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【いじめ論31】教師の「不在」がいじめを発生させる

 前回、休み時間に教師が存在するといじめが少なくなる事実を述べた。
 教師の存在が集団の状態を変える。教師の存在がいじめ行動を抑制するのである。
 この「教師」とは〈教師の役割〉のことである。「教師の存在」とは、「教師」と呼ばれている者がその場にいることではない。その場で、教師が〈教師の役割〉を果たしていることである。
 教師が〈教師の役割〉を果たしていない場合は、当然、いじめ行動は抑制されない。
 次の事例を見ていただきたい。教師が〈教師の役割〉を果たしていない事例である。教師が「不在」である事例である。

 学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった。
 ……〔略〕……
 昨日、探りを入れた結果、「この先生ならいける」と、子どもたちは思ったのであろう。大樹君は昨日以上に、私が話している時に、口をはさむようになる。大声で、全然関係のない話をし始める。
 私が注意しても、聞こうとしない。逆に、「うるさいなー。先生、いちいち注意するなよ」というようなふてくされた態度をとる。
 見かねた俊介君が、「大樹君、静かにしいや!」と勇気を出して、注意してくれる。しかし、その注意に対して、
 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」
 (俊介君のおうちではおじいさんが豆腐屋さんをしておられた)
 あっけに取られた。「小学3年生になったばかりの子どもやで。一言注意されたぐらいで、ここまで言うのか?」と思った。
 勇気を出して注意をしてくれた俊介君。罵声を浴びせられ、「先生、何とかして! 助けて!」という目で私を見つめた。
 でも、私は何もできなかった。動けなかった。大樹君に対してどうしたらいいのか、俊介君に対してどうしたらいいのか、まったくわからなかった。
 でも、他の子どもたちはしっかりみていた。
 「この先生、あかんわ」
 「あんなひどいことしたはんのに注意もできひんわ」
 「あーあ、情けな」
 というような雰囲気が子どもたちの間を流れたことだけは、教師二日目の私にもわかった。(注1)

 教師が全く〈教師の役割〉を果たしていない。いじめ行動を抑制していない。
 この教師は子供に負けている。これでは、この教師に従うより、乱暴な大樹君に従った方が安全である。教師に従うのは危険である。「あんなひどいことしたはんのに注意もできひんわ」という教師に従うのは危険である。
 この学級には、実質的に教師は存在しない。〈教師の役割〉を果たす者がいないのである。「ひどいことした」者を注意をして、学級の秩序を保つ者がいないのである。監督者がいないのである。
 監督者がいなければ、学級が荒れる。この事例では「学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった」のである。
 〈教師が教師として存在する学級〉ではいじめは発生しにくい。しかし、〈教師が教師として存在しない学級〉ではいじめが発生する。〈教師が「不在」である学級〉ではいじめが発生する。

 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」

 このような発言を許してはいけない。この発言自体がいじめ行動なのである。
 だから、教師はこの発言を撤回させなければならない。大樹君にこの発言の非を認めさせ、俊介君に謝罪させなければならない。(注2)(注3)
 それが出来るから学級の正当な秩序が保たれるのである。それが出来るから教師なのである。〈教師の役割〉を果たすから教師なのである。子供に負け、いじめ行動を放置しているようでは、それは実質的に教師ではない。

 「この先生、あかんわ」
 「あんなひどいことしたはんのに注意もできひんわ」
 「あーあ、情けな」
 というような雰囲気が子どもたちの間を流れた。

 これはもう実質的に教師として認められていないのである。監督者として認められていないのである。当然、子供はこの教師を無視して行動するようになる。結果として、学級は弱肉強食の状態になる。乱暴な大樹君のやりたい放題になる。
 先に私は次のようなスローガンを述べた。

 いじめの原因はいじめである。
 だから、いじめ行動が適切に抑制されなければならない。

 この事例では、教師が〈教師の役割〉を果たせず、いじめ行動を抑制できなかった。いじめ行動を放置してしまった。
 いじめ行動を放置していては、〈いじめ容認派〉が多数派に見えてしまう。乱暴な大樹君の行動だけがはっきりと見えるのだから、〈いじめ容認派〉が多数派に見えるのは当然である。人は顕在的な情報に反応するのである。いじめ行動がおこなわれ、それが通ってしまっている。教師は注意すらしていない。学級の成員に見えているのはそのような状態である。
 これでは、坂を転げ落ちるようにいじめ状態に陥ってしまう。現に、この事例では「学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった」のである。
 注目していただきたい事実がある。それは、乱暴な大樹君に対して俊介君が注意をしている事実である。つまり、この段階では協力者が存在したのである。〈いじめ否定派〉が存在したのである。教師が大樹君のいじめ行動を適切に抑制していれば、〈いじめ否定派〉が多数派に見えたはずである。大樹君に自分の発言の非を認めさせ、俊介君に謝罪させていれば、学級の正当な秩序が保たれたはずである。
 しかし、教師はいじめ行動を適切に抑制できなかった。大樹君の行動を適切に指導できなかった。それによって、〈いじめ容認派〉が多数派に見える状況になってしまった。非協力者が多数派に見える状況になってしまった。結果として、学級は三日で「騒乱状態」になってしまった。
 教師が「不在」であることが集団の状態を変える。教師が「不在」であると、いじめ行動は抑制されない。すると、〈いじめ容認派〉が多数派のように見えてしまう。いじめ行動は顕在的だからである。そのようないじめ行動が放置されては、集団はいじめ状況に陥っていく。この意味で、「いじめの原因はいじめ」である。
 だから、いじめ行動は適切に抑制されなければならない。いじめ行動を抑制するのは、〈教師の役割〉である。監督者の役割である。
 教師が〈教師の役割〉を果たさず、いじめ行動を放置した時、集団はいじめ状態に陥る。教師の「不在」がいじめを発生させるのである。


(注1)

 向山洋一編著『学級崩壊からの生還』扶桑社、1999年、126~128ページ


(注2)

 この発言がされること自体が異常事態である。

 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」

 だから、この発言をどう指導するかは本筋ではない。この発言を防止するためにはどうすればよかったのかが本筋である。
 この発言の前に問題があるはずである。

 ……〔略〕……大樹君は昨日以上に、私が話している時に、口をはさむようになる。大声で、全然関係のない話をし始める。
 私が注意しても、聞こうとしない。逆に、「うるさいなー。先生、いちいち注意するなよ」というようなふてくされた態度をとる。

 「昨日」の段階で「注意」が必要だったのである。教師が話している時に「口をはさむ」のを許してはいけなかったのである。
 また、指導自体が私語を許す「ぬるい」構造になっているのである。


(注3)

 指導時間内でおこなわれたいじめを教師が注意・指導できない事態は深刻である。
 これは、教師がいない休み時間にいじめ行動がおこなわれたのとは意味が違う。
 つまり、監督者であるべき教師に監督能力が無いことが明らかになってしまったのである。教師の能力の無さを学級の成員全員が見てしまったのである。教師が「不在」であることが明らかになってしまったのである。
 これでは、三日で「騒乱状態」になるのも当然である。


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2015年12月11日 23:54に投稿されたエントリーのページです。

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