ジャーナリストが危険地帯に取材に行き、テロリストの人質になる。
そのような場合、次のような発言がされることが多い。
「危険を知って行ったのだから、自己責任である」
いわゆる「自己責任論」である。
「自己責任論」をどう考えるか。
危険地帯に行った者に「自己責任」があるのは当たり前である。しかし、だからと言って、他の者に責任が無い訳ではない。
次のような比喩が分かり易い。
学校の暖房装置が故障した。真冬だったので、教室の温度が氷点下になってしまった。子供は風邪気味だった。しかし、家庭は子供を学校に行かせた。そして、子供は肺炎になって死んでしまった。
子供が死んだ原因は、暖房装置の故障か。それとも家庭が登校させたことか。無理をして学校に行った子供か。それとも肺炎の菌か。
この問いはアホらしい。それぞれに、別種の責任がある。
つまり、学校は施設の管理者としての全ての責任を負う。そして、家庭は子供の管理者としての全ての責任を負う。子供は自分の行動の全ての責任を負う。そして、菌は病気の発生の全ての責任を負う。
これらは観点を変えた時に見えてくる別種の責任である。
だから、「子供の死の原因は、学校か。それとも家庭か。」と問うのはナンセンスである。また、「学校と菌とのどちらがどの程度悪いか」と問うのもナンセンスである。観点を変えた時に見えてくる別種の責任なのである。
人質問題もこれと同様である。ある観点から見れば、本人が全ての責任を負う。別の観点から見れば、テロリストが全ての責任を負う。さらに、別の観点からみれば、政府が全ての責任を負う。
「自己責任論」は、これらの責任を対立的に捉える。例えば、「自己責任だから、政府に責任はない」と捉える。これは間違いである。
責任は多面的なのである。「自己責任かつ政府責任」なのである。
だから、救出の努力の足りなさを批判された政府が「自己責任である」と言ったら、〈論点変更の虚偽〉になる。「自己責任」だからといって、政府に責任が無いことにはならない。
「自己責任論」は〈論点変更の虚偽〉に使われる。
「自己責任」があるのは当たり前である。当たり前のことを、なぜ取り立てて言うのか。誰が誰に対してどのような状況で言うのか。〈論点変更の虚偽〉になっていないか。注意する必要がある。
「自己責任論」は〈虚偽〉の論法なのである。