013年12月22日) http://www.nikkei.com/article/DGXNASIH1100H_R11C13A2AA1P00/

 大阪では「スカートの丈が長い」のだ。
 東京と大阪では、スカートの長さが大きく違う。東京はミニスカート。大阪はロングである。
 大阪の女子高生はロングスカートを着る「理由」を次のように述べる。

 府立高2年生は「短いのは安っぽいし、昔っぽい」ときっぱり。10人以上に聞いたが、学校では長い丈が主流という。「冬は防寒、夏は日焼け対策」という説明にもうなずける。(同上)

 「冬は防寒、夏は日焼け対策」と言う。しかし、これは「後づけの理由」に過ぎない。この女子高生は、自分がスカートを長くしている理由を自覚できていないのだ。
 現に、大阪より寒い東京ではスカートは短い。夏には、日にも焼けるだろう。それにも関わらず、東京ではスカートは短いのである。「防寒」や「日焼け対策」が理由ならば、東京でもスカートは長くなるはずだ。大阪の女子高生だけ「防寒」や「日焼け対策」への意識が高いのか。それは違う。
 ずばり言えば、大阪の女子高生がスカートを長くしている理由は次の通りである。

 周りの仲間が長くしているから。

 「短いのは安っぽいし、昔っぽい」とは〈周りの仲間が短くしていない〉の言い換えに過ぎない。大阪では、周りの仲間がスカートを長くしている。だから、この女子高生も長くしているのだ。
 例えば、「冬は防寒、夏は日焼け対策」と語っていた大阪の女子高生が東京に引っ越したと仮定してみよう。どうなるだろうか。

 周りのスカートの長さにに合わせて、スカートが短くなる。

 「冬は防寒、夏は日焼け対策」が理由ならば、スカートの長さは変わらないはずである。しかし、スカートの長さは変わるだろう。
 大阪から東京に引っ越した女子高生が一人だけ違った格好をするのは難しい。だから、周りと同じ長さに変わるだろう。つまり、ミニスカートに変わるだろう。
 現に、東京の女子高生は言っている。

 東京の女子高生に大阪の写真を見せると「東京だと浮くけど、かわいい」と評判は上々。(同上)

 長いスカートを着ていると、「東京だと浮く」のだ。大阪からの転校生が一人だけスカートを長くし続けるのは困難である。
 だから、東京に引っ越した大阪の女子高生のスカートは短くなる。東京の女子高生の長さになる。
 この大阪の女子高生がロングスカートを着る「理由」を述べたのと同じように、東京の女子高生もミニスカートを着る「理由」を述べている。

 「長いとスタイルが悪く見える。膝上15センチメートルにハイソックスかタイツを履くのが奇麗な脚の黄金比。私服は長めのスカートが好きな子も、制服はミニが普通」(同上)

 「長いとスタイルが悪く見える」のでミニスカートにしていると言うのだ。これも「後づけの理由」に過ぎない。
 次の部分に注目して欲しい。「私服は長めのスカートが好きな子も、制服はミニが普通」
 「長いとスタイルが悪く見える」ならば、私服でも「ミニが普通」になるはずである。私服では「スタイルが悪く見え」てもよいのか。よくはないだろう。
 私服と制服でスカートの長さが変わっているのである。制服ではミニスカートを着なければならない理由がある。
 それは、周りの仲間がミニスカートを着ているからだ。それこそ、寒かろうが日に焼けようがミニスカートを着なくてはならない。そうしないと「東京だと浮く」のだから。
 この〈女子高生のスカートの長さ〉と〈いじめ〉は似ている。
 どう似ているのか。
 今後、詳しく論じていく。

2015年05月17日

【いじめ論 番外編3】 「無法地帯」では、いじめが多発する

 いじめが事件化すると学校関係者がよく次のように発言する。

 いじめのサインに気がつかなかった。

 このような発言は虚偽である場合が多い。(注)
 実例を見てみよう。鹿川裕史君が自殺した事件である。

 担任はトイレに捨てられていた裕史くんのスニーカーを洗ってやりながら、「ぼくにできるのこれだけだ」と言った。
 教師でも「バリケード遊び」〔椅子や机を積み上げ人を閉じこめる「遊び」〕をやられて泣きそうになるものもいた。担任もBに殴られて肋骨を痛めたことがあった。それから生徒になめられる。授業中に乱闘騒ぎがあっても知らんふりをしていた。
 (武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、21~22ページ)

 この教師は、鹿川君のスニーカーがトイレに捨てられていたことを知っている。
 そして、洗いながら「ぼくにできるのはこれだけだ」と言ったのである。
 つまり、既に、いじめについては知っていて、それを解決できなかったのである。自分が「殴られて肋骨を痛め」ても適切な手が打てない。「授業中に乱闘騒ぎがあ」っても止めることが出来ない。
 いじめで自殺が起こるような事件では、多くの場合で学級が荒れた状態にある。仮に、いじめは見えなくても、荒れは見える。学級が荒れていれば、いじめが起こるのは当然である。
 大津のいじめ自殺事件でも、教師が骨折させられている。教師が骨折させられるのだから、同様の暴力が生徒に向けられていると考えるのが当然である。
 いじめ自殺が起こるような学級は荒れていることが多い。荒れの状態を教師は認識している。そして、荒れているならば、いじめもあると想像するのが当然である。
 それにも関わらず、学校関係者は言う。「いじめのサインに気がつかなかった。」
 「サイン」どころではない。公然と暴力が振るわれているのだ。教師にすら暴力が振るわれているのだ。それを学校が解決できないのだ。
 なぜ、学校関係者は「サイン」などと言うのか。意図は分からない。
 しかし、客観的効果としては、責任を逃れる効果がある。「サイン」で見つけにくいものならば、見つけられなくても仕方がない。「気がつかなかったので、手が打てなかった」と主張できる。「気がついていたけれど、能力が足りなく解決できなかった」という事実を「隠す」ことが出来る。
 文部科学省は、いじめについて繰り返し通知を出している。〈いじめのサインを見逃さないように〉と早期発見を求めている。早期発見はもちろん大切である。
 しかし、これも客観的効果としては「責任逃れ」かもしれない。「めくらまし」かも知れない。
 まず、学校が荒れていることこそ問題なのである。普通に授業が出来ていないことこそ問題なのである。当然、提供されるべき教育サービスが提供されていないのだから。〈いじめのサインを見逃さないように〉と問題をいじめに限定することによって、このような明確な不祥事を「誤魔化す」ことができる。
 次のような比喩が分かり易い。

 いじめは「ゾウの鼻」である。

 ゾウの鼻は目立つ。鼻はゾウらしい部分である。しかし、鼻にヒモをかけてもゾウは持ち上がらない。ゾウを持ち上げるためには、胴体にヒモをかけなければならない。
 いじめも同様である。いじめは目立つ。しかし、いじめの発生を防止するためには、いじめだけに注目してもだめである。学校の荒れに注目するべきである。荒れを防止することが必要である。
 ある母親は言う。

 子どもたちが、怪我をせず無事に帰宅できるのは、当たり前なのではなくて、奇跡に近いのかも知れません。無法地帯にやるのですから。
 (朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、221頁)

 「無法地帯」ではいじめが多発する。
 学校の荒れを防止する必要がある。
 まず、正常な秩序が必要なのである。
 

(注)

 次の文章で詳しく論じた。
 
  「いじめの兆候を把握できなかった」は虚偽の論法
   http://shonowaki.com/2015/03/post_121.html

2015年05月24日

【いじめ論12】いじめっ子も「なぜ、いじめたのか」が分からないのだ

 大阪と東京では女子高生のスカートの長さが違う。大阪の女子高生はロングスカート、東京の女子高生はミニスカートである。
 大阪の女子高生は「冬は防寒、夏は日焼け対策」という理由でスカートを長くしていると言う。
 しかし、それは「後づけの理由」に過ぎない。
 先に挙げたウィトゲンシュタインの論をもう一度見てみよう。

 広くゆきわたった一種の思考法の病気ある。それは、我々のすべての行為が、あたかも貯水池から湧きでてくるように、そこから湧きでてくる心的状態とも呼べようものを探し求め(そして見つけ出してしまう)病気である。例えば、「流行が変わるのは、人の趣味が変わるためである」、と言う。趣味が心的な貯水池なのだ。しかし、洋服屋が今日、服のカットを一年前のとは違うふうにデザインする場合、彼の趣味の変化と呼ばれるものは実は、そのデザインをするというそのこと、またはそれを一部として含んでいるものであってはならないのか。
 (『ウィトゲンシュタイン全集6 青色本・茶色本 他』大修館書店、230ページ)

 人々が以前とは異なったデザインの服を着るようになった事態を「趣味が変わった」と言うことがある。しかし、「趣味」という「心的状態」が変わったから、着る服が変わったのか。「流行が変わる」のは「趣味」という「心的な貯水池」が変わるからなのか。
 違う。人々が着ている服のデザインが変わったのを見て、「趣味が変わった」と言っているだけなのである。着る服が変わったこと知る以外に「趣味が変わった」ことを知る方法はない。これは「後づけの理由」に過ぎない。
 大阪の女子高生と東京の女子高生は着ている服のデザインが違う。大阪の女子高生はロングスカートで、東京の女子高生はミニスカートである。
 これは大阪と東京で「趣味」が違うからなのか。何らかの「心的状態」の違いが理由なのか。
 確かに、両者とも自分の意図(心的状態)が行動の理由だと思っていた。スカートの長さを決める理由だと思っていた。例えば、大阪の女子高生は「防寒」「日焼け防止」という意図がスカートを長くする行動の理由だと思っていた。
 しかし、このような意図は行動の理由ではない。大阪の女子高生が東京に引っ越せば、周りの長さに合わせてスカートを短くするだろう。前回の文章で詳しく説明した通りである。
 いじめをした子供がその理由を述べることがある。自分の意図を述べることがある。しかし、これも「後づけの理由」に過ぎない。いじめっ子本人が述べる意図も「後づけの理由」なのである。
 実例を見てみよう。

 私にはいじめをした体験があります。なぜ、人をいじめたのか、私なりの説明を試みたい。
 だいたい、いじめられる子って、いつもオドオドしているでしょう。上目使いに人を見てさ。そんな〝姿〟を見てるだけで、非常にむかつく! 〝一発、いじめてやっか〟という気分にさせる子ばっかりなんですよ。
 それと、私たち子どもって、勉強、受験のストレスがびっしりとたまってるでょ。なのに、ストレスの発散場所、方法がない。そういう意味で、いじめって手軽なストレス発散方法なんです。
 そんな環境がつづく限り、いじめは絶対になくなりませんよ。ずっとつづきますよ。 (13歳・女性)
 (土屋守監修『ジャンプ いじめリポート』集英社、201ページ)

 もちろん、この「説明」も「後づけの理由」である。
 このいじめっ子は言う。「いじめられる子って、いつもオドオドしている」
 自分をいじめる相手の前で「オドオド」するのは当然である。別の相手の前ではのびのびしているかもしれない。自分が「オドオド」させているのを相手のせいにしている可能性がある。また、いじめの結果「オドオド」したのを、いじめのきっかけと勘違いしている可能性がある。
 また、いじめっ子は言う。「勉強、受験のストレスがびっしりとたまってる」
 「受験のストレス」が理由ならば、受験前の三年生の方がいじめが増えるはずである。そのような事実があるのか。
 さらに、「オドオド」している者をいじめない者も多い。「受験のストレス」があってもいじめない者も多い。
 これらの事実から次のことが分かる。このいじめっ子も、自分が「なぜ、人をいじめたのか」を知らない。私達と同じように、「第三者」として「なぜ、人をいじめたのか」を考えているのである。そして、「後づけの理由」を発見してしまったのである。
 思い出していただきたい。大阪の女子高生はスカートを長くする理由を「防寒」と述べていた。「防寒」はもっともらしい理由である。しかし、「防寒」は「後づけの理由」に過ぎなかった。
 いじめっ子がいじめをする理由を「受験のストレス」と述べるのも、これと同様である。「受験のストレス」はもっともらしい理由である。しかし、「受験のストレス」は「後づけの理由」に過ぎない。
 そのような意図(心的状態)がいじめ行動を引き起こしたのではない。それは、「防寒」という意図がスカートの長さを決めていなかったのと同様である。
 いじめ行動をおこなった後に、「受験のストレス」という意図によっていじめ行動を説明しているだけなのである。「心的状態」による行動の説明は、「後づけの理由」に過ぎないのである。

About 2015年05月

2015年05月にブログ「諸野脇 正の闘う哲学」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2015年04月です。

次のアーカイブは2015年06月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34