人々の行動が〈環境〉になる状況が存在する。人々の行動によって、「適応的」な行動が変わってくるのである。
例えば、石油ショック当時、人々は買いだめに走った。よく知られているのがトイレットペーパーの買いだめである。(注1)
このような行動は〈環境〉になる。
当時、普通に使う分としては、トイレットペーパーは十分にあった。そして、製造が出来なくなることもありえなかった。だから、物理的な条件だけを考慮すれば、買いだめ行動は必要なかった。
しかし、周りの人々が買いだめ行動をしてる状況ではどうだろうか。人々が買いだめ行動をしている状況では、トイレットペーパーは不足する。現実に店頭から完全にトイレットペーパーが無くなってしまう。トイレットペーパーの在庫は、通常の使用が基準である。当然、買いだめをする分を見こした在庫などない。
だから、結果的に買いだめ行動をしなかった人が困ることになる。トイレットペーパーを手に入れられなくなる。逆に、買いだめ行動をした人は得をする。
つまり、人々が買いだめ行動をしている状況では、自分も買いだめ行動をしなくてはならなくなる。買いだめ行動をした人が得をし、しなかった人が損をする。
人々の行動が〈環境〉になる。そして、その〈環境〉に適応する者が得をする。そのような状況がある。
別の観点から論じる。
確かに、トイレットペーパーの買いだめは、一人ひとりの人間にとっては得な「選択」である。しかし、社会全体にとってはどうだろうか。社会全体にとっては大きな損害である。全員が損をしているのである。
まず、人々がトイレットペーパーを探すのがコストである。また、買うために列に並ぶ時間がコストである。さらに、トイレットペーパーのために争い悩むのがコストである。これらは人々が買いだめ行動をしなければ、必要ないコストであった。(注2)
つまり、一人ひとりが得をしようとした結果、社会全体では大きなコストが発生してしまった。一人ひとりがトイレットペーパーを買いだめするという得な行動した結果、全員が損をすることになってしまった。
いじめも同様の現象である。
いじめを傍観するというのは一人ひとりにとって楽な「選択」である。得な「選択」である。しかし、その結果、いじめが荒れ狂う学級になってしまっては、全員が損をする。
事例を挙げる。
現在中三なので受験生ですが、この時の仲間のほとんどは、小学校時代の基礎ができていなかった為からか、とても苦労しています。
(朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、41ページ)
この子供の学級は荒れてしまった。小学六年生の一年間、満足に学習が出来ない状態になってしまった。そのため「基礎ができていな」い状態になってしまった。受験で苦労することになってしまった。
いじめが荒れ狂う学級で勉強をするのは難しい。いじめが荒れ狂う学級で生活するのは苦しい。当然、本人の将来に影響がある。
いじめが荒れ狂っている学級では、みんなが損をする。
そして、それは一人ひとりが自分にとって得な「選択」をした結果なのである。
(注1)
「トイレットペーパー騒動」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E9%A8%92%E5%8B%95
(注2)
それだけではない。店側にも殺到する客に対応するコストが発生する。問屋にも異常な量の注文に対応するコストが発生する。製紙会社にもコストが発生する。増産しなければならなくなる。
さらに、その後がある。何しろ人が使うトイレットペーパーの量は一定なのである。皆が買いだめをしたら、その後トイレットペーパーは売れなくなる。
このような一時的な需要に対応するのには大きなコストがかかる。