いじめ事件が起こる度に「『こころの教育』が必要」だという主張がされる。道徳教育の必要性が主張される。「いじめ防止対策推進法(概要)」は「学校の設置者及び学校が講ずべき基本的施策」の一番目に「道徳教育等の充実」を挙げている。
なぜ、「道徳教育の充実」を求めるのか。それは、いじめを「心・意識」の問題と捉えているからである。
例えば、「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」で文部科学省は言う。
① 「いじめは人間として絶対に許されない」という意識を一人一人の児童生徒に徹底させなければならないこと。……
これは「適切な教育指導」の最初に出てくる文言である。一番最初に述べたのだから、文部科学省が一番重要であると認識している内容なのであろう。
文部科学省は次のようないじめ観を持っていると言える。
「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識を一人一人の児童生徒」が持っていないから、いじめが起こる。一人一人がそのような意識を持てばいじめは無くなる。だから、そのような意識を持つように「徹底」する。
文部科学省は、子供が「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」を持っていないからいじめが起こると捉えている。「道徳意識」が低いからいじめが起こると捉えている。そうならば、「道徳意識」を高くしなければならない。だから、文部科学省は「道徳意識」を高くする「道徳教育等の充実」を求めている。「こころの教育」・「道徳教育」の強化を求めている。
つまり、いじめを「心・意識」の問題と捉えているのである。
しかし、いじめは本当に「心・意識」の問題なのか。子供の「道徳意識」が低いからいじめが起こっているのか。
具体例を見よう。
いじめられていたS君の体験である。
〔小学〕三年になると、毎朝学校に着くとすぐにけんかが始まって、先生(若い女の先生)が来ても止まりませんでした。その先生は「けじめを付けましょう」と口では言うけれど、ぐちぐちと迫力が無いし、授業にめりはりがなくて、みんな学校に来るだけでストレスがたまっていました。
初めは、いじめの中心だったA君、B君、C君が授業とは関係ないことを大声でいったり、先生を無視したり、トイレに行って帰ってこなかったりしました。授業参観の日も変わりません。
特に、ストレスのたまりやすいA君が爆発して、休み時間にみんなに八つ当たりをすると、みんなもどんどん爆発していき、何の対応もできない先生の授業を無視し始めました。この状態が一年間続きました。
四年になり、校内では、厳しいと言われていた男の先生にかわると、ぴたりと止まりました。
その先生は、休み時間になるとみんなと遊んでくれました。授業もめりはりがあって面白くなりました。(朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、26ページ)
S君のクラスでは、いじめがおこなわれていた。「いじめの中心だったA君、B君、C君が授業とは関係ないことを大声でいったり」する荒れた状態だった。
しかし、教師が変わると、いじめはなくなった。三年では荒れていた学級が、四年では落ち着いた。学級の成員は変わっていない。変わったのは教師だけである。
この事例で、子供の「道徳意識」は変わったのか。つまり、三年の時は「道徳意識」が低く、四年になったら急に高くなったのか。それは不自然である。
逆の例も聞く。落ち着いていた学級が、教師が変わって荒れたというのである。その場合、高かった「道徳意識」が急に低くなったのか。それも不自然である。
確認していただきたい事実がある。「道徳意識」概念自体が、周りの影響を受けて変化しない確固たる状態を指す概念なのである。短期間に簡単に変化しない状態を指す概念なのである。(そのような「道徳意識」が本当に存在するかどうかは別として。)だから、「三年から四年になったとたん道徳意識が高まった」・「教師が替わったとたん道徳意識が低くなった」という文言は不自然なのである。
教師が変わるだけでいじめが解決した。
「道徳意識」が低いからいじめが起こったと捉えていては、このような事例を説明できない。いじめを「心・意識」の問題と捉えていては、このような事例を説明できない。
〈「道徳意識」が低いから、いじめが起こる〉といういじめ観は間違いなのである。教師が変わっただけで、いじめは無くなったのである。この状態を「道徳意識」で説明するのは困難である。
いじめを「心・意識」の問題と捉えていては、いじめを説明する理論を作ることは出来ない。いじめの解決に役立つ理論を作ることは出来ない。
【追記】
十週連続ブログ更新に挑戦中。
● コミットメットが世界を変える ――烏賀陽弘道氏のフクシマ取材に寄付してダイエットしませんか
第二週目、成功である。
1月27日 語句訂正