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2015年03月 アーカイブ

2015年03月01日

【いじめ論6】 ウィトゲンシュタインは〈行動の原因となる心〉を探すことを「思考法の病気」と捉えた

 「道徳意識が高まったから、いじめが無くなった」という文言はトートロジーである。「道徳意識が高ま」ったことは「いじめが無くなった」事実から判断されるのだから。
 これは、「いじめが無くなった」事実から、それに対応する「心・意識」を想定する思考である。我々には、行動の「原因」を「心・意識」に求める傾向がある。何か行動が起こった時に、それに対応する「心・意識」の状態を探す傾向がある。
 これは、既にウィトゲンシュタインによって指摘されていた。

 広くゆきわたった一種の思考法の病気ある。それは、我々のすべての行為が、あたかも貯水池から湧きでてくるように、そこから湧きでてくる心的状態とも呼べようものを探し求め(そして見つけ出してしまう)病気である。例えば、「流行が変わるのは、人の趣味が変わるためである」、と言う。趣味が心的な貯水池なのだ。しかし、洋服屋が今日、服のカットを一年前のとは違うふうにデザインする場合、彼の趣味の変化と呼ばれるものは実は、そのデザインをするというそのこと、またはそれを一部として含んでいるものであってはならないのか。
 (『ウィトゲンシュタイン全集6 青色本・茶色本 他』大修館書店、230ページ)

 「趣味が変わったので、流行が変わった」はトートロジーである。「趣味が変わった」となぜ分かるのか。「流行が変わった」からである。人々が着ている服が変わったからである。服のデザインが変わったからである。服のデザインが変わったという事実から、「趣味」という「心的状態」が変わったと想定したのである。
 「道徳意識が高まったから、いじめが無くなった」も同様である。「道徳意識が高まった」となぜ分かるのか。「いじめが無くなった」からである。子供がいじめをしなくなったからである。机を離したり、物を投げつけたりしなくなったからである。そのようないじめ行動が無くなったという事実から、「道徳意識」という「心的状態」が変わったと想定したのである。
 また、「道徳意識が低いから、いじめが起こった」も同様である。いじめが起こっているという事実から、「道徳意識」という「心的状態」を想定したのである。
 それでは、なぜ、〈行為に対応する心的状態を想定すること〉は悪いのか。「思考法の病気」なのか。
 それをはっきりさせるために、まず「運」という概念を考えてみよう。
 私達は、事故に遭った時などに、次のように言うことがある。

 「運が悪かった」

 これは、ごく普通の発言である。たまたまそこを通りかかったから事故に遭った。事故に遭わない他の可能性もあった。「運が悪かった」という文言で、そのような偶然性を表現できる。これは、一般的には特に問題ない発言である。
 しかし、このように言うことで、我々は「思考法の病気」に一歩近づいている。「運」と言うことによって、次のような思考に一歩近づいている。

 「運をよくするためには、どうしたらよいのか」

 これは「思考法の病気」である。「運」を実体があるものと考えているのである。「運」が存在すると考えて、働きかけようとしているのである。
 このように考えることによって、人は奇妙な行動をするようになる。「運」を操作しようとし始める。例えば、お札を身につけたり、財布の色を黄色にしたりするようになる。
 しかし、「運」など存在しない。壊れた車と同じ意味では存在しない。
 同様に「趣味」も存在しない。服と同じ意味では存在しない。
 同様に「道徳意識」も存在しない。いじめの手紙と同じ意味では存在しない。
 「道徳意識」が存在すると考え、それに働きかけようとするのは間違いである。いじめ対策として、「心の教育」をしようとするのは間違いである。それは、「運」をよくしようとしてお札を身につけたり、財布を黄色くするのと同じ類いの間違いである。存在しないものを存在すると想定して、それに働きかけようとしているのである。


【追記】

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 第七週目、成功である。

2015年03月08日

【いじめ論7】 〈結果の記述〉と〈発生メカニズムの記述〉とは違う

 ウィトゲンシュタインは「哲学的困惑の大きな源の一つ」として次のものを挙げる。

 名詞があればそれに対応する何かのものを見付けねば困るという考え
 (『ウィトゲンシュタイン全集6 青色本・茶色本 他』大修館書店、21ページ)

 私達は「運が悪かった」と言うことがある。これ自体は、十分理解できる普通の発言である。
 しかし、私達は、「運」と名詞で呼んだ途端、「対応する何かのもの」を探す方向に一歩進んでしまうのだ。例えば、次のように考えてしまうのだ。

 「運とは何か」
 「運をよくするためには、どうしたらよいのか」

 「運」という名詞で呼ぶと、実在する「運」を探してしまう。「名詞があればそれに対応する何かのものを見付け」ようとしてしまう。
 これが「哲学的困惑」「思考法の病気」の大きな源である。
 先に述べたように、「運」と「趣味」「道徳意識」とは同類である。
 「趣味」と名詞で呼ぶと、実在する「趣味」を探してしまう。しかし、実在する「趣味」が変わったから、服装が変わったのか。服装が変わったこと自体が「趣味が変わった」と表現されているだけではないのか。
 「道徳意識」と名詞で呼ぶと、実在する「道徳意識」を探してしまう。しかし、実在する「道徳意識」が変わったから、いじめをしなくなったのか。いじめをしないこと自体が「道徳意識が変わった」と表現されているだけではないのか。「道徳意識が徹底された」と表現されているだけではないのか。
 ある状態をある表現で記述できることがある。それは〈結果の記述〉としては役に立つ。しかし、事実のメカニズムを明らかにするためには役に立たない。〈発生メカニズムの記述〉としては役に立たない。
 ある学級が「道徳意識が徹底された」と表現されたとする。落ち着いていて、いじめが無いクラスになったのであろう。これは現状のクラスの状態をおおまかに理解するためには役に立つ。しかし、この記述は、いじめの〈発生メカニズムの記述〉としては役に立たない。いじめの事実を明らかにするためには役に立たない。

 〈結果の記述〉と〈発生メカニズムの記述〉とは違う。

 「道徳意識」と名詞で呼べるからといって、「対応する何かのもの」が存在する訳では無い。いじめが無いという結果を「道徳意識が徹底された」と記述できるからといって、「道徳意識」が存在する訳では無い。
 「道徳意識」という名詞があるから、「対応する何かのもの」が存在すると考えるのは間違いである。それは〈結果の記述〉に過ぎない。

 「道徳意識とは何か」
 「道徳意識をよくするためには、どうしたらよいのか」

 〈結果の記述〉として「道徳意識が徹底された」と表現することは出来る。しかし、「道徳意識」が存在すると考え、それによっていじめが発生すると考えるのは間違いである。「道徳意識」が存在すると考え、それに働きかけようとするのは間違いである。
 「道徳意識が徹底された」という表現では、いじめがどのように解決されたかは全く明らかにならない。いじめの事実は全く明らかにならない。これは〈発生メカニズムの記述〉ではないのである。
 それにもかかわらず、文部科学省は「道徳意識」の実体があると考え、「道徳意識」を変えようとする。「道徳意識」を変えることによって、いじめを防止しようとする。「道徳教育」「こころの教育」の推進を主張する。
 これはナンセンスである。お札を身につけたり、財布の色を黄色にしたりするのと同じレベルのナンセンスさである。
 「道徳意識」を変えようとするのは、「運」を変えようとするのと同様な行為なのである。「運」が実在する訳ではない。同様に「道徳意識」が実在する訳ではない。
 しかし、「道徳意識」と名詞で表現すると、「道徳意識」が存在するような気がしてしまう。そして、それを変えようとしてしまう。
 まさに、文部科学省は「思考法の病気」にかかっているのである。


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2015年03月15日

【いじめ論8】 いじめの原因となる「道徳意識」は存在しない

 「道徳意識」と名詞で表現すると、「道徳意識」が存在するような気がする。しかし、いじめを引き起こす「道徳意識」は存在しない。
 全ての行動の原因となる「心・意識」は存在しない。
 この原理はギルバート・ライルによって定式化された。

 きわめて一般的に表現するならば、主知主義者の説話に潜む不合理な仮定は、理知的であると称せられる行為においてはそれがいかなる種類のものであれ、まずなすべきことを企画するというある内的作業がその行為に先行していなければならない、という仮定である。
 (ギルバート・ライル『心の概念』みすず書房、32ページ)

 「まずなすべきことを企画するというある内的作業」が「心・意識」である。しかし、「行為に先行」する「内的作業」が必ず存在するという仮定は間違っている。
 ライルは次のような例を挙げる。

 機智 wit に富んだ人が冗談を言いそれを楽しんでいるとき、彼が依拠している格率ないし基準は何かと尋ねるならば、彼はその問いに答えることはできない。われわれはいかにして機転のきいた冗談を言うか、あるいはまたいかにして下手な冗談を見分けるかということは知っているが、その処方を他人のみならず自分自身に対してさえも告げることはできない。同様に、ユーモアの実践はユーモアの理論の従者ではないのである。
 (同、30ページ)

 ユーモアがある人が「冗談」を言う時、それに先だって「まずなすべきことを企画するというある内的作業」が存在する訳ではない。彼は、自然に「冗談」を言うのである。だから、彼は次の問いに答えることは出来ない。「その『冗談』はどういうルール(格率・基準)を使って作ったのか。」
 同様に、いじめに関わる子供にも「まずなすべきことを企画するというある内的作業」が存在する訳ではない。いじめをする子供は「まずなすべきことを企画するというある内的作業」を経ていじめる訳ではない。また、いじめを止める子供も、傍観する子供も「内的作業」を経てその行為をする訳ではない。いじめの原因になる「心・意識」が存在する訳ではない。
 次の事例で「まずなすべきことを企画するというある内的作業」が存在するか。存在しない。

 なぜ、彼女のことをいじめたのか。とくに理由はありません。ただ、なんとなく、その子がキライだったというか、虫が好かなかっただけ。いじめの原因なんて、そんなものではないでしょうか。
 (土屋守監修『ジャンプ いじめリポート』集英社、66ページ)

 標的になったのは、留年した男の子。すごくおとなしくて、マジメを絵にかいたような子です。
 最初のうちは、私たちもそれがいじめだとは思いませんでした。実際、留年したことをからかっている程度のことだったんです。
 ところが、日を追って、その男の子に対する〝攻撃〟はエスカレートしていきました。〝パシリ〟に使うのはもちろん、床に正座をさせて、殴ったり蹴ったり…。8人の男の子が交替しながらいじめるんです。
 (同、58ページ)

 前者では、いじめた本人が「とくに理由はありません」「虫が好かなかった」と言っている。後者では、いじめが「エスカレート」していった。
 これらのいじめ行動に先立って「まずなすべきことを企画するというある内的作業」があったのだろうか。違う。
 「ユーモアがある人が『冗談』を言う」ようにいじめがおこなわれたのである。「自然に」いじめがおこなわれたのである。
 だから、自分の行動の原因を当人も説明できない。「とくに理由はありません」「虫が好かなかった」と言うしかない。
 また、「エスカレート」させようと「内的作業」で決定した訳では無い。「自然に」「エスカレート」したのである。
 いじめ行動の原因となるような「内的作業」は存在しない。そのような「心・意識」は存在しない。

 〈全ての行動の原因になる心〉は存在しない。

 ライルが定式化したこの原理は、哲学の世界では前世紀中には常識になっていた。(何しろ『心の概念』は1949年発行である。)
 関連諸科学でも、「心」という概念が事実を明らかにするためには使えないという常識を作ってきた。
 しかし、教育界では未だに「心の教育」などと言う者がいる。まさに未開状態である。
 例えば、文部科学省は言う。

 ③ ……生きることの素晴らしさや喜び等について適切に指導すること。特に、道徳教育、心の教育を通して、このような指導の充実を図ること。
 (「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」)

 「心の教育を通して……指導の充実を図る」とある。しかし、「心の教育」と考えていては、いじめの事実は明らかにならない。いじめの事実を明らかにしないで、いじめ解決のための理論を作ることは出来ない。
 「心の教育」と言う者は、言葉に騙されているのである。
 いじめを引き起こす「心・意識」は存在しないのである。


【追記】

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2015年03月22日

【いじめ論 番外編2】 「いじめの兆候を把握できなかった」は虚偽の論法

 大津のいじめ自殺事件を受けて、平野博文文部科学大臣(当時)は言う。

 いじめが背景事情として認められる生徒の自殺事案が発生していることは大変遺憾です。子どもの生命を守り、このような痛ましい事案が二度と発生することのないよう、学校・教育委員会・国などの教育関係者が担うべき責務をいまいちど確認したいと思います。

 いじめは決して許されないことですが、どの学校でもどの子どもにも起こりうるものであり、その兆候をいち早く把握し、迅速に対応しなければなりません。文部科学省からの通知等の趣旨をよく理解のうえ、平素より、万が一の緊急時の対応に備えてください。
 (「すべての学校・教育委員会関係者の皆様へ[文部科学大臣談話]」平成24年7月13日)

 平野大臣は「その兆候をいち早く把握し」と言う。なぜ、「いじめ…自殺案件」で「兆候」の「把握」を強調するのか。〈いじめの「兆候」を「把握」できなかったから、対応できなかった〉と主張しているのか。
 しかし、大津のいじめ自殺事件の実体はそのようなものではない。
 第三者調査委員会の調査報告書は次の通りである。

 ア担任は.複数回,AがBから暴行を受けている場面を見ており.その度にBを制止しているし.クラスの生徒から「いじめちゃうん。」という言葉を聞いたり.Aがいじめられているので何とかして欲しいという訴えも聴いている。また,Aが.Bから暴行を受けたことについては.養護教諭をはじめとして他の教員から担任に報告か入っている。そして.担任自身も10月3日に養護教諭からBがAを殴ったことの報告を受けた際.「とうとうやりましたか。」と発言している……
 (大津市立中学校におけるいじめに対する第三者調査委員会『調査報告書』)

 担任自身が「暴行を受けている現場を見て」いる。「いじめられているので何とかして欲しい」と生徒からの訴えを受けていた。「兆候」どころか、教師はいじめの明白な事実を知ってた。知っていたにも関わらず、解決できなかった。
 「いじめの兆候」論は、このような事実を「隠蔽」する効果がある。

 いじめは発見しにくい → 兆候を見逃さないようにしなくてはならない → 残念ながら兆候を見逃してしまった → 兆候なので見逃してしまうのも仕方ない

 「いじめの兆候」論は、このように悪用可能な論なのである。
 教師はいじめを知っていた。しかし、それを解決できなかった。「いじめの兆候」論は、その事実を「隠蔽」してしまうのである。
 「いじめを知っていたが、解決できなかった」例は多い。
 深谷和子氏の調査では次のような結果が出ている。(学生に過去を思い出してもらう回顧的調査の結果)

 小学校でも中学校でも、「担任は『いじめ』を知っていた」とする者が三分の一、「たぶん知っていた」とする者を合わせると、八割を越える者が「担任はいじめを知っていた」と答えている。担任の知らない「いじめ」は一五%前後であり、「いじめ」は見えにくいと言っても、クラス内の「いじめ」の大半は担任の視野に入るものだ、ということになる。
 (深谷和子『「いじめ世界」の子どもたち』金子書房、40ページ)

 「八割を越える者が『担任はいじめを知っていた』と答えている」のである。
 教師はいじめを知っていた。しかし、それを解決できなかった。そのような事例が多くある。
 この事実を認めるべきである。
 失敗を認めずに、解決策を考えることは出来ない。いじめを知っていながら解決できなかった。この事実を認めなければ、いじめに対する対策は立てられない。
 「いじめ兆候」論が唱えられたら、注意する必要がある。それは事実を「隠蔽」するためかもしれない。


【追記】

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 十週連続、達成!

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