いじめが事件化すると学校関係者がよく次のように発言する。
いじめのサインに気がつかなかった。
このような発言は虚偽である場合が多い。(注)
実例を見てみよう。鹿川裕史君が自殺した事件である。
担任はトイレに捨てられていた裕史くんのスニーカーを洗ってやりながら、「ぼくにできるのこれだけだ」と言った。
教師でも「バリケード遊び」〔椅子や机を積み上げ人を閉じこめる「遊び」〕をやられて泣きそうになるものもいた。担任もBに殴られて肋骨を痛めたことがあった。それから生徒になめられる。授業中に乱闘騒ぎがあっても知らんふりをしていた。
(武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、21~22ページ)
この教師は、鹿川君のスニーカーがトイレに捨てられていたことを知っている。
そして、洗いながら「ぼくにできるのはこれだけだ」と言ったのである。
つまり、既に、いじめについては知っていて、それを解決できなかったのである。自分が「殴られて肋骨を痛め」ても適切な手が打てない。「授業中に乱闘騒ぎがあ」っても止めることが出来ない。
いじめで自殺が起こるような事件では、多くの場合で学級が荒れた状態にある。仮に、いじめは見えなくても、荒れは見える。学級が荒れていれば、いじめが起こるのは当然である。
大津のいじめ自殺事件でも、教師が骨折させられている。教師が骨折させられるのだから、同様の暴力が生徒に向けられていると考えるのが当然である。
いじめ自殺が起こるような学級は荒れていることが多い。荒れの状態を教師は認識している。そして、荒れているならば、いじめもあると想像するのが当然である。
それにも関わらず、学校関係者は言う。「いじめのサインに気がつかなかった。」
「サイン」どころではない。公然と暴力が振るわれているのだ。教師にすら暴力が振るわれているのだ。それを学校が解決できないのだ。
なぜ、学校関係者は「サイン」などと言うのか。意図は分からない。
しかし、客観的効果としては、責任を逃れる効果がある。「サイン」で見つけにくいものならば、見つけられなくても仕方がない。「気がつかなかったので、手が打てなかった」と主張できる。「気がついていたけれど、能力が足りなく解決できなかった」という事実を「隠す」ことが出来る。
文部科学省は、いじめについて繰り返し通知を出している。〈いじめのサインを見逃さないように〉と早期発見を求めている。早期発見はもちろん大切である。
しかし、これも客観的効果としては「責任逃れ」かもしれない。「めくらまし」かも知れない。
まず、学校が荒れていることこそ問題なのである。普通に授業が出来ていないことこそ問題なのである。当然、提供されるべき教育サービスが提供されていないのだから。〈いじめのサインを見逃さないように〉と問題をいじめに限定することによって、このような明確な不祥事を「誤魔化す」ことができる。
次のような比喩が分かり易い。
いじめは「ゾウの鼻」である。
ゾウの鼻は目立つ。鼻はゾウらしい部分である。しかし、鼻にヒモをかけてもゾウは持ち上がらない。ゾウを持ち上げるためには、胴体にヒモをかけなければならない。
いじめも同様である。いじめは目立つ。しかし、いじめの発生を防止するためには、いじめだけに注目してもだめである。学校の荒れに注目するべきである。荒れを防止することが必要である。
ある母親は言う。
子どもたちが、怪我をせず無事に帰宅できるのは、当たり前なのではなくて、奇跡に近いのかも知れません。無法地帯にやるのですから。
(朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、221頁)
「無法地帯」ではいじめが多発する。
学校の荒れを防止する必要がある。
まず、正常な秩序が必要なのである。
(注)
次の文章で詳しく論じた。
「いじめの兆候を把握できなかった」は虚偽の論法
http://shonowaki.com/2015/03/post_121.html