もう一度、文部科学省の認識を見てみよう。
① 「いじめは人間として絶対に許されない」という意識を一人一人の児童生徒に徹底させなければならないこと。……
(「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」)
誠にアホらしい。
「いじめは人間として絶対に許されないことですか」と訊けば、多くの者が「許されない」と答える。
実例を挙げよう。少年院に在院中の中学生への意識調査である。
クラスの子をいじめる 86.7% (「悪いこと」と答えた回答率)
(品川裕香『心からのごめんなさいへ』中央法規、206ページ)
大きな問題行動を起こした中学生ですら、86.7パーセントが「いじめるのは悪いこと」と答えている。さらに、一般の中学生では91.2パーセントが「いじめるのは悪いこと」と答えている。
既に、大多数の子供は「いじめは悪い」と思っている。(少なくとも、「いじめは悪い」と言った方がよいことは知っている。)
もし、野口良子氏が「道徳」授業で「いじめは人間として絶対に許されないことですか」と訊いたとすれば、生徒は「許されない」と答えるであろう。
しかし、それに何の意味があるのか。口で「絶対に許されない」と答える者が、行動ではいじめをおこなう。それがいじめ問題の難しさなのだ。
現に、野口良子氏の学級ではいじめが続いたのである。教師が情熱を込めて「いじめは人間として絶対に許されない」と語る。生徒も「いじめは許されない」と言う。それにもかかわらず、いじめは続くのである。
別の観点から論ずる。
文部科学省は、何を根拠に「徹底」されたと判断するのか。「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が「児童生徒に徹底」されたと判断するのか。
大まかに言って、二つの基準が考えられる。
1 子供が口頭で「いじめは絶対に許されない」と言う。
2 子供がいじめ行動をおこなわない。
既に論じたように、1はアホらしい。
「道徳」の授業で訊けば、子供は「許されない」と答える。しかし、そう答えた子供がいじめをするのである。だから、「許されない」と言うことは、「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」を持ったと判断する基準にはならない。
それでは、2はどうだろうか。いじめ行動をおこなっていない事実を基準とするのである。いじめが発生していなければ、「徹底」されたと判断するのである。「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が「徹底」されたと判断するのである。
しかし、これは〈いじめが無い〉という結果から「道徳意識」という「原因」を想定したに過ぎない。「道徳意識」が「徹底」されたというのは、〈いじめが無い〉ことと同義である。つまり、これは実質的にトートロジーに過ぎない。
次の文言を見ていただきたい。
「いじめは絶対に許されない」という意識を持ったので、いじめが無くなった。
この文言はトートロジーである。結果から「原因」を想定したに過ぎない。〈いじめが無い〉という事実から「道徳意識」という「原因」を想定したに過ぎない。
口頭での答えに頼るのは無意味である。子供は「いじめは悪い」と「道徳」授業では言う。しかし、「いじめは悪い」と言った子供がいじめをするのである。
〈いじめが無い〉という行動に注目するならば、特に「意識」を想定する必要がなくなる。「道徳意識」が「徹底」されたと言う必要がなくなる。「いじめは無い」・「いじめは無くなった」と言えばいいのである。
「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が存在すると考えること自体が間違いなのである。
【追記】
十週連続ブログ更新に挑戦中である。
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第六週目、成功である。