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2015年06月 アーカイブ

2015年06月02日

【いじめ論13】「いじめの原因はいじめ」である

 誤解を恐れず、ズバリと言い切ってみよう。

 いじめの原因は心ではない。
 いじめの原因はいじめである。

 スローガンとしてはこれでよい。(注)
 スローガンなので、もちろん雑である。それは、今後の論述で精密にしていく。
 「いじめの原因はいじめ」である。いじめは「女子高生のスカート長さ」と同様の現象である。
 東京の女子高生のスカートは短い。
 パンツが見えそうな位にスカートが短い女子高生がいる。あのように短くては、確かに冬は寒いだろう。必ずしも機能的とは言えない格好である。
 なぜ、スカートがそんなに極端に短くなるのか。
 そのような女子高生のありさまを思い浮かべて欲しい。スカートが短い女子高生が単独で存在することはない。スカートが極端に短い女子高生は集団で存在するのだ。仲間集団全体が短い状態なのだ。
 スカートを短くするのは集団の他の成員が短くしているからだ。集団の他の成員が短くしている以上、短くせざるを得ないのだ。
 だから、大阪では長いスカートを着ていた女子高生が、東京に引っ越したら短くせざるを得なくなる。
 つまり、これは集団的現象なのである。ある生徒の行動が他の生徒の行動に影響を与える。その行動がまた他の生徒の行動に影響を与える。生徒同士が影響を与え合う。その結果、極端な状態が発生する。
 いじめも同様の集団的現象である。「女子高生のスカートの長さ」と同様の集団的現象なのである。
 もし、「短いスカートをやめたい」と思っても、一人では出来ない。スカートが短い仲間集団内で一人だけ長いスカートを着るのは困難である。
 いじめも同様である。「いじめをやめたい」と思っても、一人ではやめられない。
 具体例を見てみよう。

 グループ内の交換日記に、順番にいじめがはじまり、次は誰をターゲットにするかというなかで、晶子さんがやめようと言い出したことでやられはじめたと書いていた。
 (武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、65ページ)

 晶子さんがいじめられたきっかけは「やめようと言い出した」ことである。一人でいじめをやめようとした結果、自分がいじめられるようになったのである。
 「いじめをやめたい」と思っても、一人ではやめられない。「やめようと言い出した」者がいじめられる。
 それは、いじめが集団的現象だからだ。
 「いじめの原因はいじめ」なのである。


(注)
 スローガンに頼っていては理論は出来ない。
 だから、理論からはスローガンを排除するべきである。
 しかし、現在、「いじめの原因は心である」という悪影響が大きいスローガンが信じられている。
 それに対抗するため「いじめの原因はいじめである」というスローガンを対置してみた。方向性が正しいスローガンである。
 また、このスローガンによって、今後の論述の方向性がはっきりしたはずである。
 

2015年06月09日

【いじめ論14】〈いじめを傍観する者の数〉は二極化している

 スローガンをもう一度書く。

 いじめの原因は心ではない。
 いじめの原因はいじめである。

 いじめを一人でやめることは困難である。「やめようと言い出した」者がいじめられたりする。それは、いじめが集団的現象だからである。
 いじめは〈女子高生のスカートの長さ〉と同様の集団的現象である。スカートの短い女子高生は東京では極端に多い。大阪では極端に少ない。同様に、いじめも、多いクラスでは極端に多い。少ないクラスでは極端に少ない。
 この事実を示す調査結果がある。正高信男氏による調査である。
 正高信男氏は、いじめの指標となる〈いじめを傍観する者の数〉が両極端になる事実を発見した。(注1)


bunpu.jpg
  (正高信男『いじめを許す心理』岩波書店、108ページ)


 この図には山が二つある。5~15パーセントと30~35パーセントの二つである。
 この調査によって、傍観者の数が二極化している事実が発見された。次の二つに大きく分かれている。

 1 いじめを傍観する者が少ないクラス
 2 いじめを傍観する者が多いクラス

 つまり、傍観者は、少ないか、多いかのどちらかになっている。中間が少ない。傍観者の割合が5~15パーセント(いじめを傍観する者が少ないクラス)と30~35パーセント(いじめを傍観する者が多いクラス)とピークが二つになっている。
 これは、いじめが集団的現象であることを示している。
 集団の影響を受けない個人的現象ならば、ピークは一つのはずである。正規分布になるはずである。
 例えば、身長である。身長の分布は次のような形になる。


g_h17m.png
 http://www.geocities.jp/resultri/crankcho/height_j.html より


 個々人の身長は、どのような集団に入ろうと変化しない。身長の分布は正規分布になる。中間が多くなる。(注2)
 しかし、集団的現象はそれとは違う。集団が影響を与え合うからである。
 スカートの短い生徒の分布は、正規分布にはならない。クラス内のスカートの短い生徒の割合は東京では多い。大阪では少ない。両極端になる。ピークは二つになる。それは、集団的現象だからである。
 いじめは〈女子高生のスカートの長さ〉と同様の集団的現象である。だから、傍観者の分布は正規分布にならない。両極端になる。
 それは、集団が影響を与え合いながら行動パターンを作るからである。
 クラスにおいて、集団の行動パターンが作られる。いじめを容認する行動パターンが作られるか。容認しない行動パターンが作られるか。傍観するか。いじめを止めるか。
 いじめが容認される行動パターンが作られれば、いじめが横行する。それは、集団が影響を与え合った結果なのである。
 女子高生のスカートが短くなる「原因」は何か。それは、みんながスカートを短くしていることである。
 では、いじめの「原因」は何か。それは、みんながいじめをしていることである。みんながいじめを容認していることである。傍観者が多いことである。
 つまり、「いじめの原因はいじめ」である。


(注1)

 正高信男氏は言う。

 調査対象となったクラスの先生に改めていじめの有無を尋ねたところ、横軸の値が三〇のあたりにできたピークにあたるクラスの大半では、特定の生徒への暴力行為が常習化していることも、判明しました。もう一つの大きいピークを構成しているクラスでは同様の報告は一切、出てきませんでした。
 (同上、108~109ページ)

 〈いじめを傍観する者の数〉は、いじめの指標となる。
 傍観者の多いクラスでは、いじめが「常習化」している。それに対して、傍観者の少ないクラスでは、そのような「報告」は無かった。


(注2)

 これは「いじめの原因は心ではない」証拠である。
 個人が持っている確固たる心(道徳意識)がいじめの「原因」であるならば、いじめの分布は正規分布になるはずである。身長と同じように中間が多くなるはずである。
 しかし、実際には二極化しているのである。

2015年06月16日

【いじめ論15】周りの人々の行動が〈環境〉なのである

 宇佐美寛氏は言う。(デューイの「環境」概念を分析する文章である。)
 

 諸井薫『昭和原人』(文藝春秋、一九八九年)に次の文章がある。(一三九 - 一四〇ページ)

 アメリカあたりでは、あの石油ショックのとき、文句もいわずにガソリンスタンドに延々長蛇の列を作ってはいたが、ではガソリンを自発的に節約しようとしたかといえば、そんな気配はなかった。買ったガソリンは遠慮なく使い果たして、なくなればまた行列するだけなのである。それに対して日本人は、長い行列に並んで時間を無駄に使うくらいなら、いっそ我慢して生活の方法を変えることを考えようとする。要するに、状況がそれを求めるなら、自分の欲望をあっさりと収斂してそれに慣れようという自己調節を無理なくやってのけられるのである。
 ……〔略〕……

 どちらの生き方も、それによって命を失うことはない。どちらの生き方も、そう生きている本人たちは、よく適応していると思っている。
 この日米二つの場合、環境とは何なのだろうか。ある物資の欠乏という条件は、ある社会では、人々が物資を求めようと探しまわる活動を促進する。別の社会では、落ちついて仕事を減らし、休み待つという活動を促進する。(注)
 (『宇佐美寛・問題意識集9 〈実践・運動・研究〉を検証する』明治図書、241~242ページ)

 「環境に適応する」と言えば、通常は物理的環境への「適応」を思い浮かべる。「物質の欠乏に適応して~の活動が発生した」という形式である。
 しかし、「物資の欠乏」に「適応」して、極端に違う二つの「活動」が発生している。物理的環境への「適応」では説明できない状況が発生してる。
 この状況をどう説明すればよいのか。
 この場合の「環境」とは何か。いじめを論ずるために必要な範囲で述べる。
 「環境」とは、周りの人々の行動である。集団の行動パターンである。
 周りの人々が「探しまわる活動」をとることが、「探しまわる活動」を促進する。「探しまわる活動」を「適応的」にする。
 逆に、周りの人々が「休み待つという活動」をとることが、「休み待つという活動」を促進する。「休み待つという活動」を「適応的」にする。
 自分だけが「休み待つという活動」をして、ガソリンを使わず節約したとする。しかし、周りの人々が「探しまわる活動」して、どんどんガソリンを使っていては節約の効果がない。自分だけがガソリンを使えなくなってしまう。損をしてしまう。
 自分だけが「探しまわる活動」をして、ガソリンを得ようとしたとする。しかし、周りの人間が「休み待つという活動」をしていては、うまくいかない。ガソリンスタンドが閉まっていたり、数量制限をしていたりするからである。
 つまり、人々の行動によって、「適応的」な行動が変わってくるのである。
 複数の適応が可能な事態がある。人々はそのどれかを選ぶ。その行動によって、ある適応の仕方が有利になる。「適応的」になる。人々の行動が〈環境〉になる。そのような状況が存在するのである。
 〈女子高生のスカートの長さ〉はそのような状況である。短いスカートが多い東京では短いスカートを着ることが「適応的」になる。長いスカートが多い大阪では長いスカートを着ることが「適応的」になる。「防寒」「日焼け対策」などの物理的な条件は副次的である。周りの人々の行動が〈環境〉なのである。
 いじめも同様である。いじめにおいては、周りの人々の行動が〈環境〉なのである。


(注)

 引用した文章の表記を一部変えた。

  1 傍点を強調にした。
  2 引用を表す囲みを段下げにした。

 これは、私のコンピューターで書籍通りの表記が出来なかったためである。

2015年06月23日

【いじめ論16】一人ひとりが得な行動をした結果、全体として大きな損失が発生する

 人々の行動が〈環境〉になる状況が存在する。人々の行動によって、「適応的」な行動が変わってくるのである。
 例えば、石油ショック当時、人々は買いだめに走った。よく知られているのがトイレットペーパーの買いだめである。(注1)
 このような行動は〈環境〉になる。
 当時、普通に使う分としては、トイレットペーパーは十分にあった。そして、製造が出来なくなることもありえなかった。だから、物理的な条件だけを考慮すれば、買いだめ行動は必要なかった。
 しかし、周りの人々が買いだめ行動をしてる状況ではどうだろうか。人々が買いだめ行動をしている状況では、トイレットペーパーは不足する。現実に店頭から完全にトイレットペーパーが無くなってしまう。トイレットペーパーの在庫は、通常の使用が基準である。当然、買いだめをする分を見こした在庫などない。
 だから、結果的に買いだめ行動をしなかった人が困ることになる。トイレットペーパーを手に入れられなくなる。逆に、買いだめ行動をした人は得をする。
 つまり、人々が買いだめ行動をしている状況では、自分も買いだめ行動をしなくてはならなくなる。買いだめ行動をした人が得をし、しなかった人が損をする。
 人々の行動が〈環境〉になる。そして、その〈環境〉に適応する者が得をする。そのような状況がある。
 別の観点から論じる。
 確かに、トイレットペーパーの買いだめは、一人ひとりの人間にとっては得な「選択」である。しかし、社会全体にとってはどうだろうか。社会全体にとっては大きな損害である。全員が損をしているのである。
 まず、人々がトイレットペーパーを探すのがコストである。また、買うために列に並ぶ時間がコストである。さらに、トイレットペーパーのために争い悩むのがコストである。これらは人々が買いだめ行動をしなければ、必要ないコストであった。(注2)
 つまり、一人ひとりが得をしようとした結果、社会全体では大きなコストが発生してしまった。一人ひとりがトイレットペーパーを買いだめするという得な行動した結果、全員が損をすることになってしまった。
 いじめも同様の現象である。
 いじめを傍観するというのは一人ひとりにとって楽な「選択」である。得な「選択」である。しかし、その結果、いじめが荒れ狂う学級になってしまっては、全員が損をする。
 事例を挙げる。
 

 現在中三なので受験生ですが、この時の仲間のほとんどは、小学校時代の基礎ができていなかった為からか、とても苦労しています。
 (朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、41ページ)


 
 この子供の学級は荒れてしまった。小学六年生の一年間、満足に学習が出来ない状態になってしまった。そのため「基礎ができていな」い状態になってしまった。受験で苦労することになってしまった。
 いじめが荒れ狂う学級で勉強をするのは難しい。いじめが荒れ狂う学級で生活するのは苦しい。当然、本人の将来に影響がある。
 いじめが荒れ狂っている学級では、みんなが損をする。
 そして、それは一人ひとりが自分にとって得な「選択」をした結果なのである。


(注1)
 「トイレットペーパー騒動」
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E9%A8%92%E5%8B%95

(注2)
 それだけではない。店側にも殺到する客に対応するコストが発生する。問屋にも異常な量の注文に対応するコストが発生する。製紙会社にもコストが発生する。増産しなければならなくなる。
 さらに、その後がある。何しろ人が使うトイレットペーパーの量は一定なのである。皆が買いだめをしたら、その後トイレットペーパーは売れなくなる。
 このような一時的な需要に対応するのには大きなコストがかかる。

2015年06月30日

【いじめ論17】社会的ジレンマ

 石油ショック当時、人々は買いだめに走った。その結果、社会全体で大きな損失が発生してしまった。既に論じた通りである。
 一人ひとりが得をしようとした結果、社会全体では大きな損失が発生した。自分にとって得な行動した結果、結局、全員が損をすることになってしまった。
 これは、「社会的ジレンマ」と呼ばれる状況である。
 「社会的ジレンマ」をロビン・ドーズは次のように説明する。(注1)(注2)
 

 (a)一人ひとりの個人は、社会の他の人々がたとえ何をしようとも、社会的に協力しない選択(例えば、子供を増やすこと、可能な限りエネルギーを使うこと、環境を汚染すること)をすることによって、社会的に協力する選択をした場合よりも多くの利益を得る。しかし、(b)もし、全員が協力したとすれば、全員が協力しないより、全員にとってよい結果になる。


 
 「トイレットペーパーが無くなる」という噂を聞いた時、一人ひとりの人間は、トイレットペーパーを買いだめすることも出来るし、何もしないでいることも出来る。自分の得になる行動を「選択」することも出来るし、社会全体の得になる行動を「選択」することも出来る。「非協力」を「選択」することも出来るし、「協力」を選択することも出来る。
 全員が「協力」を「選択」すれば、社会の成員全体が得をする。トイレットペーパー不足は起こらず、探し回る必要がなるなる。
 しかし、全員が「非協力」を「選択」すれば全員が大きな損をする。トイレットペーパーは不足し、探し回らなければならなくなる。全員が苦労することになる。
 一人ひとりが自分の得になる行動を「選択」すると、社会全体としては全員が損をする。
 「社会的ジレンマ」とは、このような特徴を持つ状況である。
 確認しよう。
 

 a 一人ひとりの個人としては、協力を選択するより非協力を選択した方が得をする。
 b しかし、全員が非協力を選択した場合は、全員が損をする。


 「社会的ジレンマ」は様々な領域に存在する。ドーズは、人口問題、エネルギー問題、環境問題を例とした挙げた。
 もちろん、「社会的ジレンマ」は教育にも存在する。いじめも「社会的ジレンマ」である。
 個人がいじめを傍観するという得な「選択」をした結果、全体としていじめが荒れ狂う学級になってしまう。いじめが荒れ狂っていては、結果的に全員が損をする。
 一人ひとりが自分にとって得な「選択」をした結果、全員が損をする。
 それが「社会的ジレンマ」なのである。
 


(注1)
  Robyn M. Dawes "Social dilemmas",1980,p.169

(注2)
 日本における「社会的ジレンマ」研究の先駆者は山岸俊男氏である。
 次の本を参照のこと。
 
  山岸俊男『社会的ジレンマのしくみ』サイエンス社、1990年

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