いじめの責任を問われた側が、次のような発言することがある。
「家庭に責任がある」 「いじめられた子に責任がある」
このような発言をどう考えたらいいのか。
「家庭」に責任があるからといって、学校に責任がない訳ではない。同様に、「いじめられた子」に責任があるからといって、いじめる子に責任がないことにはならない。
次のような比喩が分かり易い。
学校の暖房装置が故障した。真冬だったので、教室の温度が氷点下になってしまった。子供は風邪気味だった。しかし、家庭は子供を学校に行かせた。そして、子供は肺炎になって死んでしまった。
子供が死んだ原因は、暖房装置の故障か。それとも家庭が登校させたことか。無理をして学校に行った子供か。それとも肺炎の菌か。
この問いはアホらしい。それぞれに、別種の責任がある。
つまり、学校は施設の管理者としての全ての責任を負う。そして、家庭は子供の管理者としての全ての責任を負う。子供は自分の行動の全ての責任を負う。そして、菌は病気の発生の全ての責任を負う。
これらは観点を変えた時に見えてくる別種の責任である。
だから、「子供の死の原因は、学校か。それとも家庭か。」と問うのはナンセンスである。また、「学校と菌とのどちらがどの程度悪いか」と問うのもナンセンスである。観点を変えた時に見えてくる別種の責任なのである。
いじめもこれと同様である。ある観点から見れば、学校が全ての責任を負う。また、別の観点からみれば、家庭が全ての責任を負う。ある観点から見れば、いじめっ子が全ての責任を負う。別の観点から見れば、いじられた子が全ての責任を負う。
「家庭責任論」「いじめられた子責任論」は、これらの責任を対立的に捉えることである。例えば、「家庭の責任だから、学校に責任はない」と捉える。これは間違いである。
責任は多面的なのである。「学校責任かつ家庭責任」なのである。
だから、いじめへの対応の悪さを批判された学校が「家庭の責任である」と言ったら、〈論点変更の虚偽〉になる。「家庭の責任」があるからといって、学校に責任が無いことにはならない。
「家庭責任論」「いじめられた子責任論」は〈論点変更の虚偽〉に使われる。当事者であれば、広い意味で何らかの「責任」があるのは当たり前である。当たり前のことを、なぜ取り立てて言うのか。誰が誰に対してどのような状況で言うのか。〈論点変更の虚偽〉になっていないか。注意する必要がある。
学校が「家庭に責任がある」「いじめられた子に責任がある」などと言ったら、疑うべきである。「家庭責任論」「いじめられた子責任論」は〈虚偽〉の論法なのである。
【追記1】
現実の事象は複雑である。多面的である。
しかし、我々は、ただ一つの「責任」を探してしまう傾向がある。このような〈一元的な責任論〉は間違いである。〈多元的な責任論〉が必要である。
次の文章で論じた。
この文章の形式をそのまま使って、「いじめの責任論」を論じた。
我々は「責任」という語に騙される傾向がある。「責任」という語で〈一元的な責任〉を考えてしまうのである。〈多元的な責任〉を考えるのが難しいのである。
【追記2】
十週連続ブログ更新に挑戦中である。
● コミットメットが世界を変える ――烏賀陽弘道氏のフクシマ取材に寄付してダイエットしませんか
第三週目、成功である。