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2016年02月 アーカイブ

2016年02月05日

【いじめ論35】いじめを知っていたにも関わらず教師は解決できなかった

 顕在的な行動が集団に大きな影響を与える。それは、行動だけが意識されるという〈情報の非対称性〉があるからである。このようなバイアスに対処する方法として次の二つを挙げた。

 1 いじめ行動を発生させない。
 2 反いじめ行動を発生させる。

 前回までで、この二つを詳しく説明した。
 この論述は、読者の皆さんにはあまりにも「当たり前のこと」に思えたかもしれない。
 しかし、その「当たり前のこと」が当たり前になっていないのである。
 例えば、大津市のいじめ自殺事件を受けて、平野博文文部科学大臣(当時)は次のように言う。

 いじめが背景事情として認められる生徒の自殺事案が発生していることは大変遺憾です。子どもの生命を守り、このような痛ましい事案が二度と発生することのないよう、学校・教育委員会・国などの教育関係者が担うべき責務をいまいちど確認したいと思います。
 いじめは決して許されないことですが、どの学校でもどの子どもにも起こりうるものであり、その兆候をいち早く把握し、迅速に対応しなければなりません。文部科学省からの通知等の趣旨をよく理解のうえ、平素より、万が一の緊急時の対応に備えてください。(注1)

 平野大臣は「その兆候をいち早く把握し」と言う。「兆候」の「把握」を強調する。これは〈いじめの「兆候」を「把握」できなかったから、対応できなかった〉という「いじめの兆候」論である。(注2)
 しかし、大津市のいじめ自殺事件の実体はそのようなものではない。既に分かっていたいじめを解決できなかったのである。教師がいじめ行動を適切に抑制できなかったのである。
 第三者調査委員会の調査報告書には次のようにある。

 ア担任は.複数回,AがBから暴行を受けている場面を見ており.その度にBを制止しているし.クラスの生徒から「いじめちゃうん。」という言葉を聞いたり.Aがいじめられているので何とかして欲しいという訴えも聴いている。また,Aが.Bから暴行を受けたことについては.養護教諭をはじめとして他の教員から担任に報告か入っている。そして.担任自身も10月3日に養護教諭からBがAを殴ったことの報告を受けた際.「とうとうやりましたか。」と発言している……(注3)

 担任は「暴行を受けている現場を見て」いた。「いじめられているので何とかして欲しい」と生徒からの訴えを受けていた。「兆候」どころか、教師はいじめの明白な事実を知ってた。知っていたにも関わらず、解決できなかった。
 いじめ行動を適切に抑制できなかったのである。
 別の事例を見てみよう。鹿川裕史君が自殺した事件である。

 担任はトイレに捨てられていた裕史くんのスニーカーを洗ってやりながら、「ぼくにできるのこれだけだ」と言った。
 教師でも「バリケード遊び」〔椅子や机を積み上げ人を閉じこめる「遊び」〕をやられて泣きそうになるものもいた。担任もBに殴られて肋骨を痛めたことがあった。それから生徒になめられる。授業中に乱闘騒ぎがあっても知らんふりをしていた。(注4)

 教師は鹿川君がいじめられていることを知っている。スニーカーがトイレに捨てられていたことを知っている。洗いながら「ぼくにできるのはこれだけだ」と言ったのである。
 つまり、教師は知っていたにも関わらず、いじめを解決できなかった。教師自身が「殴られて肋骨を痛め」ても適切な手が打てない。「授業中に乱闘騒ぎがあ」っても止めることが出来ない。(注5)
 いじめ行動を適切に抑制できなかったのである。
 このように、知っていたにも関わらず、いじめを解決できなかった例は多い。
 深谷和子氏の調査では次のような結果が出ている。

 小学校でも中学校でも、「担任は『いじめ』を知っていた」とする者が三分の一、「たぶん知っていた」とする者を合わせると、八割を越える者が「担任はいじめを知っていた」と答えている。担任の知らない「いじめ」は一五%前後であり、「いじめ」は見えにくいと言っても、クラス内の「いじめ」の大半は担任の視野に入るものだ、ということになる。(注6)

 「八割を越える者が『担任はいじめを知っていた』と答えている」のである。
 教師はいじめを知っていた。しかし、それを解決できなかった。いじめ行動を適切に抑制できなかった。そのような事例が多くある。
 それにも関わらず、文部科学省は「兆候」の「把握」を強調する。〈いじめを知っていたにも関わらず、解決できなかった〉という事実は「無視」される。
 やはり、いじめ論において、「当たり前の考え」は当たり前になっていない。
 もう一度、述べる。いじめ行動を発生させないことが重要である。反いじめ行動を発生させることが重要である。それはいじめが集団の問題だからである。心の問題では無いからである。
 この「当たり前の考え」が当たり前になっていない。中核的な問題だと意識されていない。だから、詳しく論ずる必要があったのである。


(注1)

 「すべての学校・教育委員会関係者の皆様へ[文部科学大臣談話]」平成24年7月13日

(注2)

 「いじめの兆候を把握できなかった」は虚偽の論法
  http://shonowaki.com/2015/03/post_121.html

(注3)

 大津市立中学校におけるいじめに対する第三者調査委員会『調査報告書』

(注4)

 武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、2004年、21~22ページ

(注5)

 「無法地帯」では、いじめが多発する
  http://shonowaki.com/2015/05/post_119.html

(注6)

 深谷和子『「いじめ世界」の子どもたち』金子書房、1996年、40ページ


2016年02月12日

【いじめ論36】子供は教師ではなく子供集団に従う

 大津市のいじめ自殺事件でも、鹿川裕史君の事件でも、教師はいじめを解決できなかった。いじめの事実を知っていたのに解決できなかった。
 教師は「権力」を持っている。命令し、従わない者には罰を与える。最終的には、成績として評価をする。これは大きな「権力」である。
 それにも関わらず、子供は教師に従わなかったのである。
 なぜ、子供は教師に従わないのか。
 小川幸男氏は言う。

 ……〔略〕……多くの学校の場合、すでに上級生が相互非協力状態や、協力状態が下がった状態になっている。入学当初の相互協力状態が落ちている。
 生徒にとって、非協力行為を選んでいる上級生と、様々な規制を行う教師ではどちらが影響力が強いか。これは明らかに、上級生である。中学生である彼らにとって、教師よりも上級生の方が「意味のある他者」として存在するからである。従って、上級生が非協力状態行為を選ぶ生徒生徒〔原文のママ〕が多いと、教師の規制よりも上級生の影響の方を強く受け、下級生の中にも非協力行為を選ぶ生徒が出てくる。(注1)

 教師より、上級生の方が「影響力」が強い。教師より上級生の方が「意味のある他者」として存在する。(さらに、同級生の方が「意味のある他者」として存在する。)
 なぜか。それは、子供にとって重要なのは子供集団の中で位置を占めることだからである。教師に従っても、子供集団の中で位置を占めることは出来ない。

 子供は教師ではなく子供集団に従う。

 教師より子供集団の方が「影響力」が強いのである。
 子供が子供集団に従う例を見てみよう。女子校生のスカートである。(注2)
 極端なミニスカートを着ている女子校生がいる。多くの教師はこのようなスカートを着ることには反対である。
 しかし、教師がいくら反対しても、彼女達は極端なミニスカートを着るのをやめない。それは集団の成員の大多数がミニスカートを着ているからだ。集団内でミニスカートを着ることが「常識」になっているからだ。
 実は、大阪ではロングスカートが「常識」になっている。それに対して、東京の女子校生は何と言ったか。

 東京の女子高生に大阪の写真を見せると「東京だと浮くけど、かわいい」と評判は上々。(『日本経済新聞』2013年12月22日)

 ロングスカートだと「浮く」のである。大多数がミニスカートを着ているからである。「浮」かないためには、ミニスカートを着る必要がある。
 この状況で、教師に従うのは危険である。ミニスカートを着るのをやめるのは危険である。それでは、「浮」いてしまう。それでは集団内での位置を失ってしまう。
 これは社会的ジレンマなのだ。集団内で特定の「常識」が出来てしまっている。一人だけでそれをやめる訳にはいかない。一人だけでやめては「浮」いてしまう。集団内での位置を失うことになる。
 いじめも同様である。いじめにおいても、子供は子供集団に従う。教師の説諭の効果が無かった例を見てみよう。(注3)

 「どういうことなのか、まわりの人、答えなさい!! リカとどうして机をはなさなきゃいけないのか説明しなさい。私は、君たちが中学生になってはじめての授業だからと一週間は黙って様子を見てきたけど、もう我慢できない!! どうしてリカのまわりだけ机の位置が乱れるの!! アキオ、答えてください!!」
 リカの両サイドの子どもたちが目をそらす。いわゆる優等生のアキオは、不服そうな表情のまま、わずかに自分の机をリカの側に寄せる。
 私は邪険にアキオの机を引き寄せ、リカの両サイドの子どもたちの机も強引に移動させる。子どもたちは、机の脚に自分の足をからませながら、素知らぬ顔で私を見つめ、私に机を動かせまいと抵抗している。私は、子どもたちをにらみすえながら荒々しく机や椅子を動かす。子どもたちは、私の力とけんまくに押されながらも、まわりの子どもたちと顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあっている。

 この子供達は教師には従わなかった。「顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあって」いたのである。子供は子供集団に従っていたのである。
 教師に従うことより、仲間集団に従うことの方が重要だったのである。一人だけでいじめをやめる訳にはいかない。一人だけやめては「浮」いてしまう。集団内での位置を失ってしまう。
 子供は教師ではなく子供集団に従うのである。


(注1)

 明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年

(注2)

 女子高生のスカート長さが東京と大阪で違う理由
  http://shonowaki.com/2015/05/11_1.html

(注3)

 熱血教師が「いじめは絶対に許されない」と言っても効果は無かった
  http://shonowaki.com/2015/02/post_116.html

2016年02月19日

【いじめ論37】子供集団の影響力を使って、いじめ行動を抑制する

 教師がいくら言っても、女子校生はミニスカートを着るのをやめない。
 教師に従うことより、仲間集団に従うことの方が重要なのである。一人だけミニスカートを着るのをやめては「浮」いてしまう。集団内での位置を失ってしまう。
 いじめも同様である。子供は教師ではなく子供集団に従う。
 いじめは社会的ジレンマなのである。社会的ジレンマであるいじめ状況を発生させないためには、次の二点が重要である。既に詳しく説明した通りである。

 1 いじめ行動を発生させない。
 2 反いじめ行動を発生させる。

 いじめ行動を発生させないことが重要である。発生したいじめ行動は適切に抑制することが重要である。しかし、いじめ行動を抑制できていない例が多い。
 なぜ、抑制できないのか。
 それは「教師が抑制しようとしている」からである。より正確に言えば、「教師が一人で抑制しようとしている」と子供が「解釈」しているからである。子供にとって、教師は「意味のある他者」ではない。
 子供は教師ではなく子供集団に従う。教師に従うことより、子供集団に従うことの方が重要なのである。だから、教師に従って、一人だけでいじめ行動をやめる訳にはいかない。それでは、一人だけ「浮」いてしまう。集団内での位置を失ってしまう。
 だから、いじめの抑制のためには、「子供集団がいじめに反対している」と子供が「思う」ことが重要である。そう「思う」から子供はいじめ行動をやめるのである。
 つまり、2によって1が容易になる。「反いじめ行動が発生」していると「いじめ行動の抑制」が容易になる。子供が反いじめ行動を起こしている事実が、教師の指導の「解釈」を変えるのである。
 例えば、先に示した「いじめ・暴力徹底追放宣言」の採択である。(注1)

いじめ・暴力徹底追放宣言
            ―いじめ・暴力をなくし、住みよい学校を!―

私達、生徒会の基本方針は「住みよい学校をつくることです。私達生徒一人ひとりは、 誰もが「楽しい学校生活を送る権利」を持っています。 この「権〔原文のママ〕を侵害することは誰にもできません。
 しかし、“いじめ”や“暴力”という行為は、この「権利」を侵害するものです。これはいじめられた人の身になって考えれば、よく分かることだと思います。
ですから、“いじめ”や“暴力”を許してしまっては「住みよい学校をつくる」ことはできません。だからこそ、私達生徒は一人ひとりを互いに大切にし合い、「住みよい学校をつくる」ため、“いじめ”や“暴力”を徹底的に追放しなければなりません。
 よって、Y中学校生徒会は次の事を宣言します。
1 どんな理由があっても、“いじめ”・“暴力”を許さない学校をつくっていこう。
2 不正なことには、「やめよう」と言おう。
3 問題が起こった時は“暴力”・“力関係”で解決せず、クラスで討議し、自分達の力で解決していこう。

                 平成6年1月29日
                  Y中学校生徒会

 この「いじめ・暴力徹底追放宣言」は反いじめ行動である。生徒集団がいじめに反対している事実を行動の形で示したのである。
 このような反いじめ行動が発生していれば、いじめ行動を抑制しようとする教師の指導は「子供集団の意思」と「解釈」される。「子供集団の意思」だと「解釈」するから、子供は従う。
 だから、子供が「いじめ・暴力徹底追放宣言」をしている状況では、教師によるいじめ行動の抑制は容易である。「いじめ・暴力徹底追放宣言」は「子供集団の意思」である。教師はそれに従うように子供を促すだけでよい。
 つまり、いじめ行動の抑制に成功した事例は次のような構造になっている。

 子供集団(教師) → 子供

 それに対して、いじめ行動の抑制に失敗した事例は次のような構造になっている。

 教師 → 子供集団

 教師 対 子供集団という構造になっている。例えば、先の野口良子氏の事例は、教師一人が子供集団と戦う構造になっている。(注2)
 これではいじめ行動の抑制は成功しない。教師と子供集団が対立した場合、子供は子供集団に従うのである。
 例えば、向山洋一氏は同様の場面で次のように指導する。(注3)

 私はクラス全員に聞きます。クラス全員を教師の側につけることは大切です。

 みんな聞いたでしょう。○○君は、何となく机を離したそうです。先生は違うと思ってます。○○君は、何となく机を離したと思う人は手をあげてごらんなさい。

 子供たちは手をあげません。あげても一人か二人でしょう。
 私は言います。

 ○○君。みんなは君の言うことがおかしいって。先生もおかしいと思う。
 どうして机を離したのですか。

 教師が「何となく机を離した」という答えを否定しているのではない。子供集団が否定しているのだ。「子供集団の意思」なのだ。教師はそれをはっきりさせただけである。
 向山洋一氏は「クラス全員を教師の側につけることは大切です」と言う。いじめ行動の抑制において、意図的に子供集団を味方につけているのである。
 子供集団が反いじめの「意思」を示している。反いじめ行動を起こしている。そのような状況下で、教師はいじめ行動の抑制に成功することが出来る。
 だから、1のためにも2が重要になる。子供集団が反いじめ行動を起こすことが重要になる。
 つまり、子供の行動を変えるためには子供集団を変えることが重要になる。子供集団を変えることによって、子供の行動を変えるのである。子供集団が反いじめ行動を起こしているという状況下で、教師による指導が可能になる。いじめ行動の抑制が可能になる。
 子供集団の影響力を使って、いじめ行動を抑制するのである。


(注1)

 明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年

(注2)

 熱血教師が「いじめは絶対に許されない」と言っても効果は無かった
  http://shonowaki.com/2015/02/post_116.html

(注3)

 向山洋一『いじめの構造を破壊せよ』明治図書、1991年、39~40ページ
 なお、原文では囲みの部分を段下げで表記した。


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