夏にネクタイをすると、暑く苦しい。しかし、苦しい格好を多くの会社員がしていた。それは大多数の会社員がネクタイをしていたからである。所属集団の大多数がネクタイをしていたからである。
政府は省エネルックを提唱した。「涼しい格好をして省エネしましょう」という趣旨の呼びかけをした。これは個人の「心・意識」に働きかけようとしたのである。「心・意識」を変えようとしたのである。
しかし、それは効果がなかった。政府の呼びかけに国会議員すら従わなかった。
なぜか。ネクタイを外したくても外すことは出来なかったのである。そのような状況があったのである。
集団の大多数がネクタイをしているという状況がある。服装は相手に対する敬意の表現でもある。自分だけ外せば、相手が敬意を表しているのに自分は表さないことになる。この状況は一人では変えられない。相手がネクタイを外さないと、こちらも外すことが出来ないのだ。
大多数がネクタイをしている状況下では、ネクタイをするのが得な「選択」になる。相手の服装にこちらも合わせなくてはならなくなる。自分だけが相手に敬意を表さないのはまずいからだ。
クールビズ問題は「心・意識」の問題ではなく集団の問題だった。社会的ジレンマであった。一人ひとりが自分が得な「選択」をした結果であった。だから、政府が「涼しい格好をして省エネしましょう」と呼びかけても効果が無かったのである。
いじめも同様である。
集団の大多数がいじめを傍観する状況下では、個人としてはいじめを傍観するのが得な「選択」になる。いじめを「容認」するのが得な「選択」になる。
教師が「いじめは人間として絶対に許されない行為だ」などと説諭する。個人の「心・意識」に働きかけようとする。「心・意識」を変えようとする。
しかし、それではいじめはほとんど解決しない。それは、いじめが「心・意識」の問題ではなく集団の問題だからだ。社会的ジレンマだからだ。一人ひとりが自分が得な「選択」をした結果だからだ。
いじめが横行してはクラスの雰囲気が悪くなる。びくびくしながら生活せざるを得なくなる。勉強が出来る落ち着いた環境ではなくなる。
ネクタイで自分の首を絞める。いじめを傍観して自分の首を絞める。自分で自分の首を絞めているのである。
社会的ジレンマは「自分で自分の首を絞める」状況なのである。
「首を絞める」のは苦しい。しかし、大多数の人間が「絞め」ている状況では、自分だけが「絞め」るのをやめる訳にはいかない。
これが社会的ジレンマの構造である。
だから、解決が難しいのである。