【いじめ論30】休み時間に教師が存在するといじめは抑止される
ノルウェーの都市ベルゲンでの調査を基にダン・オルウェーズは言う。
ベンゲン研究では、休み時間および昼休みにおける監督方法といじめとの関係を調べることができた。この研究に参加した約四〇の小学校および中学校において、こうした時間に『生徒と一緒にいる教師の数』といじめの件数との間には、はっきりしたマイナスの関連性が認められた。つまり、こうした時間に監督している教師の数(生徒一〇〇人あたりの教師の数)が多ければ多いほど、その学校のいじめの件数は少なかったのである。(注1)
休み時間に「生徒と一緒にいる教師の数」と「いじめの件数」とは「はっきりしたマイナスの関連性」があった。休み時間に教師がいるといじめは少なくなる。教師がたくさんいればいるほど少なくなる。
この事実をどう解釈するか。
これは、いじめが社会的ジレンマである証拠である。先に私は次のように述べた。
1 いじめは社会的ジレンマである。
2 いじめを予防するためには過半数以上の「協力者」が必要である。
3 しかし、いじめには〈情報の非対称性〉がある。
4 いじめ行動を放置すると傍観者が〈いじめ容認派〉と見なされ、過半数以上の「協力者」が維持できなくなる。いじめ状態に陥ってしまう。
5 だから、いじめ行動を抑制する必要がある。また、反いじめ行動を促進する必要がある。
休み時間に教師が存在するといじめが少なくなる事実はこの理論と整合している。
私は〈いじめ行動を抑制すれば、いじめ状況は発生しない〉という趣旨を述べていた。
教師が存在する状況は、正にいじめ行動の抑制である。教師が存在する事実が集団の状態を変える。
教師の「監督」下でいじめをするのは難しい。いじめをすれば教師に注意される。いじめをするのが難しいので、いじめ行動は発生しない。いじめ行動が発生しなければ、傍観者は〈いじめ容認派〉と見なされない。過半数以上の「協力者」を維持できるので、いじめ状態に陥らない。
教師の存在がいじめを少なくする事実はこのように解釈できる。いじめは社会的ジレンマなのである。集団の問題なのである。
この事実を基にオルウェーズは次のような対策を提案する。
いじめの大部分は、登下校時より学校内で起きる。すでに見たように、休み時間や昼休みの時間に比較的多くの教師が生徒たちと一緒にいる学校では、いじめはあまり起きない。したがって、適当な数の外部の大人(訳者注-たとえばPTAのメンバー)が昼休み時間に生徒と一緒に過ごすことや、学校側が生徒の活動について適切に監督することが重要である。このことは昼休みの時間(多くの学校では、大人の監督なしに生徒たちは完全に野放しにされている)にもあてはまる。このことを実行する一つの確実な方法は、休み時間や昼休みの監督が円滑に行なわれるようなはっきりした計画を作ることである。(注2)(注3)
つまり、オルウェーズは次のような論理を述べている。
a いじめは主に休み時間に起こる。
b 休み時間に教師がいれば、いじめは発生しにくい。
c だから、教師(またはそれに代わる大人)が休み時間に子供を「監督」すればよい。
これは具体的な事実を基にした論理である。そして、a~cが密接に繋がっている。論理の飛躍が無い。
休み時間に教師が存在するといじめが抑止される。
これは明確な事実である。この明確な事実は、いじめという複雑な現象を理解するための手がかりになる。(注4)
いじめを社会的ジレンマと捉える理論はこの事実と整合している。社会的ジレンマとしてまとめよう。
1 休み時間に教師(またはそれに代わる大人)がいるといじめ行動が発生しにくい。
2 いじめ行動が発生しないならば、傍観者は〈いじめ容認派〉にカウントされない。
3 よって、教師が存在するといじめ状況に陥りにくい。
いじめを社会的ジレンマと捉える理論は、いじめを集団の問題と捉える理論である。集団の状態と捉える理論である。
教師の存在が集団の状態を変える。教師の存在がいじめ行動を抑制する。いじめ行動の抑制が傍観者の解釈を変える。傍観者が〈いじめ容認派〉と見なされるのを防止する。〈いじめ容認派〉が多数派と見なされるのを防止する。それによって、いじめ状況に陥ることがなくなる。
教師の存在が集団の状態を変える。教師の存在がいじめを抑止するのである。
(注1)
ダン・オルウェーズ著 松井賚夫・角山剛・都築幸恵訳『いじめ こうすれば防げる』川島書房、1995年、45ページ
(注2)
同、96~97ページ
(注3)
原著では傍点の部分を強調に変えた。
(注4)
確かに、〈休み時間に教師が存在するといじめが抑止される〉のは当たり前の事実である。しかし、文部科学省を含めてほとんどの論者が、この当たり前の事実を踏まえていないのである。
文科省は、いじめを防ぐために「道徳教育」をおこなうと言う。それは、いじめをおこなう者の道徳意識が低いと考えるからである。
しかし、既に述べたように、それは間違った論理である。また、何の成果も出ていない。「道徳教育」によって、いじめが減ったというエビデンスはない。
それに対して、オルウェーズの論理は現実にいじめを減らしているのである。そして、その論理には、「道徳意識」も「心」も想定されていない。いじめを減らすためには「道徳意識」も「心」も必要なかったのである。
いや、「道徳意識」や「心」を想定すること自体が問題を見えにくくしているのである。