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2015年01月 アーカイブ

2015年01月11日

コミットメットが世界を変える ――烏賀陽弘道氏のフクシマ取材に寄付してダイエットしませんか

■ 原稿が書けない

 本の原稿を書いている。
 3カ月で出来るはずだった。
 しかし、もう3年が経ってしまった。
 何かがいけないのだ。
 私は、雑誌原稿等を落としたことはない。締め切りは守る人間だ。
 それなのに、なぜ、本の原稿は完成しないのか。
 答えは簡単だ。締め切りが無いからだ。締め切りが無いといつまでも、原稿を直し続けてしまうのだ。


■ コミットメントを活用しよう

 答えが分かれば、対策も簡単だ。締め切りを作ればいいのだ。
 締め切りを作って、コミットメットすればいいのだ。
 例えば、次のように。
 

 2015年3月31日までに本の原稿を完成させる。
 完成できなかった場合は、罰として在特会に1万円寄付をする。
 
 これならば、絶対に原稿は完成するだろう。
 在特会に寄付するのは、人間として最低の行為だ。在特会のホームページのトップページに名前を挙げて感謝してもらえれば、さらにいい。
 そんな辱めを受けるくらいならば、原稿を完成させるだろう。
 しかし、それほどの大技を繰り出さなくても、原稿は完成できるのではないか。大技はもっと凄い目標のためにとっておこう。
 もう少し楽しいコミットメントはないか。
 目標が達成できたら、ご褒美がもらえるようにコミットメントを設計すればいい。
 
 2015年3月31日までに本の原稿を完成させる。
 完成できた場合は、ご褒美として烏賀陽弘道氏に1万円寄付できる。
 
 これならば楽しい。
 烏賀陽弘道氏のフクシマ取材記事は貴重な情報である。

   ● 烏賀陽弘道氏のフクシマ取材記事(JBpress)

 そのフクシマ取材を応援するために寄付が出来るのである。
 これをネット上で公言しておけば、コミットメントとして機能する。つまり、達成できなかった場合は、恥をかくことになる。締め切りを守る人間という私の評判ががた落ちになる。それが原稿を完成させるインセンティブになる。


■ ダイエットに活用も可能

 この「楽しい企画」には、多くの人が参加することが出来る。
 例えば、相乗りである。
 

 諸野脇さんが原稿を完成できたら、私も5千円寄付する。

 相乗りして、私に圧力をかけるのである。これは怖い。完成できなかったら、「諸野脇さんのせいで寄付できなかった」と責められるのである。
 また、自分の目標をコミットメットすることも出来る。例えば、ダイエットをコミットメントすることも出来る。
 
 2015年3月31日までに10キロやせる。
 やせることが出来た場合は、ご褒美として烏賀陽弘道氏に1万円寄付できる。
 
 10キロやせたら、烏賀陽弘道氏に寄付できるのだ。
 目標を達成したら、自分がご褒美がもらえるという形でコミットメントを設計するのである。ご褒美は各自が設定すればよい。「奈良に行ける」でもよいし、「アナログシンセを買える」でもよい。これならば意欲がわく。


■ 達成しやすい小さい目標に

 目標は、本の原稿の完成だ。
 しかし、それでは目標が大きすぎる。遠すぎる。途中で力尽きる可能性がある。
 小さい目標を作った方がよい。目標達成への過程をスモールステップで構成するのである。
 

 毎週ブログに文章をアップする。
 それを十回おこなう。
 アップする度に、千円を烏賀陽弘道氏に寄付できる。

 
 これならば、達成は容易である。小さい目標を達成することで、結果的に大きな目標を達成できる。


■ ジャッジをどうするか

 目標にコミットメントをしたら、目標を達成したかどうかを判定する必要がある。
 この点で、ブログへの文章アップという目標には強みがある。誰でもブログを見ることが出来る。誰でも私が目標を達成したかどうかを判定できる。特定のジャッジは必要ないだろう。
 しかし、ぜひジャッジをしたいという方がいれば言って欲しい。それはそれで楽しい。
 ダイエット・禁煙を目標にした場合は、これと対照的である。ネット上では目標を達成したかどうか分からない。このような場合、ジャッジが必要かもしれない。しかし、自分をジャッジにしても問題が起こらない場合が多いことが知られている。嘘をつけない人が多いのだ。自分は、自分が目標を達成したかを知っている。


■ それでは、始めましょう

 幸い烏賀陽弘道氏にはPayPalで簡単に送金できる。

   ● 「投げ銭のやり方」です

 それでは、私は、私のコミットメットを実行する。

 毎週ブログに文章をアップする。(日曜が締め切り)

 それを十回おこなう。
 アップする度に、千円を烏賀陽弘道氏に寄付できる。

 私はブログ十回連載をコミットメントした。
 みなさんも、烏賀陽弘道氏のフクシマ取材に寄付をコミットメントしてダイエットしてみませんか。(もちろん、寄付先は自分の興味に合わせて選べばよい)

2015年01月18日

【いじめ論1】 はじめに ――いじめ観のパラダイム転換が必要

 いじめについて広く信じられている考えがある。それは「悪い心がいじめを引き起こす」という考えである。「悪い道徳的意識がいじめを引き起こす」という考えである。
 この考えはあまりにも一般的すぎて、教育界で疑われることはなかった。その考えを信じている者も、特定の考えを「信じている」と自覚すらしていないだろう。
 例えば、文部科学省は「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」で言う。

 ① 「いじめは人間として絶対に許されない」という意識を一人一人の児童生徒に徹底させなければならないこと。……

 国立教育政策研究所が発行した「いじめ問題に関する取組事例集」には次のような授業の「ねらい」がある。

 ・いじめの意味を理解し、いじめを絶対に許さない心を育てる。

 これらは、いじめを心・道徳意識の問題と捉えているのである。「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が無いからいじめが起こると捉えているのである。「いじめを絶対に許さない心」が無いからいじめが起こると捉えているのである。「悪い道徳的意識がいじめを引き起こす」・「悪い心がいじめを引き起こす」と考えているのである。
 この考えは、広く信じられている。いじめは心・道徳意識の問題であるという考えは、多くの人が信じ、疑いすらしない考えなのである。
 しかし、この一般的な考えは、正しいのだろうか。いや、正しくない。
 反例を挙げよう。担任の教師が変わっただけで、いじめがなくなることがある。子供達は変わっていないのに、いじめがなくなるのだ。これは心・道徳意識の問題なのか。教師が変わると一瞬で、子供の心がよくなり、道徳意識がよくなるのか。それは不自然である。
 このような現象は、心・道徳意識では説明できない。
 いじめが、心・道徳意識の問題であるという考えは間違っているのだ。それは部分的な間違いではない。根本的な間違いである。
 だから、「悪い心がいじめを引き起こす」・「悪い道徳的意識がいじめを引き起こす」という考えは、全く別の考えに変えなくてはならない。
 また、いじめ観は、いじめ対策と結びついている。いじめ観が間違っていれば、いじめ対策も間違ったものになる。当然、現状のいじめ対策を批判し、新しいいじめ観に基づくいじめ対策を示すことになる。
 間違ったいじめ観を基にしていては、有効ないじめ対策を作ることは出来ない。間違ったいじめ観は、歪んだ基礎のようなものである。歪んでいるので、その上に建物を建てることは出来ない。建てようとすると倒れてしまう。
 有効な対策のためには、正しいいじめ観が必要である。
 つまり、いじめ観のパラダイム転換が必要なのである。
 以下の論述で私がおこないたいのは、そのようなパラダイム変換である。いじめを捉える枠組み自体を変えることである。いじめを心・道徳意識の問題と捉える枠組みに代わる新しい枠組みを提供することである。


【追記】

 十週連続ブログ更新に挑戦中。

  ● コミットメットが世界を変える ――烏賀陽弘道氏のフクシマ取材に寄付してダイエットしませんか

 第一週目、成功である。

2015年01月25日

【いじめ論2】 いじめは「道徳意識」の問題か

 いじめ事件が起こる度に「『こころの教育』が必要」だという主張がされる。道徳教育の必要性が主張される。「いじめ防止対策推進法(概要)」は「学校の設置者及び学校が講ずべき基本的施策」の一番目に「道徳教育等の充実」を挙げている。
 なぜ、「道徳教育の充実」を求めるのか。それは、いじめを「心・意識」の問題と捉えているからである。
 例えば、「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」で文部科学省は言う。

 ① 「いじめは人間として絶対に許されない」という意識を一人一人の児童生徒に徹底させなければならないこと。……

 これは「適切な教育指導」の最初に出てくる文言である。一番最初に述べたのだから、文部科学省が一番重要であると認識している内容なのであろう。
 文部科学省は次のようないじめ観を持っていると言える。

 「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識を一人一人の児童生徒」が持っていないから、いじめが起こる。一人一人がそのような意識を持てばいじめは無くなる。だから、そのような意識を持つように「徹底」する。

 文部科学省は、子供が「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」を持っていないからいじめが起こると捉えている。「道徳意識」が低いからいじめが起こると捉えている。そうならば、「道徳意識」を高くしなければならない。だから、文部科学省は「道徳意識」を高くする「道徳教育等の充実」を求めている。「こころの教育」・「道徳教育」の強化を求めている。
 つまり、いじめを「心・意識」の問題と捉えているのである。
 しかし、いじめは本当に「心・意識」の問題なのか。子供の「道徳意識」が低いからいじめが起こっているのか。
 具体例を見よう。
 いじめられていたS君の体験である。
 

 〔小学〕三年になると、毎朝学校に着くとすぐにけんかが始まって、先生(若い女の先生)が来ても止まりませんでした。その先生は「けじめを付けましょう」と口では言うけれど、ぐちぐちと迫力が無いし、授業にめりはりがなくて、みんな学校に来るだけでストレスがたまっていました。
 初めは、いじめの中心だったA君、B君、C君が授業とは関係ないことを大声でいったり、先生を無視したり、トイレに行って帰ってこなかったりしました。授業参観の日も変わりません。
 特に、ストレスのたまりやすいA君が爆発して、休み時間にみんなに八つ当たりをすると、みんなもどんどん爆発していき、何の対応もできない先生の授業を無視し始めました。この状態が一年間続きました。
 四年になり、校内では、厳しいと言われていた男の先生にかわると、ぴたりと止まりました。
 その先生は、休み時間になるとみんなと遊んでくれました。授業もめりはりがあって面白くなりました。(朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、26ページ)
 

 S君のクラスでは、いじめがおこなわれていた。「いじめの中心だったA君、B君、C君が授業とは関係ないことを大声でいったり」する荒れた状態だった。
 しかし、教師が変わると、いじめはなくなった。三年では荒れていた学級が、四年では落ち着いた。学級の成員は変わっていない。変わったのは教師だけである。
 この事例で、子供の「道徳意識」は変わったのか。つまり、三年の時は「道徳意識」が低く、四年になったら急に高くなったのか。それは不自然である。
 逆の例も聞く。落ち着いていた学級が、教師が変わって荒れたというのである。その場合、高かった「道徳意識」が急に低くなったのか。それも不自然である。
 確認していただきたい事実がある。「道徳意識」概念自体が、周りの影響を受けて変化しない確固たる状態を指す概念なのである。短期間に簡単に変化しない状態を指す概念なのである。(そのような「道徳意識」が本当に存在するかどうかは別として。)だから、「三年から四年になったとたん道徳意識が高まった」・「教師が替わったとたん道徳意識が低くなった」という文言は不自然なのである。

 教師が変わるだけでいじめが解決した。

 「道徳意識」が低いからいじめが起こったと捉えていては、このような事例を説明できない。いじめを「心・意識」の問題と捉えていては、このような事例を説明できない。
 〈「道徳意識」が低いから、いじめが起こる〉といういじめ観は間違いなのである。教師が変わっただけで、いじめは無くなったのである。この状態を「道徳意識」で説明するのは困難である。
 いじめを「心・意識」の問題と捉えていては、いじめを説明する理論を作ることは出来ない。いじめの解決に役立つ理論を作ることは出来ない。


【追記】

 十週連続ブログ更新に挑戦中。

  ● コミットメットが世界を変える ――烏賀陽弘道氏のフクシマ取材に寄付してダイエットしませんか

 第二週目、成功である。

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2015年01月29日

「自己責任論」批判

 ジャーナリストが危険地帯に取材に行き、テロリストの人質になる。
 そのような場合、次のような発言がされることが多い。
 

 「危険を知って行ったのだから、自己責任である」
 
  いわゆる「自己責任論」である。
 「自己責任論」をどう考えるか。
 危険地帯に行った者に「自己責任」があるのは当たり前である。しかし、だからと言って、他の者に責任が無い訳ではない。
 次のような比喩が分かり易い。
 
 学校の暖房装置が故障した。真冬だったので、教室の温度が氷点下になってしまった。子供は風邪気味だった。しかし、家庭は子供を学校に行かせた。そして、子供は肺炎になって死んでしまった。
 
 子供が死んだ原因は、暖房装置の故障か。それとも家庭が登校させたことか。無理をして学校に行った子供か。それとも肺炎の菌か。
 この問いはアホらしい。それぞれに、別種の責任がある。
 つまり、学校は施設の管理者としての全ての責任を負う。そして、家庭は子供の管理者としての全ての責任を負う。子供は自分の行動の全ての責任を負う。そして、菌は病気の発生の全ての責任を負う。
 これらは観点を変えた時に見えてくる別種の責任である。
 だから、「子供の死の原因は、学校か。それとも家庭か。」と問うのはナンセンスである。また、「学校と菌とのどちらがどの程度悪いか」と問うのもナンセンスである。観点を変えた時に見えてくる別種の責任なのである。
 人質問題もこれと同様である。ある観点から見れば、本人が全ての責任を負う。別の観点から見れば、テロリストが全ての責任を負う。さらに、別の観点からみれば、政府が全ての責任を負う。
 「自己責任論」は、これらの責任を対立的に捉える。例えば、「自己責任だから、政府に責任はない」と捉える。これは間違いである。
 責任は多面的なのである。「自己責任かつ政府責任」なのである。
 だから、救出の努力の足りなさを批判された政府が「自己責任である」と言ったら、〈論点変更の虚偽〉になる。「自己責任」だからといって、政府に責任が無いことにはならない。
 
 「自己責任論」は〈論点変更の虚偽〉に使われる。
 

 「自己責任」があるのは当たり前である。当たり前のことを、なぜ取り立てて言うのか。誰が誰に対してどのような状況で言うのか。〈論点変更の虚偽〉になっていないか。注意する必要がある。
 「自己責任論」は〈虚偽〉の論法なのである。

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