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2015年12月 アーカイブ

2015年12月04日

【いじめ論30】休み時間に教師が存在するといじめは抑止される

 ノルウェーの都市ベルゲンでの調査を基にダン・オルウェーズは言う。

 ベンゲン研究では、休み時間および昼休みにおける監督方法といじめとの関係を調べることができた。この研究に参加した約四〇の小学校および中学校において、こうした時間に『生徒と一緒にいる教師の数』といじめの件数との間には、はっきりしたマイナスの関連性が認められた。つまり、こうした時間に監督している教師の数(生徒一〇〇人あたりの教師の数)が多ければ多いほど、その学校のいじめの件数は少なかったのである。(注1)

 休み時間に「生徒と一緒にいる教師の数」と「いじめの件数」とは「はっきりしたマイナスの関連性」があった。休み時間に教師がいるといじめは少なくなる。教師がたくさんいればいるほど少なくなる。
 この事実をどう解釈するか。
 これは、いじめが社会的ジレンマである証拠である。先に私は次のように述べた。

 1 いじめは社会的ジレンマである。
 2 いじめを予防するためには過半数以上の「協力者」が必要である。
 3 しかし、いじめには〈情報の非対称性〉がある。
 4 いじめ行動を放置すると傍観者が〈いじめ容認派〉と見なされ、過半数以上の「協力者」が維持できなくなる。いじめ状態に陥ってしまう。
 5 だから、いじめ行動を抑制する必要がある。また、反いじめ行動を促進する必要がある。

 休み時間に教師が存在するといじめが少なくなる事実はこの理論と整合している。
 私は〈いじめ行動を抑制すれば、いじめ状況は発生しない〉という趣旨を述べていた。
 教師が存在する状況は、正にいじめ行動の抑制である。教師が存在する事実が集団の状態を変える。
 教師の「監督」下でいじめをするのは難しい。いじめをすれば教師に注意される。いじめをするのが難しいので、いじめ行動は発生しない。いじめ行動が発生しなければ、傍観者は〈いじめ容認派〉と見なされない。過半数以上の「協力者」を維持できるので、いじめ状態に陥らない。
 教師の存在がいじめを少なくする事実はこのように解釈できる。いじめは社会的ジレンマなのである。集団の問題なのである。
 この事実を基にオルウェーズは次のような対策を提案する。

 いじめの大部分は、登下校時より学校内で起きる。すでに見たように、休み時間や昼休みの時間に比較的多くの教師が生徒たちと一緒にいる学校では、いじめはあまり起きない。したがって、適当な数の外部の大人(訳者注-たとえばPTAのメンバー)が昼休み時間に生徒と一緒に過ごすことや、学校側が生徒の活動について適切に監督することが重要である。このことは昼休みの時間(多くの学校では、大人の監督なしに生徒たちは完全に野放しにされている)にもあてはまる。このことを実行する一つの確実な方法は、休み時間や昼休みの監督が円滑に行なわれるようなはっきりした計画を作ることである。(注2)(注3)

 つまり、オルウェーズは次のような論理を述べている。

 a いじめは主に休み時間に起こる。
 b 休み時間に教師がいれば、いじめは発生しにくい。
 c だから、教師(またはそれに代わる大人)が休み時間に子供を「監督」すればよい。

 これは具体的な事実を基にした論理である。そして、a~cが密接に繋がっている。論理の飛躍が無い。
 休み時間に教師が存在するといじめが抑止される。
 これは明確な事実である。この明確な事実は、いじめという複雑な現象を理解するための手がかりになる。(注4)
 いじめを社会的ジレンマと捉える理論はこの事実と整合している。社会的ジレンマとしてまとめよう。

 1 休み時間に教師(またはそれに代わる大人)がいるといじめ行動が発生しにくい。
 2 いじめ行動が発生しないならば、傍観者は〈いじめ容認派〉にカウントされない。
 3 よって、教師が存在するといじめ状況に陥りにくい。

 いじめを社会的ジレンマと捉える理論は、いじめを集団の問題と捉える理論である。集団の状態と捉える理論である。
 教師の存在が集団の状態を変える。教師の存在がいじめ行動を抑制する。いじめ行動の抑制が傍観者の解釈を変える。傍観者が〈いじめ容認派〉と見なされるのを防止する。〈いじめ容認派〉が多数派と見なされるのを防止する。それによって、いじめ状況に陥ることがなくなる。
 教師の存在が集団の状態を変える。教師の存在がいじめを抑止するのである。


(注1)

 ダン・オルウェーズ著 松井賚夫・角山剛・都築幸恵訳『いじめ こうすれば防げる』川島書房、1995年、45ページ

(注2)

 同、96~97ページ

(注3)

 原著では傍点の部分を強調に変えた。

(注4)

 確かに、〈休み時間に教師が存在するといじめが抑止される〉のは当たり前の事実である。しかし、文部科学省を含めてほとんどの論者が、この当たり前の事実を踏まえていないのである。
 文科省は、いじめを防ぐために「道徳教育」をおこなうと言う。それは、いじめをおこなう者の道徳意識が低いと考えるからである。
 しかし、既に述べたように、それは間違った論理である。また、何の成果も出ていない。「道徳教育」によって、いじめが減ったというエビデンスはない。
 それに対して、オルウェーズの論理は現実にいじめを減らしているのである。そして、その論理には、「道徳意識」も「心」も想定されていない。いじめを減らすためには「道徳意識」も「心」も必要なかったのである。
 いや、「道徳意識」や「心」を想定すること自体が問題を見えにくくしているのである。

2015年12月11日

【いじめ論31】教師の「不在」がいじめを発生させる

 前回、休み時間に教師が存在するといじめが少なくなる事実を述べた。
 教師の存在が集団の状態を変える。教師の存在がいじめ行動を抑制するのである。
 この「教師」とは〈教師の役割〉のことである。「教師の存在」とは、「教師」と呼ばれている者がその場にいることではない。その場で、教師が〈教師の役割〉を果たしていることである。
 教師が〈教師の役割〉を果たしていない場合は、当然、いじめ行動は抑制されない。
 次の事例を見ていただきたい。教師が〈教師の役割〉を果たしていない事例である。教師が「不在」である事例である。

 学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった。
 ……〔略〕……
 昨日、探りを入れた結果、「この先生ならいける」と、子どもたちは思ったのであろう。大樹君は昨日以上に、私が話している時に、口をはさむようになる。大声で、全然関係のない話をし始める。
 私が注意しても、聞こうとしない。逆に、「うるさいなー。先生、いちいち注意するなよ」というようなふてくされた態度をとる。
 見かねた俊介君が、「大樹君、静かにしいや!」と勇気を出して、注意してくれる。しかし、その注意に対して、
 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」
 (俊介君のおうちではおじいさんが豆腐屋さんをしておられた)
 あっけに取られた。「小学3年生になったばかりの子どもやで。一言注意されたぐらいで、ここまで言うのか?」と思った。
 勇気を出して注意をしてくれた俊介君。罵声を浴びせられ、「先生、何とかして! 助けて!」という目で私を見つめた。
 でも、私は何もできなかった。動けなかった。大樹君に対してどうしたらいいのか、俊介君に対してどうしたらいいのか、まったくわからなかった。
 でも、他の子どもたちはしっかりみていた。
 「この先生、あかんわ」
 「あんなひどいことしたはんのに注意もできひんわ」
 「あーあ、情けな」
 というような雰囲気が子どもたちの間を流れたことだけは、教師二日目の私にもわかった。(注1)

 教師が全く〈教師の役割〉を果たしていない。いじめ行動を抑制していない。
 この教師は子供に負けている。これでは、この教師に従うより、乱暴な大樹君に従った方が安全である。教師に従うのは危険である。「あんなひどいことしたはんのに注意もできひんわ」という教師に従うのは危険である。
 この学級には、実質的に教師は存在しない。〈教師の役割〉を果たす者がいないのである。「ひどいことした」者を注意をして、学級の秩序を保つ者がいないのである。監督者がいないのである。
 監督者がいなければ、学級が荒れる。この事例では「学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった」のである。
 〈教師が教師として存在する学級〉ではいじめは発生しにくい。しかし、〈教師が教師として存在しない学級〉ではいじめが発生する。〈教師が「不在」である学級〉ではいじめが発生する。

 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」

 このような発言を許してはいけない。この発言自体がいじめ行動なのである。
 だから、教師はこの発言を撤回させなければならない。大樹君にこの発言の非を認めさせ、俊介君に謝罪させなければならない。(注2)(注3)
 それが出来るから学級の正当な秩序が保たれるのである。それが出来るから教師なのである。〈教師の役割〉を果たすから教師なのである。子供に負け、いじめ行動を放置しているようでは、それは実質的に教師ではない。

 「この先生、あかんわ」
 「あんなひどいことしたはんのに注意もできひんわ」
 「あーあ、情けな」
 というような雰囲気が子どもたちの間を流れた。

 これはもう実質的に教師として認められていないのである。監督者として認められていないのである。当然、子供はこの教師を無視して行動するようになる。結果として、学級は弱肉強食の状態になる。乱暴な大樹君のやりたい放題になる。
 先に私は次のようなスローガンを述べた。

 いじめの原因はいじめである。
 だから、いじめ行動が適切に抑制されなければならない。

 この事例では、教師が〈教師の役割〉を果たせず、いじめ行動を抑制できなかった。いじめ行動を放置してしまった。
 いじめ行動を放置していては、〈いじめ容認派〉が多数派に見えてしまう。乱暴な大樹君の行動だけがはっきりと見えるのだから、〈いじめ容認派〉が多数派に見えるのは当然である。人は顕在的な情報に反応するのである。いじめ行動がおこなわれ、それが通ってしまっている。教師は注意すらしていない。学級の成員に見えているのはそのような状態である。
 これでは、坂を転げ落ちるようにいじめ状態に陥ってしまう。現に、この事例では「学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった」のである。
 注目していただきたい事実がある。それは、乱暴な大樹君に対して俊介君が注意をしている事実である。つまり、この段階では協力者が存在したのである。〈いじめ否定派〉が存在したのである。教師が大樹君のいじめ行動を適切に抑制していれば、〈いじめ否定派〉が多数派に見えたはずである。大樹君に自分の発言の非を認めさせ、俊介君に謝罪させていれば、学級の正当な秩序が保たれたはずである。
 しかし、教師はいじめ行動を適切に抑制できなかった。大樹君の行動を適切に指導できなかった。それによって、〈いじめ容認派〉が多数派に見える状況になってしまった。非協力者が多数派に見える状況になってしまった。結果として、学級は三日で「騒乱状態」になってしまった。
 教師が「不在」であることが集団の状態を変える。教師が「不在」であると、いじめ行動は抑制されない。すると、〈いじめ容認派〉が多数派のように見えてしまう。いじめ行動は顕在的だからである。そのようないじめ行動が放置されては、集団はいじめ状況に陥っていく。この意味で、「いじめの原因はいじめ」である。
 だから、いじめ行動は適切に抑制されなければならない。いじめ行動を抑制するのは、〈教師の役割〉である。監督者の役割である。
 教師が〈教師の役割〉を果たさず、いじめ行動を放置した時、集団はいじめ状態に陥る。教師の「不在」がいじめを発生させるのである。


(注1)

 向山洋一編著『学級崩壊からの生還』扶桑社、1999年、126~128ページ


(注2)

 この発言がされること自体が異常事態である。

 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」

 だから、この発言をどう指導するかは本筋ではない。この発言を防止するためにはどうすればよかったのかが本筋である。
 この発言の前に問題があるはずである。

 ……〔略〕……大樹君は昨日以上に、私が話している時に、口をはさむようになる。大声で、全然関係のない話をし始める。
 私が注意しても、聞こうとしない。逆に、「うるさいなー。先生、いちいち注意するなよ」というようなふてくされた態度をとる。

 「昨日」の段階で「注意」が必要だったのである。教師が話している時に「口をはさむ」のを許してはいけなかったのである。
 また、指導自体が私語を許す「ぬるい」構造になっているのである。


(注3)

 指導時間内でおこなわれたいじめを教師が注意・指導できない事態は深刻である。
 これは、教師がいない休み時間にいじめ行動がおこなわれたのとは意味が違う。
 つまり、監督者であるべき教師に監督能力が無いことが明らかになってしまったのである。教師の能力の無さを学級の成員全員が見てしまったのである。教師が「不在」であることが明らかになってしまったのである。
 これでは、三日で「騒乱状態」になるのも当然である。


2015年12月18日

【いじめ論32】教師の存在がいじめ行動を抑制する

 いじめ行動は適切に抑制されなければならない。いじめ行動を抑制するのは、〈教師の役割〉である。監督者の役割である。
 教師が〈教師の役割〉を果たさないと、集団はいじめ状態に陥る。いじめ行動を放置すると、集団はいじめ状態に陥る。教師の「不在」がいじめを発生させるのである。
 前回、教師がいじめ行動が抑制できなかった事例を挙げた。

 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」

 教師はこのいじめ行動を抑制できなかった。指導できなかった。
 このいじめ行動をどう抑制すればよかったのか。どう指導すればよかったのか。
 思考実験してみよう。(注1)
 まず、第一声はこうである。気迫を込めて言う。

 大樹君、立ちなさい。
 今言ったことをもう一度言ってみなさい。

 通常は、大樹君は立ったまま黙るはずである。大樹君は、ついかっとなって言った。しかし、落ち着いてみると「マズいことを言ってしまった」と自分で気がつくのである。感情モードから思考モードに変わるのである。(注2)
 黙っているので、次のように追い打ちをかける。

 どうしたのですか。
 今言ったばかりです。
 覚えているでしょう。
 言ってください。

 大樹君はさらに黙り続ける。
 大樹君がとても申し訳なさそうしていたら、助け船を出す。(注3)

 黙っているということは悪いことをしたと思っているのですね。

 この言葉に大樹君が頷いたら言う。

 悪いことをしたと分かったのですね。
 では、俊介君に謝りなさい。

 謝ったら、俊介君に聞く。

 俊介君、いいですか。

 俊介君が頷いたら、大樹君の指導は完了である。
 続いて、全体に対して指導をする。

 人のお家の仕事をとやかく言って、相手をバカにするのは差別です。
 先生は、差別は絶対に許しませんよ。

 こう言って、全体に対していじめ行動は許さないという宣言をするのである。
 大筋でこのような流れの指導になるだろう。これで必要な指導がされた。
 大樹君の発言を許さず、撤回させる。悪いと認めさせる。そして、俊介君にきちんと謝罪させる。
 この指導で学級の正当な秩序が保たれる。教師が〈教師の役割〉を果たしたのである。いじめ行動を適切に抑制したのである。これが教師が存在する状態である。監督者がいる状態である。
 先の事例と比べて欲しい。先の事例では、教師が〈教師の役割〉を果たせなかった。いじめ行動を放置してしまった。教師が「不在」であった。監督者がいない状態であった。
 その結果、坂を転げ落ちるようにいじめ状態に陥ってしまった。「学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった」のである。
 「いじめの原因はいじめ」である。いじめ行動を放置すれば、いじめ状態に陥ってしまう。だから、いじめ行動を適切に抑制しなければならない。
 そのためには教師が〈教師の役割〉を果たす必要がある。教師が存在する必要がある。教師の存在がいじめ行動を抑制するのである。


(注1)

 教師の指導中にこのような発言がされること自体が異常な事態である。
 だから、本来は、このような発言がされないように前もって手を打っておくべきである。
 しかし、この異常な発言をどう指導したらいいかを考えることは有益である。いじめ行動の抑制の例を示すことができるからである。
 だから、これは思考実験である。


(注2)

 感情モードを思考モードに変えるためには、静寂が必要である。緊張した雰囲気が必要である。静まりかえった教室に一人で立っているから、自分の言動を反省できるのである。だから、教室が騒がしい時には、静かにさせる必要がある。静かにさせるには様々な方法がある。
 しかし、その前提として、教師が差別に対して〈強い怒り〉を持っていることが重要である。教師の〈強い怒り〉は子供に伝わるのである。


(注3)

 この段階で大樹君が反省の色を見せない場合は、さらなる手立てが必要である。
 例えば、次のようにである。

 大樹君が言ったことがよいと思う人は手を挙げなさい。ほら。誰も手を挙げていないよ。みんな、君がしたことが悪いと言っているよ。

 集団が大樹君の言動を支持していないことを顕在化させるのである。

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