宇佐美寛氏は言う。(デューイの「環境」概念を分析する文章である。)
諸井薫『昭和原人』(文藝春秋、一九八九年)に次の文章がある。(一三九 - 一四〇ページ)アメリカあたりでは、あの石油ショックのとき、文句もいわずにガソリンスタンドに延々長蛇の列を作ってはいたが、ではガソリンを自発的に節約しようとしたかといえば、そんな気配はなかった。買ったガソリンは遠慮なく使い果たして、なくなればまた行列するだけなのである。それに対して日本人は、長い行列に並んで時間を無駄に使うくらいなら、いっそ我慢して生活の方法を変えることを考えようとする。要するに、状況がそれを求めるなら、自分の欲望をあっさりと収斂してそれに慣れようという自己調節を無理なくやってのけられるのである。
……〔略〕……
どちらの生き方も、それによって命を失うことはない。どちらの生き方も、そう生きている本人たちは、よく適応していると思っている。
この日米二つの場合、環境とは何なのだろうか。ある物資の欠乏という条件は、ある社会では、人々が物資を求めようと探しまわる活動を促進する。別の社会では、落ちついて仕事を減らし、休み待つという活動を促進する。(注)
(『宇佐美寛・問題意識集9 〈実践・運動・研究〉を検証する』明治図書、241~242ページ)
「環境に適応する」と言えば、通常は物理的環境への「適応」を思い浮かべる。「物質の欠乏に適応して~の活動が発生した」という形式である。
しかし、「物資の欠乏」に「適応」して、極端に違う二つの「活動」が発生している。物理的環境への「適応」では説明できない状況が発生してる。
この状況をどう説明すればよいのか。
この場合の「環境」とは何か。いじめを論ずるために必要な範囲で述べる。
「環境」とは、周りの人々の行動である。集団の行動パターンである。
周りの人々が「探しまわる活動」をとることが、「探しまわる活動」を促進する。「探しまわる活動」を「適応的」にする。
逆に、周りの人々が「休み待つという活動」をとることが、「休み待つという活動」を促進する。「休み待つという活動」を「適応的」にする。
自分だけが「休み待つという活動」をして、ガソリンを使わず節約したとする。しかし、周りの人々が「探しまわる活動」して、どんどんガソリンを使っていては節約の効果がない。自分だけがガソリンを使えなくなってしまう。損をしてしまう。
自分だけが「探しまわる活動」をして、ガソリンを得ようとしたとする。しかし、周りの人間が「休み待つという活動」をしていては、うまくいかない。ガソリンスタンドが閉まっていたり、数量制限をしていたりするからである。
つまり、人々の行動によって、「適応的」な行動が変わってくるのである。
複数の適応が可能な事態がある。人々はそのどれかを選ぶ。その行動によって、ある適応の仕方が有利になる。「適応的」になる。人々の行動が〈環境〉になる。そのような状況が存在するのである。
〈女子高生のスカートの長さ〉はそのような状況である。短いスカートが多い東京では短いスカートを着ることが「適応的」になる。長いスカートが多い大阪では長いスカートを着ることが「適応的」になる。「防寒」「日焼け対策」などの物理的な条件は副次的である。周りの人々の行動が〈環境〉なのである。
いじめも同様である。いじめにおいては、周りの人々の行動が〈環境〉なのである。
(注)
引用した文章の表記を一部変えた。
1 傍点を強調にした。
2 引用を表す囲みを段下げにした。
これは、私のコンピューターで書籍通りの表記が出来なかったためである。