【いじめ論28】大多数を占める傍観者が〈いじめ容認派〉にカウントされてしまう
いじめを予防するためには過半数以上の協力者を維持することが必要である。社会的ジレンマに陥らないためには一定数以上に協力者を維持することが必要である。図3のA点以上に協力者を維持することが必要である。
しかし、いじめには〈情報の非対称性〉がある。いじめを容認する側の情報だけが入ってくる。いじめ行動は見える。しかし、「いじめは悪い」と思っている内面は見えない。
つまり、いじめにおいては、協力者の数とは「協力者の予測数」なのである。この点で、いじめはクールビズ問題とは違う。クールビズ問題ならば、ネクタイをしている者の数は一目で分かる。協力者の実数が分かる。しかし、いじめに反対の立場である者の数は一目では分からない。協力者の数は一目では分からない。「予測」するしかない。だから、いじめにおいては「協力者の予測数」なのである。
「予測」において問題になるのが傍観者である。傍観者をどちらの側と見るかで、結果が大きく変わってくる。
傍観者の割合は大きいのである。(注1)
深谷和子氏の調査によると、いじめを傍観した者は九割に達する。
まず、「クラスのいじめをやめさせようとして、あなたは何かしましたか」と聞いてみた(表4ー1)。「いじめ」の解決に向けて何もしなかった者、すなわち全くの傍観者だった者は、小学校で六一%、中学校で六七%にものぼる。
むろん「多少働きかけれみたが、途中で断念した」と言っている者も二、三割いるが、個別に聞き取りをしてみると「やめなよ」ぐらいで、形勢不利とみてか、早々と断念しているケースが多く、これもほとんど傍観に近い。したがって、先の全然しなかった者と合わせると、九割にもなる。友だちの窮状に対して、何とかしようと懸命に働きかけた者は、たったの一割でしかない。
傍観者はいじめっ子たちにとって、その行為を支持してくれている強い味方なのだから、当事者以外の九割から支持されている「いじめ」であれば、大人が何を言おうと彼らが勢いづくのは当然だろう。(注2)
いじめを傍観した者は九割に及んでいる。
傍観している者は、内面はいじめに否定的かもしれない。しかし、傍観している者の内面は見えない。
だから、「いじめっ子」には「その行為を支持してくれている」ように思える。「強い味方」のように思える。また、傍観者にも、他の傍観者が「その行為を支持」しているように思える。
いじめ行動は見える。しかし、傍観している者の内面は見えない。すると、いじめを「支持」している者が九割いるように見える。「いじめっ子」にもそう見えるし、傍観者にもそう見える。
いじめ行動が発生している状況では、傍観者は〈いじめ容認派〉にカウントされる。そして、傍観者の割合は大きい。傍観者の割合は九割に及ぶ。
つまり、いじめ行動が発生しそれを放置した場合、九割以上の〈いじめ容認派〉が存在するように思えてしまう。協力者が一割以下だと思えてしまう。
これでは、いじめ状況に陥ってしまう。図3のBの状態になってしまう。社会的ジレンマに陥ってしまう。
〈情報の非対称性〉によって、〈いじめ容認派〉の情報だけが伝わる。その結果、九割を占める傍観者が〈いじめ容認派〉にカウントされてしまう。それによって、加速度的にいじめが蔓延するようになる。いじめ状況に陥ってしまう。
いじめ予防には過半数以上の協力者が必要である。しかし、いじめにおいては協力者の数とは、実際には「協力者の予測数」である。傍観者の内面は見えないからである。さらに、いじめには〈情報の非対称性〉がある。だから、「予測数」にはバイアスがかかる。いじめ行動だけが見えるため〈いじめ容認派〉が過大に見積もられる。大多数を占める傍観者が〈いじめ容認派〉にカウントされてしまうのである。
(注1)
いじめを加害者・被害者・観衆・傍観者の「四層構造」と捉えたのは森田洋司・清水賢二氏である。『いじめ ――教室の病』(金子書房、1986年)を参照。
(注2)
深谷和子『「いじめ世界」の子どもたち』金子書房、1996年、52ページ