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2015年02月 アーカイブ

2015年02月01日

【いじめ論 番外編1】 いじめの責任を論ずるための論理 ――「いじめられた子・家庭に責任がある」のか

 いじめの責任を問われた側が、次のような発言することがある。

 「家庭に責任がある」  「いじめられた子に責任がある」

 このような発言をどう考えたらいいのか。
 「家庭」に責任があるからといって、学校に責任がない訳ではない。同様に、「いじめられた子」に責任があるからといって、いじめる子に責任がないことにはならない。
 次のような比喩が分かり易い。

 学校の暖房装置が故障した。真冬だったので、教室の温度が氷点下になってしまった。子供は風邪気味だった。しかし、家庭は子供を学校に行かせた。そして、子供は肺炎になって死んでしまった。

 子供が死んだ原因は、暖房装置の故障か。それとも家庭が登校させたことか。無理をして学校に行った子供か。それとも肺炎の菌か。
 この問いはアホらしい。それぞれに、別種の責任がある。
 つまり、学校は施設の管理者としての全ての責任を負う。そして、家庭は子供の管理者としての全ての責任を負う。子供は自分の行動の全ての責任を負う。そして、菌は病気の発生の全ての責任を負う。
 これらは観点を変えた時に見えてくる別種の責任である。
 だから、「子供の死の原因は、学校か。それとも家庭か。」と問うのはナンセンスである。また、「学校と菌とのどちらがどの程度悪いか」と問うのもナンセンスである。観点を変えた時に見えてくる別種の責任なのである。
 いじめもこれと同様である。ある観点から見れば、学校が全ての責任を負う。また、別の観点からみれば、家庭が全ての責任を負う。ある観点から見れば、いじめっ子が全ての責任を負う。別の観点から見れば、いじられた子が全ての責任を負う。
 「家庭責任論」「いじめられた子責任論」は、これらの責任を対立的に捉えることである。例えば、「家庭の責任だから、学校に責任はない」と捉える。これは間違いである。
 責任は多面的なのである。「学校責任かつ家庭責任」なのである。
 だから、いじめへの対応の悪さを批判された学校が「家庭の責任である」と言ったら、〈論点変更の虚偽〉になる。「家庭の責任」があるからといって、学校に責任が無いことにはならない。

 「家庭責任論」「いじめられた子責任論」は〈論点変更の虚偽〉に使われる。

 当事者であれば、広い意味で何らかの「責任」があるのは当たり前である。当たり前のことを、なぜ取り立てて言うのか。誰が誰に対してどのような状況で言うのか。〈論点変更の虚偽〉になっていないか。注意する必要がある。

 学校が「家庭に責任がある」「いじめられた子に責任がある」などと言ったら、疑うべきである。
 「家庭責任論」「いじめられた子責任論」は〈虚偽〉の論法なのである。


【追記1】

 現実の事象は複雑である。多面的である。
 しかし、我々は、ただ一つの「責任」を探してしまう傾向がある。このような〈一元的な責任論〉は間違いである。〈多元的な責任論〉が必要である。
 次の文章で論じた。

  ● 「自己責任論」批判

 この文章の形式をそのまま使って、「いじめの責任論」を論じた。
 我々は「責任」という語に騙される傾向がある。「責任」という語で〈一元的な責任〉を考えてしまうのである。〈多元的な責任〉を考えるのが難しいのである。


【追記2】

 十週連続ブログ更新に挑戦中である。

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 第三週目、成功である。

2015年02月08日

【いじめ論3】 「いじめは絶対に許されない」と言って効果があるのか

 いじめを「道徳意識」の問題と捉える傾向は一般的である。
 例えば、国立教育政策研究所が発行した事例集には次のような指導案がある。

 

2 本時のねらい
・いじめの意味を理解し、いじめを絶対に許さない心を育てる。
・自他の生命を尊重する態度を育てる。
・いじめをなくすために自分ができることを進んで行う主体的態度を育てる。
 (『いじめ問題に関する取組事例集』40ページ)
 

 「いじめを絶対に許さない心を育てる」とある。つまり、そのような「心」があると思っている。「心を育てる」ことによっていじめが防止できると考えている。〈いじめを容認する心〉がいじめを引き起こすと思っている。
 この事例集は国立教育政策研究所が発行したものである。国立教育政策研究所も同様の認識に立っているのであろう。〈いじめを容認する心〉がいじめを引き起こすと考えているのだろう。少なくとも、間違った考えだとは認識していないことは確かである。間違った考えだと認識してたら、事例集には載せない。
 しかし、既に述べたようにいじめを「心・意識」の問題と捉える理論は間違いなのである。いじめを「道徳意識」の問題と捉える理論は間違いなのである。
 同じ子供達がいじめをしたり、しなかったりする。教師が変わると行動が変わる。教師が変わっただけでいじめが解決する。
 だから、子供の「道徳意識」がいじめを起こすと考えるのは不自然である。
 いじめは「道徳意識」の問題ではない。個人の意識の問題ではない。〈いじめを容認する心〉の問題ではない。
 「いじめを絶対に許さない心を育てる」を「ねらい」にするのは間違いである。「自他の生命を尊重する態度を育てる」を「ねらい」にするのも同様の間違いである。「生命を尊重する態度」が無いから、いじめが起こるのではない。
 注目していただきたい事実がある。
 これらの「ねらい」が「本時のねらい」になっていることである。つまり、一時間の授業の「ねらい」なのである。一時間の授業で、「いじめを絶対に許さない心を育てる」「自他の生命を尊重する態度を育てる」という壮大な「ねらい」を達成するらしい。
 それは不可能である。この「本時のねらい」は誠に不可解である。(国立教育政策研究所は、この異常な「本時のねらい」を見て何とも思わなかったのか。)
 百歩譲って、この「本時のねらい」をこの授業を含む全体の活動の「ねらい」だと考えよう。一年を通じた「ねらい」だと考えよう。この授業は、「学校における非行防止教室を支援する取組」の一環である。

 県教育委員会では、5月から7月を「非行防止強化期間」と定めるとともに、年間を通して、各県公立小学校・中学校・高等学校において児童生徒の「人を思いやる豊かな心の育成」、「規範意識の醸成」などを目的とした「非行防止教室」を実施している。

 年間を通して「ねらい」を達成するというのならば、まだ理解できる。(つまり、ナンセンスさの程度は低くなる。)
 それでは、具体的には何がおこなわれているのか。

 

<具体的な取組例・内容>
○ 関係機関から講師を招いての講話やビデオ視聴等
○ 校長、教頭や生徒指導主任等による講話 ○ 学年集会での生徒指導主任等による講話
○ HRでの担任による講話            ○ 作文、感想文やディベート
○ 学校だより、PTA広報誌等を使い、家庭や地域との連携
 

 結局のところ、活動の中心は「講話」である。〈「いじめは絶対に許されない」と指導者が言って聞かせる〉という形式である。
 「言って聞かせる」は典型的な形式である。説諭は典型的な形式である。
 例えば、「道徳」授業で「いじめは絶対に許されない」と教師が説諭する。いじめが起きた時に学級会を開いて「いじめは絶対に許されない」と教師が説諭する。教師がいじめをした子供を呼び出し「いじめは絶対に許されない」と説諭する。
 これらは一般的におこなわれている指導方法である。そして、効果が無い場合が多い。
 次のような図式である。

 子供は「いじめを絶対に許さない心」を持っていないと考える。

      ↓

 「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせる。

 いじめを「心・意識」の問題と捉えているので、「心・意識」に働きかけようとする。言って聞かせようとする。説諭という方法を採る。
 いじめを「道徳意識」の問題と捉えているので、文部科学省は道徳教育の強化を求める。いじめを「道徳意識」の問題と捉えていると、その「道徳意識」に働きかけたくなる。説諭したくなる。
 いじめ観の間違いが指導方法の間違いを引き起こしているのである。


【追記】

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 第四週目、成功である。

2015年02月15日

【いじめ論4】 熱血教師が「いじめは絶対に許されない」と言っても効果は無かった

 「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせた実例を挙げる。
 中学校教師である野口良子氏は〈机をつけてもらえない子〉を発見した。それを「いじめ」と判断した。
 そして、野口良子氏は激しい怒りを示した。「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせた。説諭をした。
 次のようにである。

 「どういうことなのか、まわりの人、答えなさい!! リカとどうして机をはなさなきゃいけないのか説明しなさい。私は、君たちが中学生になってはじめての授業だからと一週間は黙って様子を見てきたけど、もう我慢できない!! どうしてリカのまわりだけ机の位置が乱れるの!! アキオ、答えてください!!」
 リカの両サイドの子どもたちが目をそらす。いわゆる優等生のアキオは、不服そうな表情のまま、わずかに自分の机をリカの側に寄せる。
 私は邪険にアキオの机を引き寄せ、リカの両サイドの子どもたちの机も強引に移動させる。子どもたちは、机の脚に自分の足をからませながら、素知らぬ顔で私を見つめ、私に机を動かせまいと抵抗している。私は、子どもたちをにらみすえながら荒々しく机や椅子を動かす。子どもたちは、私の力とけんまくに押されながらも、まわりの子どもたちと顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあっている。どうやら「抵抗はムダ、野口はしつこいぞ、もうやめとこ」となったらしく、机の脚から足をはなし、抵抗をやめる。私は黙々と、自分の手で次々と机の位置をととのえ、三八名の子どもたちの机の間をゆっくりと歩く。ひとりひとりの子どもたちの目を見つめる。いつのまにか、教室は静まりかえる。
 「君たち。君たちは、人を差別したり、いじめたりすることは、とっても悪いことだって知ってるネ」
 「……」
 「君たち、自分が、リカと同じようにされたらどんな気がする? 嬉しい? 学校へくるのが楽しくなる? 私は、リカに感心しているよ。リカは、たくましい子だと思うの。君たちから、毎日毎日こんな扱いを受けても、こんなに明るい顔をして休まずに学校へ来ている。私がリカだったら、悲しくて学校なんか休んでしまうだろうと思うの。今の野口先生はたくましいけど、中学生の頃の私は、弱い子だったから……」
 「……」
 「君たちは、A中学校は悪いと思っているネ。二年や三年の先輩が、これ見よがしにタバコ吸って廊下を歩いていたり、服装違反してたり、先生にまき舌で文句言ってたりするのを見て、悪い奴って思ってるネ。でもネ、私は、あの子たちより、一年生の君たちの方が恐ろしい、心配だって思っているの。こんなふうに毎日毎日、リカをいじめている。このことの方が、二年や三年のツッパッてる子よりうんと悪い、ものすごく悪い、人間として許せないくらい悪い!! って思ってる。人間には、許せる誤ちと許せない誤ちってものがあるのよ。服装違反をしてることは許せても、人間をバカにする、いじめる、差別するってことは許せない。許してはいけないことなの。二年の子がタバコを吸っているからといって、学校へ来るのがイヤになるほどみじめな心になったり、となりの席の子が服装違反しているからって、生きることに絶望して自殺することなんてある? ないでしょ。でも、もし、リカのようにたくましい子でなければ、毎日のようにこんな『いじめ』されたら死にたくなるかもしれない。君たちのやっていることは、殺人的な悪さ、犯罪だってことをわかりなさい。二年、三年のツッテパッてるあの子たちより、何十倍、何百倍も悪いことをしているのです……」
 (野口良子『いじめを跳ね返した子どもたち1』明石書店、12~14ページ)

 野口良子氏は「いじめは絶対に許されない」という趣旨を言って聞かせた。
激しい怒りを示した。厳しく説諭した。
 「リカと同じようにされたらどんな気がする?」と〈他人の気持ちになる〉ことを求めた。〈ツッパリ行為よりいじめが悪い〉という原理を説いた。
 しかし、この後も、リカへのいじめは止まらなかったのである。
 説諭には効果が無かった。「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせることは効果が無かった。
 国立教育政策研究所が発行した事例集には次のようにあった。
 

・いじめの意味を理解し、いじめを絶対に許さない心を育てる。
(『いじめ問題に関する取組事例集』40ページ)

 野口良子氏も「いじめの意味」を語った。
 次のようにである。

 「となりの席の子が服装違反しているからって、生きることに絶望して自殺することなんてある? ないでしょ。でも、もし、リカのようにたくましい子でなければ、毎日のようにこんな『いじめ』されたら死にたくなるかもしれない。君たちのやっていることは、殺人的な悪さ、犯罪だってことをわかりなさい。」(同上)

 野口良子氏は「いじめの意味」を語った。「こんな『いじめ』されたら死にたくなる」と語った。いじめを「殺人的な悪さ、犯罪」と位置づけた。
 しかし、これを聞いた生徒達はいじめをやめなかった。生徒達はリカをいじめ続けた。
 「いじめの意味」を語っても効果は無かった。「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせても効果は無かった。説諭しても効果は無かった。
 なぜ、説諭は効果が無かったのか。ここでは、簡単に概略だけを示しておく。
 説諭に効果が無かったのは、いじめが〈集団的現象〉だからである。

子どもたちは、私の力とけんまくに押されながらも、まわりの子どもたちと顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあっている。どうやら「抵抗はムダ、野口はしつこいぞ、もうやめとこ」となったらしく、机の脚から足をはなし、抵抗をやめる。(同上)

 「子どもたちは……〔略〕……まわりの子どもたちと顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあっている」のである。集団でいじめを続けるかどうか「相談しあっている」のである。
 このような〈集団的現象〉に対して、個人の「心・意識」に働きかけようとしても効果は無い。「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせても効果は無い。(この論点は先の章で詳しく説明する。)
  次の事実に注目していただきたい。
 野口良子氏は情熱あふれる指導をした。具体的ないじめの事実を発見して怒りをあらわにした。理を尽くして原理を説明し、「君たちのやっていることは、殺人的な悪さ、犯罪」とまで言った。「いじめは絶対に許されない」という趣旨を厳しく言って聞かせた。
 それにもかかわらず、いじめは無くならなかったのである。
  「校長、教頭や生徒指導主任等による講話」「学年集会での生徒指導主任等による講話」が効果が無いのは当然である。ただ、 「いじめは絶対に許されない」と話をするだけだからである。
 野口良子氏の指導はそのような「講話」とは違う。野口良子氏の指導は多くの人が理想と考えるような指導である。言わば、金八先生的熱血指導である。しかし、その熱血指導は効果が無かったのである。
 情熱を込めて「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせても効果は無かったのである。


【追記】

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  ● コミットメットが世界を変える ――烏賀陽弘道氏のフクシマ取材に寄付してダイエットしませんか

 第五週目、成功である。

2015年02月22日

【いじめ論5】 「『いじめは許されない』という意識」が「徹底」されたと何を根拠に判断するのか

 もう一度、文部科学省の認識を見てみよう。

 ① 「いじめは人間として絶対に許されない」という意識を一人一人の児童生徒に徹底させなければならないこと。……
  (「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」)

 誠にアホらしい。
 「いじめは人間として絶対に許されないことですか」と訊けば、多くの者が「許されない」と答える。
 実例を挙げよう。少年院に在院中の中学生への意識調査である。

 クラスの子をいじめる 86.7% (「悪いこと」と答えた回答率)
  (品川裕香『心からのごめんなさいへ』中央法規、206ページ)

 大きな問題行動を起こした中学生ですら、86.7パーセントが「いじめるのは悪いこと」と答えている。さらに、一般の中学生では91.2パーセントが「いじめるのは悪いこと」と答えている。
 既に、大多数の子供は「いじめは悪い」と思っている。(少なくとも、「いじめは悪い」と言った方がよいことは知っている。)
 もし、野口良子氏が「道徳」授業で「いじめは人間として絶対に許されないことですか」と訊いたとすれば、生徒は「許されない」と答えるであろう。
 しかし、それに何の意味があるのか。口で「絶対に許されない」と答える者が、行動ではいじめをおこなう。それがいじめ問題の難しさなのだ。
 現に、野口良子氏の学級ではいじめが続いたのである。教師が情熱を込めて「いじめは人間として絶対に許されない」と語る。生徒も「いじめは許されない」と言う。それにもかかわらず、いじめは続くのである。
 別の観点から論ずる。
 文部科学省は、何を根拠に「徹底」されたと判断するのか。「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が「児童生徒に徹底」されたと判断するのか。
 大まかに言って、二つの基準が考えられる。

 1 子供が口頭で「いじめは絶対に許されない」と言う。
 2 子供がいじめ行動をおこなわない。

 既に論じたように、1はアホらしい。
 「道徳」の授業で訊けば、子供は「許されない」と答える。しかし、そう答えた子供がいじめをするのである。だから、「許されない」と言うことは、「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」を持ったと判断する基準にはならない。
 それでは、2はどうだろうか。いじめ行動をおこなっていない事実を基準とするのである。いじめが発生していなければ、「徹底」されたと判断するのである。「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が「徹底」されたと判断するのである。
 しかし、これは〈いじめが無い〉という結果から「道徳意識」という「原因」を想定したに過ぎない。「道徳意識」が「徹底」されたというのは、〈いじめが無い〉ことと同義である。つまり、これは実質的にトートロジーに過ぎない。
 次の文言を見ていただきたい。

 「いじめは絶対に許されない」という意識を持ったので、いじめが無くなった。

 この文言はトートロジーである。結果から「原因」を想定したに過ぎない。〈いじめが無い〉という事実から「道徳意識」という「原因」を想定したに過ぎない。
 口頭での答えに頼るのは無意味である。子供は「いじめは悪い」と「道徳」授業では言う。しかし、「いじめは悪い」と言った子供がいじめをするのである。
 〈いじめが無い〉という行動に注目するならば、特に「意識」を想定する必要がなくなる。「道徳意識」が「徹底」されたと言う必要がなくなる。「いじめは無い」・「いじめは無くなった」と言えばいいのである。
 「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が存在すると考えること自体が間違いなのである。


【追記】

 十週連続ブログ更新に挑戦中である。

  ● コミットメットが世界を変える ――烏賀陽弘道氏のフクシマ取材に寄付してダイエットしませんか

 第六週目、成功である。

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