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いじめ アーカイブ

2015年01月18日

【いじめ論1】 はじめに ――いじめ観のパラダイム転換が必要

 いじめについて広く信じられている考えがある。それは「悪い心がいじめを引き起こす」という考えである。「悪い道徳的意識がいじめを引き起こす」という考えである。
 この考えはあまりにも一般的すぎて、教育界で疑われることはなかった。その考えを信じている者も、特定の考えを「信じている」と自覚すらしていないだろう。
 例えば、文部科学省は「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」で言う。

 ① 「いじめは人間として絶対に許されない」という意識を一人一人の児童生徒に徹底させなければならないこと。……

 国立教育政策研究所が発行した「いじめ問題に関する取組事例集」には次のような授業の「ねらい」がある。

 ・いじめの意味を理解し、いじめを絶対に許さない心を育てる。

 これらは、いじめを心・道徳意識の問題と捉えているのである。「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が無いからいじめが起こると捉えているのである。「いじめを絶対に許さない心」が無いからいじめが起こると捉えているのである。「悪い道徳的意識がいじめを引き起こす」・「悪い心がいじめを引き起こす」と考えているのである。
 この考えは、広く信じられている。いじめは心・道徳意識の問題であるという考えは、多くの人が信じ、疑いすらしない考えなのである。
 しかし、この一般的な考えは、正しいのだろうか。いや、正しくない。
 反例を挙げよう。担任の教師が変わっただけで、いじめがなくなることがある。子供達は変わっていないのに、いじめがなくなるのだ。これは心・道徳意識の問題なのか。教師が変わると一瞬で、子供の心がよくなり、道徳意識がよくなるのか。それは不自然である。
 このような現象は、心・道徳意識では説明できない。
 いじめが、心・道徳意識の問題であるという考えは間違っているのだ。それは部分的な間違いではない。根本的な間違いである。
 だから、「悪い心がいじめを引き起こす」・「悪い道徳的意識がいじめを引き起こす」という考えは、全く別の考えに変えなくてはならない。
 また、いじめ観は、いじめ対策と結びついている。いじめ観が間違っていれば、いじめ対策も間違ったものになる。当然、現状のいじめ対策を批判し、新しいいじめ観に基づくいじめ対策を示すことになる。
 間違ったいじめ観を基にしていては、有効ないじめ対策を作ることは出来ない。間違ったいじめ観は、歪んだ基礎のようなものである。歪んでいるので、その上に建物を建てることは出来ない。建てようとすると倒れてしまう。
 有効な対策のためには、正しいいじめ観が必要である。
 つまり、いじめ観のパラダイム転換が必要なのである。
 以下の論述で私がおこないたいのは、そのようなパラダイム変換である。いじめを捉える枠組み自体を変えることである。いじめを心・道徳意識の問題と捉える枠組みに代わる新しい枠組みを提供することである。


【追記】

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 第一週目、成功である。

2015年01月25日

【いじめ論2】 いじめは「道徳意識」の問題か

 いじめ事件が起こる度に「『こころの教育』が必要」だという主張がされる。道徳教育の必要性が主張される。「いじめ防止対策推進法(概要)」は「学校の設置者及び学校が講ずべき基本的施策」の一番目に「道徳教育等の充実」を挙げている。
 なぜ、「道徳教育の充実」を求めるのか。それは、いじめを「心・意識」の問題と捉えているからである。
 例えば、「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」で文部科学省は言う。

 ① 「いじめは人間として絶対に許されない」という意識を一人一人の児童生徒に徹底させなければならないこと。……

 これは「適切な教育指導」の最初に出てくる文言である。一番最初に述べたのだから、文部科学省が一番重要であると認識している内容なのであろう。
 文部科学省は次のようないじめ観を持っていると言える。

 「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識を一人一人の児童生徒」が持っていないから、いじめが起こる。一人一人がそのような意識を持てばいじめは無くなる。だから、そのような意識を持つように「徹底」する。

 文部科学省は、子供が「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」を持っていないからいじめが起こると捉えている。「道徳意識」が低いからいじめが起こると捉えている。そうならば、「道徳意識」を高くしなければならない。だから、文部科学省は「道徳意識」を高くする「道徳教育等の充実」を求めている。「こころの教育」・「道徳教育」の強化を求めている。
 つまり、いじめを「心・意識」の問題と捉えているのである。
 しかし、いじめは本当に「心・意識」の問題なのか。子供の「道徳意識」が低いからいじめが起こっているのか。
 具体例を見よう。
 いじめられていたS君の体験である。
 

 〔小学〕三年になると、毎朝学校に着くとすぐにけんかが始まって、先生(若い女の先生)が来ても止まりませんでした。その先生は「けじめを付けましょう」と口では言うけれど、ぐちぐちと迫力が無いし、授業にめりはりがなくて、みんな学校に来るだけでストレスがたまっていました。
 初めは、いじめの中心だったA君、B君、C君が授業とは関係ないことを大声でいったり、先生を無視したり、トイレに行って帰ってこなかったりしました。授業参観の日も変わりません。
 特に、ストレスのたまりやすいA君が爆発して、休み時間にみんなに八つ当たりをすると、みんなもどんどん爆発していき、何の対応もできない先生の授業を無視し始めました。この状態が一年間続きました。
 四年になり、校内では、厳しいと言われていた男の先生にかわると、ぴたりと止まりました。
 その先生は、休み時間になるとみんなと遊んでくれました。授業もめりはりがあって面白くなりました。(朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、26ページ)
 

 S君のクラスでは、いじめがおこなわれていた。「いじめの中心だったA君、B君、C君が授業とは関係ないことを大声でいったり」する荒れた状態だった。
 しかし、教師が変わると、いじめはなくなった。三年では荒れていた学級が、四年では落ち着いた。学級の成員は変わっていない。変わったのは教師だけである。
 この事例で、子供の「道徳意識」は変わったのか。つまり、三年の時は「道徳意識」が低く、四年になったら急に高くなったのか。それは不自然である。
 逆の例も聞く。落ち着いていた学級が、教師が変わって荒れたというのである。その場合、高かった「道徳意識」が急に低くなったのか。それも不自然である。
 確認していただきたい事実がある。「道徳意識」概念自体が、周りの影響を受けて変化しない確固たる状態を指す概念なのである。短期間に簡単に変化しない状態を指す概念なのである。(そのような「道徳意識」が本当に存在するかどうかは別として。)だから、「三年から四年になったとたん道徳意識が高まった」・「教師が替わったとたん道徳意識が低くなった」という文言は不自然なのである。

 教師が変わるだけでいじめが解決した。

 「道徳意識」が低いからいじめが起こったと捉えていては、このような事例を説明できない。いじめを「心・意識」の問題と捉えていては、このような事例を説明できない。
 〈「道徳意識」が低いから、いじめが起こる〉といういじめ観は間違いなのである。教師が変わっただけで、いじめは無くなったのである。この状態を「道徳意識」で説明するのは困難である。
 いじめを「心・意識」の問題と捉えていては、いじめを説明する理論を作ることは出来ない。いじめの解決に役立つ理論を作ることは出来ない。


【追記】

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 第二週目、成功である。

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2015年02月01日

【いじめ論 番外編1】 いじめの責任を論ずるための論理 ――「いじめられた子・家庭に責任がある」のか

 いじめの責任を問われた側が、次のような発言することがある。

 「家庭に責任がある」  「いじめられた子に責任がある」

 このような発言をどう考えたらいいのか。
 「家庭」に責任があるからといって、学校に責任がない訳ではない。同様に、「いじめられた子」に責任があるからといって、いじめる子に責任がないことにはならない。
 次のような比喩が分かり易い。

 学校の暖房装置が故障した。真冬だったので、教室の温度が氷点下になってしまった。子供は風邪気味だった。しかし、家庭は子供を学校に行かせた。そして、子供は肺炎になって死んでしまった。

 子供が死んだ原因は、暖房装置の故障か。それとも家庭が登校させたことか。無理をして学校に行った子供か。それとも肺炎の菌か。
 この問いはアホらしい。それぞれに、別種の責任がある。
 つまり、学校は施設の管理者としての全ての責任を負う。そして、家庭は子供の管理者としての全ての責任を負う。子供は自分の行動の全ての責任を負う。そして、菌は病気の発生の全ての責任を負う。
 これらは観点を変えた時に見えてくる別種の責任である。
 だから、「子供の死の原因は、学校か。それとも家庭か。」と問うのはナンセンスである。また、「学校と菌とのどちらがどの程度悪いか」と問うのもナンセンスである。観点を変えた時に見えてくる別種の責任なのである。
 いじめもこれと同様である。ある観点から見れば、学校が全ての責任を負う。また、別の観点からみれば、家庭が全ての責任を負う。ある観点から見れば、いじめっ子が全ての責任を負う。別の観点から見れば、いじられた子が全ての責任を負う。
 「家庭責任論」「いじめられた子責任論」は、これらの責任を対立的に捉えることである。例えば、「家庭の責任だから、学校に責任はない」と捉える。これは間違いである。
 責任は多面的なのである。「学校責任かつ家庭責任」なのである。
 だから、いじめへの対応の悪さを批判された学校が「家庭の責任である」と言ったら、〈論点変更の虚偽〉になる。「家庭の責任」があるからといって、学校に責任が無いことにはならない。

 「家庭責任論」「いじめられた子責任論」は〈論点変更の虚偽〉に使われる。

 当事者であれば、広い意味で何らかの「責任」があるのは当たり前である。当たり前のことを、なぜ取り立てて言うのか。誰が誰に対してどのような状況で言うのか。〈論点変更の虚偽〉になっていないか。注意する必要がある。

 学校が「家庭に責任がある」「いじめられた子に責任がある」などと言ったら、疑うべきである。
 「家庭責任論」「いじめられた子責任論」は〈虚偽〉の論法なのである。


【追記1】

 現実の事象は複雑である。多面的である。
 しかし、我々は、ただ一つの「責任」を探してしまう傾向がある。このような〈一元的な責任論〉は間違いである。〈多元的な責任論〉が必要である。
 次の文章で論じた。

  ● 「自己責任論」批判

 この文章の形式をそのまま使って、「いじめの責任論」を論じた。
 我々は「責任」という語に騙される傾向がある。「責任」という語で〈一元的な責任〉を考えてしまうのである。〈多元的な責任〉を考えるのが難しいのである。


【追記2】

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 第三週目、成功である。

2015年02月08日

【いじめ論3】 「いじめは絶対に許されない」と言って効果があるのか

 いじめを「道徳意識」の問題と捉える傾向は一般的である。
 例えば、国立教育政策研究所が発行した事例集には次のような指導案がある。

 

2 本時のねらい
・いじめの意味を理解し、いじめを絶対に許さない心を育てる。
・自他の生命を尊重する態度を育てる。
・いじめをなくすために自分ができることを進んで行う主体的態度を育てる。
 (『いじめ問題に関する取組事例集』40ページ)
 

 「いじめを絶対に許さない心を育てる」とある。つまり、そのような「心」があると思っている。「心を育てる」ことによっていじめが防止できると考えている。〈いじめを容認する心〉がいじめを引き起こすと思っている。
 この事例集は国立教育政策研究所が発行したものである。国立教育政策研究所も同様の認識に立っているのであろう。〈いじめを容認する心〉がいじめを引き起こすと考えているのだろう。少なくとも、間違った考えだとは認識していないことは確かである。間違った考えだと認識してたら、事例集には載せない。
 しかし、既に述べたようにいじめを「心・意識」の問題と捉える理論は間違いなのである。いじめを「道徳意識」の問題と捉える理論は間違いなのである。
 同じ子供達がいじめをしたり、しなかったりする。教師が変わると行動が変わる。教師が変わっただけでいじめが解決する。
 だから、子供の「道徳意識」がいじめを起こすと考えるのは不自然である。
 いじめは「道徳意識」の問題ではない。個人の意識の問題ではない。〈いじめを容認する心〉の問題ではない。
 「いじめを絶対に許さない心を育てる」を「ねらい」にするのは間違いである。「自他の生命を尊重する態度を育てる」を「ねらい」にするのも同様の間違いである。「生命を尊重する態度」が無いから、いじめが起こるのではない。
 注目していただきたい事実がある。
 これらの「ねらい」が「本時のねらい」になっていることである。つまり、一時間の授業の「ねらい」なのである。一時間の授業で、「いじめを絶対に許さない心を育てる」「自他の生命を尊重する態度を育てる」という壮大な「ねらい」を達成するらしい。
 それは不可能である。この「本時のねらい」は誠に不可解である。(国立教育政策研究所は、この異常な「本時のねらい」を見て何とも思わなかったのか。)
 百歩譲って、この「本時のねらい」をこの授業を含む全体の活動の「ねらい」だと考えよう。一年を通じた「ねらい」だと考えよう。この授業は、「学校における非行防止教室を支援する取組」の一環である。

 県教育委員会では、5月から7月を「非行防止強化期間」と定めるとともに、年間を通して、各県公立小学校・中学校・高等学校において児童生徒の「人を思いやる豊かな心の育成」、「規範意識の醸成」などを目的とした「非行防止教室」を実施している。

 年間を通して「ねらい」を達成するというのならば、まだ理解できる。(つまり、ナンセンスさの程度は低くなる。)
 それでは、具体的には何がおこなわれているのか。

 

<具体的な取組例・内容>
○ 関係機関から講師を招いての講話やビデオ視聴等
○ 校長、教頭や生徒指導主任等による講話 ○ 学年集会での生徒指導主任等による講話
○ HRでの担任による講話            ○ 作文、感想文やディベート
○ 学校だより、PTA広報誌等を使い、家庭や地域との連携
 

 結局のところ、活動の中心は「講話」である。〈「いじめは絶対に許されない」と指導者が言って聞かせる〉という形式である。
 「言って聞かせる」は典型的な形式である。説諭は典型的な形式である。
 例えば、「道徳」授業で「いじめは絶対に許されない」と教師が説諭する。いじめが起きた時に学級会を開いて「いじめは絶対に許されない」と教師が説諭する。教師がいじめをした子供を呼び出し「いじめは絶対に許されない」と説諭する。
 これらは一般的におこなわれている指導方法である。そして、効果が無い場合が多い。
 次のような図式である。

 子供は「いじめを絶対に許さない心」を持っていないと考える。

      ↓

 「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせる。

 いじめを「心・意識」の問題と捉えているので、「心・意識」に働きかけようとする。言って聞かせようとする。説諭という方法を採る。
 いじめを「道徳意識」の問題と捉えているので、文部科学省は道徳教育の強化を求める。いじめを「道徳意識」の問題と捉えていると、その「道徳意識」に働きかけたくなる。説諭したくなる。
 いじめ観の間違いが指導方法の間違いを引き起こしているのである。


【追記】

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 第四週目、成功である。

2015年02月15日

【いじめ論4】 熱血教師が「いじめは絶対に許されない」と言っても効果は無かった

 「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせた実例を挙げる。
 中学校教師である野口良子氏は〈机をつけてもらえない子〉を発見した。それを「いじめ」と判断した。
 そして、野口良子氏は激しい怒りを示した。「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせた。説諭をした。
 次のようにである。

 「どういうことなのか、まわりの人、答えなさい!! リカとどうして机をはなさなきゃいけないのか説明しなさい。私は、君たちが中学生になってはじめての授業だからと一週間は黙って様子を見てきたけど、もう我慢できない!! どうしてリカのまわりだけ机の位置が乱れるの!! アキオ、答えてください!!」
 リカの両サイドの子どもたちが目をそらす。いわゆる優等生のアキオは、不服そうな表情のまま、わずかに自分の机をリカの側に寄せる。
 私は邪険にアキオの机を引き寄せ、リカの両サイドの子どもたちの机も強引に移動させる。子どもたちは、机の脚に自分の足をからませながら、素知らぬ顔で私を見つめ、私に机を動かせまいと抵抗している。私は、子どもたちをにらみすえながら荒々しく机や椅子を動かす。子どもたちは、私の力とけんまくに押されながらも、まわりの子どもたちと顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあっている。どうやら「抵抗はムダ、野口はしつこいぞ、もうやめとこ」となったらしく、机の脚から足をはなし、抵抗をやめる。私は黙々と、自分の手で次々と机の位置をととのえ、三八名の子どもたちの机の間をゆっくりと歩く。ひとりひとりの子どもたちの目を見つめる。いつのまにか、教室は静まりかえる。
 「君たち。君たちは、人を差別したり、いじめたりすることは、とっても悪いことだって知ってるネ」
 「……」
 「君たち、自分が、リカと同じようにされたらどんな気がする? 嬉しい? 学校へくるのが楽しくなる? 私は、リカに感心しているよ。リカは、たくましい子だと思うの。君たちから、毎日毎日こんな扱いを受けても、こんなに明るい顔をして休まずに学校へ来ている。私がリカだったら、悲しくて学校なんか休んでしまうだろうと思うの。今の野口先生はたくましいけど、中学生の頃の私は、弱い子だったから……」
 「……」
 「君たちは、A中学校は悪いと思っているネ。二年や三年の先輩が、これ見よがしにタバコ吸って廊下を歩いていたり、服装違反してたり、先生にまき舌で文句言ってたりするのを見て、悪い奴って思ってるネ。でもネ、私は、あの子たちより、一年生の君たちの方が恐ろしい、心配だって思っているの。こんなふうに毎日毎日、リカをいじめている。このことの方が、二年や三年のツッパッてる子よりうんと悪い、ものすごく悪い、人間として許せないくらい悪い!! って思ってる。人間には、許せる誤ちと許せない誤ちってものがあるのよ。服装違反をしてることは許せても、人間をバカにする、いじめる、差別するってことは許せない。許してはいけないことなの。二年の子がタバコを吸っているからといって、学校へ来るのがイヤになるほどみじめな心になったり、となりの席の子が服装違反しているからって、生きることに絶望して自殺することなんてある? ないでしょ。でも、もし、リカのようにたくましい子でなければ、毎日のようにこんな『いじめ』されたら死にたくなるかもしれない。君たちのやっていることは、殺人的な悪さ、犯罪だってことをわかりなさい。二年、三年のツッテパッてるあの子たちより、何十倍、何百倍も悪いことをしているのです……」
 (野口良子『いじめを跳ね返した子どもたち1』明石書店、12~14ページ)

 野口良子氏は「いじめは絶対に許されない」という趣旨を言って聞かせた。
激しい怒りを示した。厳しく説諭した。
 「リカと同じようにされたらどんな気がする?」と〈他人の気持ちになる〉ことを求めた。〈ツッパリ行為よりいじめが悪い〉という原理を説いた。
 しかし、この後も、リカへのいじめは止まらなかったのである。
 説諭には効果が無かった。「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせることは効果が無かった。
 国立教育政策研究所が発行した事例集には次のようにあった。
 

・いじめの意味を理解し、いじめを絶対に許さない心を育てる。
(『いじめ問題に関する取組事例集』40ページ)

 野口良子氏も「いじめの意味」を語った。
 次のようにである。

 「となりの席の子が服装違反しているからって、生きることに絶望して自殺することなんてある? ないでしょ。でも、もし、リカのようにたくましい子でなければ、毎日のようにこんな『いじめ』されたら死にたくなるかもしれない。君たちのやっていることは、殺人的な悪さ、犯罪だってことをわかりなさい。」(同上)

 野口良子氏は「いじめの意味」を語った。「こんな『いじめ』されたら死にたくなる」と語った。いじめを「殺人的な悪さ、犯罪」と位置づけた。
 しかし、これを聞いた生徒達はいじめをやめなかった。生徒達はリカをいじめ続けた。
 「いじめの意味」を語っても効果は無かった。「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせても効果は無かった。説諭しても効果は無かった。
 なぜ、説諭は効果が無かったのか。ここでは、簡単に概略だけを示しておく。
 説諭に効果が無かったのは、いじめが〈集団的現象〉だからである。

子どもたちは、私の力とけんまくに押されながらも、まわりの子どもたちと顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあっている。どうやら「抵抗はムダ、野口はしつこいぞ、もうやめとこ」となったらしく、机の脚から足をはなし、抵抗をやめる。(同上)

 「子どもたちは……〔略〕……まわりの子どもたちと顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあっている」のである。集団でいじめを続けるかどうか「相談しあっている」のである。
 このような〈集団的現象〉に対して、個人の「心・意識」に働きかけようとしても効果は無い。「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせても効果は無い。(この論点は先の章で詳しく説明する。)
  次の事実に注目していただきたい。
 野口良子氏は情熱あふれる指導をした。具体的ないじめの事実を発見して怒りをあらわにした。理を尽くして原理を説明し、「君たちのやっていることは、殺人的な悪さ、犯罪」とまで言った。「いじめは絶対に許されない」という趣旨を厳しく言って聞かせた。
 それにもかかわらず、いじめは無くならなかったのである。
  「校長、教頭や生徒指導主任等による講話」「学年集会での生徒指導主任等による講話」が効果が無いのは当然である。ただ、 「いじめは絶対に許されない」と話をするだけだからである。
 野口良子氏の指導はそのような「講話」とは違う。野口良子氏の指導は多くの人が理想と考えるような指導である。言わば、金八先生的熱血指導である。しかし、その熱血指導は効果が無かったのである。
 情熱を込めて「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせても効果は無かったのである。


【追記】

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 第五週目、成功である。

2015年02月22日

【いじめ論5】 「『いじめは許されない』という意識」が「徹底」されたと何を根拠に判断するのか

 もう一度、文部科学省の認識を見てみよう。

 ① 「いじめは人間として絶対に許されない」という意識を一人一人の児童生徒に徹底させなければならないこと。……
  (「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」)

 誠にアホらしい。
 「いじめは人間として絶対に許されないことですか」と訊けば、多くの者が「許されない」と答える。
 実例を挙げよう。少年院に在院中の中学生への意識調査である。

 クラスの子をいじめる 86.7% (「悪いこと」と答えた回答率)
  (品川裕香『心からのごめんなさいへ』中央法規、206ページ)

 大きな問題行動を起こした中学生ですら、86.7パーセントが「いじめるのは悪いこと」と答えている。さらに、一般の中学生では91.2パーセントが「いじめるのは悪いこと」と答えている。
 既に、大多数の子供は「いじめは悪い」と思っている。(少なくとも、「いじめは悪い」と言った方がよいことは知っている。)
 もし、野口良子氏が「道徳」授業で「いじめは人間として絶対に許されないことですか」と訊いたとすれば、生徒は「許されない」と答えるであろう。
 しかし、それに何の意味があるのか。口で「絶対に許されない」と答える者が、行動ではいじめをおこなう。それがいじめ問題の難しさなのだ。
 現に、野口良子氏の学級ではいじめが続いたのである。教師が情熱を込めて「いじめは人間として絶対に許されない」と語る。生徒も「いじめは許されない」と言う。それにもかかわらず、いじめは続くのである。
 別の観点から論ずる。
 文部科学省は、何を根拠に「徹底」されたと判断するのか。「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が「児童生徒に徹底」されたと判断するのか。
 大まかに言って、二つの基準が考えられる。

 1 子供が口頭で「いじめは絶対に許されない」と言う。
 2 子供がいじめ行動をおこなわない。

 既に論じたように、1はアホらしい。
 「道徳」の授業で訊けば、子供は「許されない」と答える。しかし、そう答えた子供がいじめをするのである。だから、「許されない」と言うことは、「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」を持ったと判断する基準にはならない。
 それでは、2はどうだろうか。いじめ行動をおこなっていない事実を基準とするのである。いじめが発生していなければ、「徹底」されたと判断するのである。「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が「徹底」されたと判断するのである。
 しかし、これは〈いじめが無い〉という結果から「道徳意識」という「原因」を想定したに過ぎない。「道徳意識」が「徹底」されたというのは、〈いじめが無い〉ことと同義である。つまり、これは実質的にトートロジーに過ぎない。
 次の文言を見ていただきたい。

 「いじめは絶対に許されない」という意識を持ったので、いじめが無くなった。

 この文言はトートロジーである。結果から「原因」を想定したに過ぎない。〈いじめが無い〉という事実から「道徳意識」という「原因」を想定したに過ぎない。
 口頭での答えに頼るのは無意味である。子供は「いじめは悪い」と「道徳」授業では言う。しかし、「いじめは悪い」と言った子供がいじめをするのである。
 〈いじめが無い〉という行動に注目するならば、特に「意識」を想定する必要がなくなる。「道徳意識」が「徹底」されたと言う必要がなくなる。「いじめは無い」・「いじめは無くなった」と言えばいいのである。
 「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が存在すると考えること自体が間違いなのである。


【追記】

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 第六週目、成功である。

2015年03月01日

【いじめ論6】 ウィトゲンシュタインは〈行動の原因となる心〉を探すことを「思考法の病気」と捉えた

 「道徳意識が高まったから、いじめが無くなった」という文言はトートロジーである。「道徳意識が高ま」ったことは「いじめが無くなった」事実から判断されるのだから。
 これは、「いじめが無くなった」事実から、それに対応する「心・意識」を想定する思考である。我々には、行動の「原因」を「心・意識」に求める傾向がある。何か行動が起こった時に、それに対応する「心・意識」の状態を探す傾向がある。
 これは、既にウィトゲンシュタインによって指摘されていた。

 広くゆきわたった一種の思考法の病気ある。それは、我々のすべての行為が、あたかも貯水池から湧きでてくるように、そこから湧きでてくる心的状態とも呼べようものを探し求め(そして見つけ出してしまう)病気である。例えば、「流行が変わるのは、人の趣味が変わるためである」、と言う。趣味が心的な貯水池なのだ。しかし、洋服屋が今日、服のカットを一年前のとは違うふうにデザインする場合、彼の趣味の変化と呼ばれるものは実は、そのデザインをするというそのこと、またはそれを一部として含んでいるものであってはならないのか。
 (『ウィトゲンシュタイン全集6 青色本・茶色本 他』大修館書店、230ページ)

 「趣味が変わったので、流行が変わった」はトートロジーである。「趣味が変わった」となぜ分かるのか。「流行が変わった」からである。人々が着ている服が変わったからである。服のデザインが変わったからである。服のデザインが変わったという事実から、「趣味」という「心的状態」が変わったと想定したのである。
 「道徳意識が高まったから、いじめが無くなった」も同様である。「道徳意識が高まった」となぜ分かるのか。「いじめが無くなった」からである。子供がいじめをしなくなったからである。机を離したり、物を投げつけたりしなくなったからである。そのようないじめ行動が無くなったという事実から、「道徳意識」という「心的状態」が変わったと想定したのである。
 また、「道徳意識が低いから、いじめが起こった」も同様である。いじめが起こっているという事実から、「道徳意識」という「心的状態」を想定したのである。
 それでは、なぜ、〈行為に対応する心的状態を想定すること〉は悪いのか。「思考法の病気」なのか。
 それをはっきりさせるために、まず「運」という概念を考えてみよう。
 私達は、事故に遭った時などに、次のように言うことがある。

 「運が悪かった」

 これは、ごく普通の発言である。たまたまそこを通りかかったから事故に遭った。事故に遭わない他の可能性もあった。「運が悪かった」という文言で、そのような偶然性を表現できる。これは、一般的には特に問題ない発言である。
 しかし、このように言うことで、我々は「思考法の病気」に一歩近づいている。「運」と言うことによって、次のような思考に一歩近づいている。

 「運をよくするためには、どうしたらよいのか」

 これは「思考法の病気」である。「運」を実体があるものと考えているのである。「運」が存在すると考えて、働きかけようとしているのである。
 このように考えることによって、人は奇妙な行動をするようになる。「運」を操作しようとし始める。例えば、お札を身につけたり、財布の色を黄色にしたりするようになる。
 しかし、「運」など存在しない。壊れた車と同じ意味では存在しない。
 同様に「趣味」も存在しない。服と同じ意味では存在しない。
 同様に「道徳意識」も存在しない。いじめの手紙と同じ意味では存在しない。
 「道徳意識」が存在すると考え、それに働きかけようとするのは間違いである。いじめ対策として、「心の教育」をしようとするのは間違いである。それは、「運」をよくしようとしてお札を身につけたり、財布を黄色くするのと同じ類いの間違いである。存在しないものを存在すると想定して、それに働きかけようとしているのである。


【追記】

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 第七週目、成功である。

2015年03月08日

【いじめ論7】 〈結果の記述〉と〈発生メカニズムの記述〉とは違う

 ウィトゲンシュタインは「哲学的困惑の大きな源の一つ」として次のものを挙げる。

 名詞があればそれに対応する何かのものを見付けねば困るという考え
 (『ウィトゲンシュタイン全集6 青色本・茶色本 他』大修館書店、21ページ)

 私達は「運が悪かった」と言うことがある。これ自体は、十分理解できる普通の発言である。
 しかし、私達は、「運」と名詞で呼んだ途端、「対応する何かのもの」を探す方向に一歩進んでしまうのだ。例えば、次のように考えてしまうのだ。

 「運とは何か」
 「運をよくするためには、どうしたらよいのか」

 「運」という名詞で呼ぶと、実在する「運」を探してしまう。「名詞があればそれに対応する何かのものを見付け」ようとしてしまう。
 これが「哲学的困惑」「思考法の病気」の大きな源である。
 先に述べたように、「運」と「趣味」「道徳意識」とは同類である。
 「趣味」と名詞で呼ぶと、実在する「趣味」を探してしまう。しかし、実在する「趣味」が変わったから、服装が変わったのか。服装が変わったこと自体が「趣味が変わった」と表現されているだけではないのか。
 「道徳意識」と名詞で呼ぶと、実在する「道徳意識」を探してしまう。しかし、実在する「道徳意識」が変わったから、いじめをしなくなったのか。いじめをしないこと自体が「道徳意識が変わった」と表現されているだけではないのか。「道徳意識が徹底された」と表現されているだけではないのか。
 ある状態をある表現で記述できることがある。それは〈結果の記述〉としては役に立つ。しかし、事実のメカニズムを明らかにするためには役に立たない。〈発生メカニズムの記述〉としては役に立たない。
 ある学級が「道徳意識が徹底された」と表現されたとする。落ち着いていて、いじめが無いクラスになったのであろう。これは現状のクラスの状態をおおまかに理解するためには役に立つ。しかし、この記述は、いじめの〈発生メカニズムの記述〉としては役に立たない。いじめの事実を明らかにするためには役に立たない。

 〈結果の記述〉と〈発生メカニズムの記述〉とは違う。

 「道徳意識」と名詞で呼べるからといって、「対応する何かのもの」が存在する訳では無い。いじめが無いという結果を「道徳意識が徹底された」と記述できるからといって、「道徳意識」が存在する訳では無い。
 「道徳意識」という名詞があるから、「対応する何かのもの」が存在すると考えるのは間違いである。それは〈結果の記述〉に過ぎない。

 「道徳意識とは何か」
 「道徳意識をよくするためには、どうしたらよいのか」

 〈結果の記述〉として「道徳意識が徹底された」と表現することは出来る。しかし、「道徳意識」が存在すると考え、それによっていじめが発生すると考えるのは間違いである。「道徳意識」が存在すると考え、それに働きかけようとするのは間違いである。
 「道徳意識が徹底された」という表現では、いじめがどのように解決されたかは全く明らかにならない。いじめの事実は全く明らかにならない。これは〈発生メカニズムの記述〉ではないのである。
 それにもかかわらず、文部科学省は「道徳意識」の実体があると考え、「道徳意識」を変えようとする。「道徳意識」を変えることによって、いじめを防止しようとする。「道徳教育」「こころの教育」の推進を主張する。
 これはナンセンスである。お札を身につけたり、財布の色を黄色にしたりするのと同じレベルのナンセンスさである。
 「道徳意識」を変えようとするのは、「運」を変えようとするのと同様な行為なのである。「運」が実在する訳ではない。同様に「道徳意識」が実在する訳ではない。
 しかし、「道徳意識」と名詞で表現すると、「道徳意識」が存在するような気がしてしまう。そして、それを変えようとしてしまう。
 まさに、文部科学省は「思考法の病気」にかかっているのである。


【追記】

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 第八週目、成功である。

2015年03月15日

【いじめ論8】 いじめの原因となる「道徳意識」は存在しない

 「道徳意識」と名詞で表現すると、「道徳意識」が存在するような気がする。しかし、いじめを引き起こす「道徳意識」は存在しない。
 全ての行動の原因となる「心・意識」は存在しない。
 この原理はギルバート・ライルによって定式化された。

 きわめて一般的に表現するならば、主知主義者の説話に潜む不合理な仮定は、理知的であると称せられる行為においてはそれがいかなる種類のものであれ、まずなすべきことを企画するというある内的作業がその行為に先行していなければならない、という仮定である。
 (ギルバート・ライル『心の概念』みすず書房、32ページ)

 「まずなすべきことを企画するというある内的作業」が「心・意識」である。しかし、「行為に先行」する「内的作業」が必ず存在するという仮定は間違っている。
 ライルは次のような例を挙げる。

 機智 wit に富んだ人が冗談を言いそれを楽しんでいるとき、彼が依拠している格率ないし基準は何かと尋ねるならば、彼はその問いに答えることはできない。われわれはいかにして機転のきいた冗談を言うか、あるいはまたいかにして下手な冗談を見分けるかということは知っているが、その処方を他人のみならず自分自身に対してさえも告げることはできない。同様に、ユーモアの実践はユーモアの理論の従者ではないのである。
 (同、30ページ)

 ユーモアがある人が「冗談」を言う時、それに先だって「まずなすべきことを企画するというある内的作業」が存在する訳ではない。彼は、自然に「冗談」を言うのである。だから、彼は次の問いに答えることは出来ない。「その『冗談』はどういうルール(格率・基準)を使って作ったのか。」
 同様に、いじめに関わる子供にも「まずなすべきことを企画するというある内的作業」が存在する訳ではない。いじめをする子供は「まずなすべきことを企画するというある内的作業」を経ていじめる訳ではない。また、いじめを止める子供も、傍観する子供も「内的作業」を経てその行為をする訳ではない。いじめの原因になる「心・意識」が存在する訳ではない。
 次の事例で「まずなすべきことを企画するというある内的作業」が存在するか。存在しない。

 なぜ、彼女のことをいじめたのか。とくに理由はありません。ただ、なんとなく、その子がキライだったというか、虫が好かなかっただけ。いじめの原因なんて、そんなものではないでしょうか。
 (土屋守監修『ジャンプ いじめリポート』集英社、66ページ)

 標的になったのは、留年した男の子。すごくおとなしくて、マジメを絵にかいたような子です。
 最初のうちは、私たちもそれがいじめだとは思いませんでした。実際、留年したことをからかっている程度のことだったんです。
 ところが、日を追って、その男の子に対する〝攻撃〟はエスカレートしていきました。〝パシリ〟に使うのはもちろん、床に正座をさせて、殴ったり蹴ったり…。8人の男の子が交替しながらいじめるんです。
 (同、58ページ)

 前者では、いじめた本人が「とくに理由はありません」「虫が好かなかった」と言っている。後者では、いじめが「エスカレート」していった。
 これらのいじめ行動に先立って「まずなすべきことを企画するというある内的作業」があったのだろうか。違う。
 「ユーモアがある人が『冗談』を言う」ようにいじめがおこなわれたのである。「自然に」いじめがおこなわれたのである。
 だから、自分の行動の原因を当人も説明できない。「とくに理由はありません」「虫が好かなかった」と言うしかない。
 また、「エスカレート」させようと「内的作業」で決定した訳では無い。「自然に」「エスカレート」したのである。
 いじめ行動の原因となるような「内的作業」は存在しない。そのような「心・意識」は存在しない。

 〈全ての行動の原因になる心〉は存在しない。

 ライルが定式化したこの原理は、哲学の世界では前世紀中には常識になっていた。(何しろ『心の概念』は1949年発行である。)
 関連諸科学でも、「心」という概念が事実を明らかにするためには使えないという常識を作ってきた。
 しかし、教育界では未だに「心の教育」などと言う者がいる。まさに未開状態である。
 例えば、文部科学省は言う。

 ③ ……生きることの素晴らしさや喜び等について適切に指導すること。特に、道徳教育、心の教育を通して、このような指導の充実を図ること。
 (「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」)

 「心の教育を通して……指導の充実を図る」とある。しかし、「心の教育」と考えていては、いじめの事実は明らかにならない。いじめの事実を明らかにしないで、いじめ解決のための理論を作ることは出来ない。
 「心の教育」と言う者は、言葉に騙されているのである。
 いじめを引き起こす「心・意識」は存在しないのである。


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 第九週目、成功である。

2015年03月22日

【いじめ論 番外編2】 「いじめの兆候を把握できなかった」は虚偽の論法

 大津のいじめ自殺事件を受けて、平野博文文部科学大臣(当時)は言う。

 いじめが背景事情として認められる生徒の自殺事案が発生していることは大変遺憾です。子どもの生命を守り、このような痛ましい事案が二度と発生することのないよう、学校・教育委員会・国などの教育関係者が担うべき責務をいまいちど確認したいと思います。

 いじめは決して許されないことですが、どの学校でもどの子どもにも起こりうるものであり、その兆候をいち早く把握し、迅速に対応しなければなりません。文部科学省からの通知等の趣旨をよく理解のうえ、平素より、万が一の緊急時の対応に備えてください。
 (「すべての学校・教育委員会関係者の皆様へ[文部科学大臣談話]」平成24年7月13日)

 平野大臣は「その兆候をいち早く把握し」と言う。なぜ、「いじめ…自殺案件」で「兆候」の「把握」を強調するのか。〈いじめの「兆候」を「把握」できなかったから、対応できなかった〉と主張しているのか。
 しかし、大津のいじめ自殺事件の実体はそのようなものではない。
 第三者調査委員会の調査報告書は次の通りである。

 ア担任は.複数回,AがBから暴行を受けている場面を見ており.その度にBを制止しているし.クラスの生徒から「いじめちゃうん。」という言葉を聞いたり.Aがいじめられているので何とかして欲しいという訴えも聴いている。また,Aが.Bから暴行を受けたことについては.養護教諭をはじめとして他の教員から担任に報告か入っている。そして.担任自身も10月3日に養護教諭からBがAを殴ったことの報告を受けた際.「とうとうやりましたか。」と発言している……
 (大津市立中学校におけるいじめに対する第三者調査委員会『調査報告書』)

 担任自身が「暴行を受けている現場を見て」いる。「いじめられているので何とかして欲しい」と生徒からの訴えを受けていた。「兆候」どころか、教師はいじめの明白な事実を知ってた。知っていたにも関わらず、解決できなかった。
 「いじめの兆候」論は、このような事実を「隠蔽」する効果がある。

 いじめは発見しにくい → 兆候を見逃さないようにしなくてはならない → 残念ながら兆候を見逃してしまった → 兆候なので見逃してしまうのも仕方ない

 「いじめの兆候」論は、このように悪用可能な論なのである。
 教師はいじめを知っていた。しかし、それを解決できなかった。「いじめの兆候」論は、その事実を「隠蔽」してしまうのである。
 「いじめを知っていたが、解決できなかった」例は多い。
 深谷和子氏の調査では次のような結果が出ている。(学生に過去を思い出してもらう回顧的調査の結果)

 小学校でも中学校でも、「担任は『いじめ』を知っていた」とする者が三分の一、「たぶん知っていた」とする者を合わせると、八割を越える者が「担任はいじめを知っていた」と答えている。担任の知らない「いじめ」は一五%前後であり、「いじめ」は見えにくいと言っても、クラス内の「いじめ」の大半は担任の視野に入るものだ、ということになる。
 (深谷和子『「いじめ世界」の子どもたち』金子書房、40ページ)

 「八割を越える者が『担任はいじめを知っていた』と答えている」のである。
 教師はいじめを知っていた。しかし、それを解決できなかった。そのような事例が多くある。
 この事実を認めるべきである。
 失敗を認めずに、解決策を考えることは出来ない。いじめを知っていながら解決できなかった。この事実を認めなければ、いじめに対する対策は立てられない。
 「いじめ兆候」論が唱えられたら、注意する必要がある。それは事実を「隠蔽」するためかもしれない。


【追記】

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 十週連続、達成!

2015年04月26日

【いじめ論9】〈いじめの「原因」〉ではなく〈いじめの発生メカニズム〉を問うべき

 「心の教育」という考えはナンセンスである。「運をよくしよう」いう考えと同じくらいナンセンスである。既に、詳しく説明した通りである。
 確かに、我々は次のように言うことがある。
 

 「最近、運がよい。」
 
 これは、よいことが続いているという意味である。宝くじに当たったり、会ったことも無いブラジルのおじさんの遺産を相続することになったりしたのであろう。
 しかし、「運」が実体として存在する訳ではない。ある状態を「運がいい」と表現できるだけである。事後的に「運」という語を使って、その状態をそう表現できるだけである。
 だから、「運」を実体化して、次のように考えるのは問題である。
 
 「運をよくするためにはどうしたらいいだろうか。」
 
 このように考えては、間違った方向に行動してしまう可能性がある。
 例えば、次のような行動を引き起こす可能性がある。負けが続いている野球チームがベンチに塩を盛ったりする。勝ち続けているチームのキャッチャーが同じパンツをはき続けたりする。
 このような行動は本筋から外れている。(また、不潔である。)
 チームが負け続けている理由を考えるためには、別の種類の語を使わなくてはならない。その事実を見えにくくする点で、「運」という語は有害である。「運」という語は事実を明らかにするためには使えない。
 「心」という語もこれと同様である。
 教育関係者が次のよう言ったらどうだろうか。
 
 「心を善くするためにはどうしたらいいのか。」
 
 〈「心の教育」を推進すればいい〉となるのであろう。これは、とんでもない間違いである。「運」をよくしようと考えて、ベンチに塩を盛ったりパンツをはき替えなかったりするレベルの間違いである。
 プロ野球の監督ならば、連敗の理由を「運」に帰結させるべきではない。より具体的なレベルの事実に帰結させるべきであろう。例えば、先発メンバーの選択ミス、投手の交代時期のミス、バント・ヒットエンドランなどの作戦の選択ミスなどである。
 教育関係者もこれと同様である。
 「心」ではなく、具体的なレベルの事実の検討が必要である。
 確かに、一般的な領域では、「心」という語は一定の役に立っている。(注)
 しかし、教育方法を構想する領域では「心」という語は役に立たない。「心」という語は害になる。
 いじめ問題を「心」という語を使って説明しようという試みも有害である。いじめの「原因」が「心」だと考えると、次のような間違った教育方法を導くことになる。〈一人ひとりの心が悪いからいじめが起こる。だから、「心の教育」を強化しなければならない〉
 「心」という語は有害である。
 なぜ、「心」という語を使いたくなるのか。
 
 「いじめの原因は何か。」
 
 この問いが「思考法の病気」を引き起こす。
 「いじめの原因」と名詞で表現すると、「いじめの原因」があるような気がしてくる。単純な答えがあるような気がしてくる。「いじめの原因は、心・道徳意識の悪さである」などと言いたくなる。「心・道徳意識」に「原因」を求めたくなる。
 「いじめの原因は何か」と問うのではなく、「いじめはどのようなプロセスで発生するのか」と問うべきである。「いじめがある集団はどのような状態なのか」と問うべきである。
 〈いじめの「原因」〉ではなく〈いじめの発生メカニズム〉を問うべきである。〈いじめの過程〉を問うべきである。〈いじめの事実〉を問うべきである。
 事実の確認をすっ飛ばして「原因」を問うことが、「思考法の病気」を引き起こす。擬似的・事後的な説明に過ぎない「心・道徳意識」を「原因」だと考えるようになってしまう。
 〈いじめの事実〉を明らかにするが言葉が必要なのである。
 
 
 
(注)
 
 我々は次のように言うことが出来る。
 
 「心が苦しい。」
 
 この言葉で、我々は意味のある会話ができる。友人は心配してくれるであろう。これはこれでよい。
 「心」という語は、ある状況では十分役に立つ。
 しかし、ある領域で役に立つ語が別の領域では役に立たない。教育方法を考えるためには害になる。
 この事実に注目いただきたい。

2015年05月03日

【いじめ論10】間違った〈いじめ認識〉が間違った〈いじめ対策〉を導く

 何か問題が起こった時に、「心・意識」に「原因」を求めるのは簡単なことである。それは、飲み屋の野球談義に似ている。飲み屋で、贔屓のチームが負けた理由を「気合いが足りなかった」「向かっていく気持ちが足りなかった」など話すのである。つまり、「心・意識」に問題があることにするのである。このような発言は非常に簡単に出来る。現実を詳しく検討しなくても、いくらでも出来る。
 これは野球ファンのストレス発散なのである。「心・意識」に「原因」を求めて、ファンがストレス発散をするのはあまり害は無い。
 しかし、そのようなことをいくら言っても、チームが負けた理由ははっきりしない。そして、チームを強くする方法も分からない。
 だから、チームの監督やコーチが飲み屋レベルの野球談義をしていたら大きな問題である。監督やコーチが「気合いが足りなかった」「向かっていく気持ちが足りなかった」などと言っていたら大きな問題である。
 同様に文部科学省が飲み屋談義レベルであるのは大きな問題である。「『いじめは人間として絶対に許されない』という認識を徹底できなかった」などと言っているのは大きな問題である。それでは、〈いじめの事実〉が明らかにならない。いじめを解決する方法も分からない。
 そして、文部科学省は飲み屋の談義レベルの認識に基づき、対策を立ててしまう。
 教育再生実行会議は「いじめの問題等への対応について」で言う。

 1.心と体の調和の取れた人間の育成に社会全体で取り組む。道徳を新たな枠組みによって教科化し、人間性に深く迫る教育を行う。   いじめの問題が深刻な事態にある今こそ、制度の改革だけでなく、本質的な問題解決に向かって歩み出さなければなりません。  (「いじめの問題等への対応について(第一次提言)抜粋」平成25年2月26日 教育再生実行会議)

 「いじめの問題等への対応」のために「道徳」を「教科化」せよ、と首相直属の諮問機関である教育再生実行会議が提言したのである。
 この提言を受け、現実に「道徳」が「教科化」されようとしている。
 つまり、「心・意識」がいじめの「原因」であるという認識が、間違った対策を導いたのである。文部科学省は飲み屋の談義レベルの認識に基づき、アホらしい対策を立てしまったのである。
 教育再生実行会議は先の提言において言う。

 ○ 子どもが命の尊さを知り、自己肯定感を高め、他者への理解や思いやり、規範意識、自主性や責任感などの人間性・社会性を育むよう、国は、道徳教育を充実する。

 これは、飲み屋で「気合いが足りなかった」「向かっていく気持ちが足りなかった」などと言うのと同じレベルである。
 このように文部科学省や首相直属の諮問機関の認識が飲み屋の野球談義レベルであるのは大きな問題である。それでは、〈いじめの事実〉が明らかにならず、有効な対策が立てられないからである。
 間違った〈いじめ認識〉を基にしていては、有効な〈いじめ対策〉を作ることは出来ない。有効な対策のためには、正しいいじめ認識が必要である。
 次回以降の論述で〈いじめの事実〉を明らかにする。〈いじめの過程〉をい明らかにする。〈いじめの発生メカニズム〉を明らかにする。
 つまり、私がおこないたいのは、〈いじめ認識〉のパラダイム転換である。いじめを捉える枠組み自体を変えることである。いじめを「心・道徳意識」の問題と捉える枠組みに代わる新しい枠組みを提供することである。

2015年05月10日

【いじめ論11】女子高生のスカート長さが東京と大阪で違う理由

 〈いじめ〉を理解するために事例を分析する。重要な事例である。

 女子高生のスカートの長さ

 東京に住んでいると、短いスカートの女子高生ばかり見る。極端なミニの女子高生もいる。女子高生と言えば、ミニスカートという意識がある。
 しかし、大阪に赴任した日経新聞の記者は言う。

 大阪に赴任した際、街中で見かける女子高生の制服のスカート丈が長いことに驚いた。東京ではふとももが見えるミニが主流だったのに、こちらはふくらはぎが半分隠れるくらい長い生徒が目立つ。独自のファッション感覚なのか。  (『日本経済新聞』2013年12月22日) http://www.nikkei.com/article/DGXNASIH1100H_R11C13A2AA1P00/

 大阪では「スカートの丈が長い」のだ。
 東京と大阪では、スカートの長さが大きく違う。東京はミニスカート。大阪はロングである。
 大阪の女子高生はロングスカートを着る「理由」を次のように述べる。

 府立高2年生は「短いのは安っぽいし、昔っぽい」ときっぱり。10人以上に聞いたが、学校では長い丈が主流という。「冬は防寒、夏は日焼け対策」という説明にもうなずける。(同上)

 「冬は防寒、夏は日焼け対策」と言う。しかし、これは「後づけの理由」に過ぎない。この女子高生は、自分がスカートを長くしている理由を自覚できていないのだ。
 現に、大阪より寒い東京ではスカートは短い。夏には、日にも焼けるだろう。それにも関わらず、東京ではスカートは短いのである。「防寒」や「日焼け対策」が理由ならば、東京でもスカートは長くなるはずだ。大阪の女子高生だけ「防寒」や「日焼け対策」への意識が高いのか。それは違う。
 ずばり言えば、大阪の女子高生がスカートを長くしている理由は次の通りである。

 周りの仲間が長くしているから。

 「短いのは安っぽいし、昔っぽい」とは〈周りの仲間が短くしていない〉の言い換えに過ぎない。大阪では、周りの仲間がスカートを長くしている。だから、この女子高生も長くしているのだ。
 例えば、「冬は防寒、夏は日焼け対策」と語っていた大阪の女子高生が東京に引っ越したと仮定してみよう。どうなるだろうか。

 周りのスカートの長さにに合わせて、スカートが短くなる。

 「冬は防寒、夏は日焼け対策」が理由ならば、スカートの長さは変わらないはずである。しかし、スカートの長さは変わるだろう。
 大阪から東京に引っ越した女子高生が一人だけ違った格好をするのは難しい。だから、周りと同じ長さに変わるだろう。つまり、ミニスカートに変わるだろう。
 現に、東京の女子高生は言っている。

 東京の女子高生に大阪の写真を見せると「東京だと浮くけど、かわいい」と評判は上々。(同上)

 長いスカートを着ていると、「東京だと浮く」のだ。大阪からの転校生が一人だけスカートを長くし続けるのは困難である。
 だから、東京に引っ越した大阪の女子高生のスカートは短くなる。東京の女子高生の長さになる。
 この大阪の女子高生がロングスカートを着る「理由」を述べたのと同じように、東京の女子高生もミニスカートを着る「理由」を述べている。

 「長いとスタイルが悪く見える。膝上15センチメートルにハイソックスかタイツを履くのが奇麗な脚の黄金比。私服は長めのスカートが好きな子も、制服はミニが普通」(同上)

 「長いとスタイルが悪く見える」のでミニスカートにしていると言うのだ。これも「後づけの理由」に過ぎない。
 次の部分に注目して欲しい。「私服は長めのスカートが好きな子も、制服はミニが普通」
 「長いとスタイルが悪く見える」ならば、私服でも「ミニが普通」になるはずである。私服では「スタイルが悪く見え」てもよいのか。よくはないだろう。
 私服と制服でスカートの長さが変わっているのである。制服ではミニスカートを着なければならない理由がある。
 それは、周りの仲間がミニスカートを着ているからだ。それこそ、寒かろうが日に焼けようがミニスカートを着なくてはならない。そうしないと「東京だと浮く」のだから。
 この〈女子高生のスカートの長さ〉と〈いじめ〉は似ている。
 どう似ているのか。
 今後、詳しく論じていく。

2015年05月17日

【いじめ論 番外編3】 「無法地帯」では、いじめが多発する

 いじめが事件化すると学校関係者がよく次のように発言する。

 いじめのサインに気がつかなかった。

 このような発言は虚偽である場合が多い。(注)
 実例を見てみよう。鹿川裕史君が自殺した事件である。

 担任はトイレに捨てられていた裕史くんのスニーカーを洗ってやりながら、「ぼくにできるのこれだけだ」と言った。
 教師でも「バリケード遊び」〔椅子や机を積み上げ人を閉じこめる「遊び」〕をやられて泣きそうになるものもいた。担任もBに殴られて肋骨を痛めたことがあった。それから生徒になめられる。授業中に乱闘騒ぎがあっても知らんふりをしていた。
 (武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、21~22ページ)

 この教師は、鹿川君のスニーカーがトイレに捨てられていたことを知っている。
 そして、洗いながら「ぼくにできるのはこれだけだ」と言ったのである。
 つまり、既に、いじめについては知っていて、それを解決できなかったのである。自分が「殴られて肋骨を痛め」ても適切な手が打てない。「授業中に乱闘騒ぎがあ」っても止めることが出来ない。
 いじめで自殺が起こるような事件では、多くの場合で学級が荒れた状態にある。仮に、いじめは見えなくても、荒れは見える。学級が荒れていれば、いじめが起こるのは当然である。
 大津のいじめ自殺事件でも、教師が骨折させられている。教師が骨折させられるのだから、同様の暴力が生徒に向けられていると考えるのが当然である。
 いじめ自殺が起こるような学級は荒れていることが多い。荒れの状態を教師は認識している。そして、荒れているならば、いじめもあると想像するのが当然である。
 それにも関わらず、学校関係者は言う。「いじめのサインに気がつかなかった。」
 「サイン」どころではない。公然と暴力が振るわれているのだ。教師にすら暴力が振るわれているのだ。それを学校が解決できないのだ。
 なぜ、学校関係者は「サイン」などと言うのか。意図は分からない。
 しかし、客観的効果としては、責任を逃れる効果がある。「サイン」で見つけにくいものならば、見つけられなくても仕方がない。「気がつかなかったので、手が打てなかった」と主張できる。「気がついていたけれど、能力が足りなく解決できなかった」という事実を「隠す」ことが出来る。
 文部科学省は、いじめについて繰り返し通知を出している。〈いじめのサインを見逃さないように〉と早期発見を求めている。早期発見はもちろん大切である。
 しかし、これも客観的効果としては「責任逃れ」かもしれない。「めくらまし」かも知れない。
 まず、学校が荒れていることこそ問題なのである。普通に授業が出来ていないことこそ問題なのである。当然、提供されるべき教育サービスが提供されていないのだから。〈いじめのサインを見逃さないように〉と問題をいじめに限定することによって、このような明確な不祥事を「誤魔化す」ことができる。
 次のような比喩が分かり易い。

 いじめは「ゾウの鼻」である。

 ゾウの鼻は目立つ。鼻はゾウらしい部分である。しかし、鼻にヒモをかけてもゾウは持ち上がらない。ゾウを持ち上げるためには、胴体にヒモをかけなければならない。
 いじめも同様である。いじめは目立つ。しかし、いじめの発生を防止するためには、いじめだけに注目してもだめである。学校の荒れに注目するべきである。荒れを防止することが必要である。
 ある母親は言う。

 子どもたちが、怪我をせず無事に帰宅できるのは、当たり前なのではなくて、奇跡に近いのかも知れません。無法地帯にやるのですから。
 (朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、221頁)

 「無法地帯」ではいじめが多発する。
 学校の荒れを防止する必要がある。
 まず、正常な秩序が必要なのである。
 

(注)

 次の文章で詳しく論じた。
 
  「いじめの兆候を把握できなかった」は虚偽の論法
   http://shonowaki.com/2015/03/post_121.html

2015年05月24日

【いじめ論12】いじめっ子も「なぜ、いじめたのか」が分からないのだ

 大阪と東京では女子高生のスカートの長さが違う。大阪の女子高生はロングスカート、東京の女子高生はミニスカートである。
 大阪の女子高生は「冬は防寒、夏は日焼け対策」という理由でスカートを長くしていると言う。
 しかし、それは「後づけの理由」に過ぎない。
 先に挙げたウィトゲンシュタインの論をもう一度見てみよう。

 広くゆきわたった一種の思考法の病気ある。それは、我々のすべての行為が、あたかも貯水池から湧きでてくるように、そこから湧きでてくる心的状態とも呼べようものを探し求め(そして見つけ出してしまう)病気である。例えば、「流行が変わるのは、人の趣味が変わるためである」、と言う。趣味が心的な貯水池なのだ。しかし、洋服屋が今日、服のカットを一年前のとは違うふうにデザインする場合、彼の趣味の変化と呼ばれるものは実は、そのデザインをするというそのこと、またはそれを一部として含んでいるものであってはならないのか。
 (『ウィトゲンシュタイン全集6 青色本・茶色本 他』大修館書店、230ページ)

 人々が以前とは異なったデザインの服を着るようになった事態を「趣味が変わった」と言うことがある。しかし、「趣味」という「心的状態」が変わったから、着る服が変わったのか。「流行が変わる」のは「趣味」という「心的な貯水池」が変わるからなのか。
 違う。人々が着ている服のデザインが変わったのを見て、「趣味が変わった」と言っているだけなのである。着る服が変わったこと知る以外に「趣味が変わった」ことを知る方法はない。これは「後づけの理由」に過ぎない。
 大阪の女子高生と東京の女子高生は着ている服のデザインが違う。大阪の女子高生はロングスカートで、東京の女子高生はミニスカートである。
 これは大阪と東京で「趣味」が違うからなのか。何らかの「心的状態」の違いが理由なのか。
 確かに、両者とも自分の意図(心的状態)が行動の理由だと思っていた。スカートの長さを決める理由だと思っていた。例えば、大阪の女子高生は「防寒」「日焼け防止」という意図がスカートを長くする行動の理由だと思っていた。
 しかし、このような意図は行動の理由ではない。大阪の女子高生が東京に引っ越せば、周りの長さに合わせてスカートを短くするだろう。前回の文章で詳しく説明した通りである。
 いじめをした子供がその理由を述べることがある。自分の意図を述べることがある。しかし、これも「後づけの理由」に過ぎない。いじめっ子本人が述べる意図も「後づけの理由」なのである。
 実例を見てみよう。

 私にはいじめをした体験があります。なぜ、人をいじめたのか、私なりの説明を試みたい。
 だいたい、いじめられる子って、いつもオドオドしているでしょう。上目使いに人を見てさ。そんな〝姿〟を見てるだけで、非常にむかつく! 〝一発、いじめてやっか〟という気分にさせる子ばっかりなんですよ。
 それと、私たち子どもって、勉強、受験のストレスがびっしりとたまってるでょ。なのに、ストレスの発散場所、方法がない。そういう意味で、いじめって手軽なストレス発散方法なんです。
 そんな環境がつづく限り、いじめは絶対になくなりませんよ。ずっとつづきますよ。 (13歳・女性)
 (土屋守監修『ジャンプ いじめリポート』集英社、201ページ)

 もちろん、この「説明」も「後づけの理由」である。
 このいじめっ子は言う。「いじめられる子って、いつもオドオドしている」
 自分をいじめる相手の前で「オドオド」するのは当然である。別の相手の前ではのびのびしているかもしれない。自分が「オドオド」させているのを相手のせいにしている可能性がある。また、いじめの結果「オドオド」したのを、いじめのきっかけと勘違いしている可能性がある。
 また、いじめっ子は言う。「勉強、受験のストレスがびっしりとたまってる」
 「受験のストレス」が理由ならば、受験前の三年生の方がいじめが増えるはずである。そのような事実があるのか。
 さらに、「オドオド」している者をいじめない者も多い。「受験のストレス」があってもいじめない者も多い。
 これらの事実から次のことが分かる。このいじめっ子も、自分が「なぜ、人をいじめたのか」を知らない。私達と同じように、「第三者」として「なぜ、人をいじめたのか」を考えているのである。そして、「後づけの理由」を発見してしまったのである。
 思い出していただきたい。大阪の女子高生はスカートを長くする理由を「防寒」と述べていた。「防寒」はもっともらしい理由である。しかし、「防寒」は「後づけの理由」に過ぎなかった。
 いじめっ子がいじめをする理由を「受験のストレス」と述べるのも、これと同様である。「受験のストレス」はもっともらしい理由である。しかし、「受験のストレス」は「後づけの理由」に過ぎない。
 そのような意図(心的状態)がいじめ行動を引き起こしたのではない。それは、「防寒」という意図がスカートの長さを決めていなかったのと同様である。
 いじめ行動をおこなった後に、「受験のストレス」という意図によっていじめ行動を説明しているだけなのである。「心的状態」による行動の説明は、「後づけの理由」に過ぎないのである。

2015年06月02日

【いじめ論13】「いじめの原因はいじめ」である

 誤解を恐れず、ズバリと言い切ってみよう。

 いじめの原因は心ではない。
 いじめの原因はいじめである。

 スローガンとしてはこれでよい。(注)
 スローガンなので、もちろん雑である。それは、今後の論述で精密にしていく。
 「いじめの原因はいじめ」である。いじめは「女子高生のスカート長さ」と同様の現象である。
 東京の女子高生のスカートは短い。
 パンツが見えそうな位にスカートが短い女子高生がいる。あのように短くては、確かに冬は寒いだろう。必ずしも機能的とは言えない格好である。
 なぜ、スカートがそんなに極端に短くなるのか。
 そのような女子高生のありさまを思い浮かべて欲しい。スカートが短い女子高生が単独で存在することはない。スカートが極端に短い女子高生は集団で存在するのだ。仲間集団全体が短い状態なのだ。
 スカートを短くするのは集団の他の成員が短くしているからだ。集団の他の成員が短くしている以上、短くせざるを得ないのだ。
 だから、大阪では長いスカートを着ていた女子高生が、東京に引っ越したら短くせざるを得なくなる。
 つまり、これは集団的現象なのである。ある生徒の行動が他の生徒の行動に影響を与える。その行動がまた他の生徒の行動に影響を与える。生徒同士が影響を与え合う。その結果、極端な状態が発生する。
 いじめも同様の集団的現象である。「女子高生のスカートの長さ」と同様の集団的現象なのである。
 もし、「短いスカートをやめたい」と思っても、一人では出来ない。スカートが短い仲間集団内で一人だけ長いスカートを着るのは困難である。
 いじめも同様である。「いじめをやめたい」と思っても、一人ではやめられない。
 具体例を見てみよう。

 グループ内の交換日記に、順番にいじめがはじまり、次は誰をターゲットにするかというなかで、晶子さんがやめようと言い出したことでやられはじめたと書いていた。
 (武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、65ページ)

 晶子さんがいじめられたきっかけは「やめようと言い出した」ことである。一人でいじめをやめようとした結果、自分がいじめられるようになったのである。
 「いじめをやめたい」と思っても、一人ではやめられない。「やめようと言い出した」者がいじめられる。
 それは、いじめが集団的現象だからだ。
 「いじめの原因はいじめ」なのである。


(注)
 スローガンに頼っていては理論は出来ない。
 だから、理論からはスローガンを排除するべきである。
 しかし、現在、「いじめの原因は心である」という悪影響が大きいスローガンが信じられている。
 それに対抗するため「いじめの原因はいじめである」というスローガンを対置してみた。方向性が正しいスローガンである。
 また、このスローガンによって、今後の論述の方向性がはっきりしたはずである。
 

2015年06月09日

【いじめ論14】〈いじめを傍観する者の数〉は二極化している

 スローガンをもう一度書く。

 いじめの原因は心ではない。
 いじめの原因はいじめである。

 いじめを一人でやめることは困難である。「やめようと言い出した」者がいじめられたりする。それは、いじめが集団的現象だからである。
 いじめは〈女子高生のスカートの長さ〉と同様の集団的現象である。スカートの短い女子高生は東京では極端に多い。大阪では極端に少ない。同様に、いじめも、多いクラスでは極端に多い。少ないクラスでは極端に少ない。
 この事実を示す調査結果がある。正高信男氏による調査である。
 正高信男氏は、いじめの指標となる〈いじめを傍観する者の数〉が両極端になる事実を発見した。(注1)


bunpu.jpg
  (正高信男『いじめを許す心理』岩波書店、108ページ)


 この図には山が二つある。5~15パーセントと30~35パーセントの二つである。
 この調査によって、傍観者の数が二極化している事実が発見された。次の二つに大きく分かれている。

 1 いじめを傍観する者が少ないクラス
 2 いじめを傍観する者が多いクラス

 つまり、傍観者は、少ないか、多いかのどちらかになっている。中間が少ない。傍観者の割合が5~15パーセント(いじめを傍観する者が少ないクラス)と30~35パーセント(いじめを傍観する者が多いクラス)とピークが二つになっている。
 これは、いじめが集団的現象であることを示している。
 集団の影響を受けない個人的現象ならば、ピークは一つのはずである。正規分布になるはずである。
 例えば、身長である。身長の分布は次のような形になる。


g_h17m.png
 http://www.geocities.jp/resultri/crankcho/height_j.html より


 個々人の身長は、どのような集団に入ろうと変化しない。身長の分布は正規分布になる。中間が多くなる。(注2)
 しかし、集団的現象はそれとは違う。集団が影響を与え合うからである。
 スカートの短い生徒の分布は、正規分布にはならない。クラス内のスカートの短い生徒の割合は東京では多い。大阪では少ない。両極端になる。ピークは二つになる。それは、集団的現象だからである。
 いじめは〈女子高生のスカートの長さ〉と同様の集団的現象である。だから、傍観者の分布は正規分布にならない。両極端になる。
 それは、集団が影響を与え合いながら行動パターンを作るからである。
 クラスにおいて、集団の行動パターンが作られる。いじめを容認する行動パターンが作られるか。容認しない行動パターンが作られるか。傍観するか。いじめを止めるか。
 いじめが容認される行動パターンが作られれば、いじめが横行する。それは、集団が影響を与え合った結果なのである。
 女子高生のスカートが短くなる「原因」は何か。それは、みんながスカートを短くしていることである。
 では、いじめの「原因」は何か。それは、みんながいじめをしていることである。みんながいじめを容認していることである。傍観者が多いことである。
 つまり、「いじめの原因はいじめ」である。


(注1)

 正高信男氏は言う。

 調査対象となったクラスの先生に改めていじめの有無を尋ねたところ、横軸の値が三〇のあたりにできたピークにあたるクラスの大半では、特定の生徒への暴力行為が常習化していることも、判明しました。もう一つの大きいピークを構成しているクラスでは同様の報告は一切、出てきませんでした。
 (同上、108~109ページ)

 〈いじめを傍観する者の数〉は、いじめの指標となる。
 傍観者の多いクラスでは、いじめが「常習化」している。それに対して、傍観者の少ないクラスでは、そのような「報告」は無かった。


(注2)

 これは「いじめの原因は心ではない」証拠である。
 個人が持っている確固たる心(道徳意識)がいじめの「原因」であるならば、いじめの分布は正規分布になるはずである。身長と同じように中間が多くなるはずである。
 しかし、実際には二極化しているのである。

2015年06月16日

【いじめ論15】周りの人々の行動が〈環境〉なのである

 宇佐美寛氏は言う。(デューイの「環境」概念を分析する文章である。)
 

 諸井薫『昭和原人』(文藝春秋、一九八九年)に次の文章がある。(一三九 - 一四〇ページ)

 アメリカあたりでは、あの石油ショックのとき、文句もいわずにガソリンスタンドに延々長蛇の列を作ってはいたが、ではガソリンを自発的に節約しようとしたかといえば、そんな気配はなかった。買ったガソリンは遠慮なく使い果たして、なくなればまた行列するだけなのである。それに対して日本人は、長い行列に並んで時間を無駄に使うくらいなら、いっそ我慢して生活の方法を変えることを考えようとする。要するに、状況がそれを求めるなら、自分の欲望をあっさりと収斂してそれに慣れようという自己調節を無理なくやってのけられるのである。
 ……〔略〕……

 どちらの生き方も、それによって命を失うことはない。どちらの生き方も、そう生きている本人たちは、よく適応していると思っている。
 この日米二つの場合、環境とは何なのだろうか。ある物資の欠乏という条件は、ある社会では、人々が物資を求めようと探しまわる活動を促進する。別の社会では、落ちついて仕事を減らし、休み待つという活動を促進する。(注)
 (『宇佐美寛・問題意識集9 〈実践・運動・研究〉を検証する』明治図書、241~242ページ)

 「環境に適応する」と言えば、通常は物理的環境への「適応」を思い浮かべる。「物質の欠乏に適応して~の活動が発生した」という形式である。
 しかし、「物資の欠乏」に「適応」して、極端に違う二つの「活動」が発生している。物理的環境への「適応」では説明できない状況が発生してる。
 この状況をどう説明すればよいのか。
 この場合の「環境」とは何か。いじめを論ずるために必要な範囲で述べる。
 「環境」とは、周りの人々の行動である。集団の行動パターンである。
 周りの人々が「探しまわる活動」をとることが、「探しまわる活動」を促進する。「探しまわる活動」を「適応的」にする。
 逆に、周りの人々が「休み待つという活動」をとることが、「休み待つという活動」を促進する。「休み待つという活動」を「適応的」にする。
 自分だけが「休み待つという活動」をして、ガソリンを使わず節約したとする。しかし、周りの人々が「探しまわる活動」して、どんどんガソリンを使っていては節約の効果がない。自分だけがガソリンを使えなくなってしまう。損をしてしまう。
 自分だけが「探しまわる活動」をして、ガソリンを得ようとしたとする。しかし、周りの人間が「休み待つという活動」をしていては、うまくいかない。ガソリンスタンドが閉まっていたり、数量制限をしていたりするからである。
 つまり、人々の行動によって、「適応的」な行動が変わってくるのである。
 複数の適応が可能な事態がある。人々はそのどれかを選ぶ。その行動によって、ある適応の仕方が有利になる。「適応的」になる。人々の行動が〈環境〉になる。そのような状況が存在するのである。
 〈女子高生のスカートの長さ〉はそのような状況である。短いスカートが多い東京では短いスカートを着ることが「適応的」になる。長いスカートが多い大阪では長いスカートを着ることが「適応的」になる。「防寒」「日焼け対策」などの物理的な条件は副次的である。周りの人々の行動が〈環境〉なのである。
 いじめも同様である。いじめにおいては、周りの人々の行動が〈環境〉なのである。


(注)

 引用した文章の表記を一部変えた。

  1 傍点を強調にした。
  2 引用を表す囲みを段下げにした。

 これは、私のコンピューターで書籍通りの表記が出来なかったためである。

2015年06月23日

【いじめ論16】一人ひとりが得な行動をした結果、全体として大きな損失が発生する

 人々の行動が〈環境〉になる状況が存在する。人々の行動によって、「適応的」な行動が変わってくるのである。
 例えば、石油ショック当時、人々は買いだめに走った。よく知られているのがトイレットペーパーの買いだめである。(注1)
 このような行動は〈環境〉になる。
 当時、普通に使う分としては、トイレットペーパーは十分にあった。そして、製造が出来なくなることもありえなかった。だから、物理的な条件だけを考慮すれば、買いだめ行動は必要なかった。
 しかし、周りの人々が買いだめ行動をしてる状況ではどうだろうか。人々が買いだめ行動をしている状況では、トイレットペーパーは不足する。現実に店頭から完全にトイレットペーパーが無くなってしまう。トイレットペーパーの在庫は、通常の使用が基準である。当然、買いだめをする分を見こした在庫などない。
 だから、結果的に買いだめ行動をしなかった人が困ることになる。トイレットペーパーを手に入れられなくなる。逆に、買いだめ行動をした人は得をする。
 つまり、人々が買いだめ行動をしている状況では、自分も買いだめ行動をしなくてはならなくなる。買いだめ行動をした人が得をし、しなかった人が損をする。
 人々の行動が〈環境〉になる。そして、その〈環境〉に適応する者が得をする。そのような状況がある。
 別の観点から論じる。
 確かに、トイレットペーパーの買いだめは、一人ひとりの人間にとっては得な「選択」である。しかし、社会全体にとってはどうだろうか。社会全体にとっては大きな損害である。全員が損をしているのである。
 まず、人々がトイレットペーパーを探すのがコストである。また、買うために列に並ぶ時間がコストである。さらに、トイレットペーパーのために争い悩むのがコストである。これらは人々が買いだめ行動をしなければ、必要ないコストであった。(注2)
 つまり、一人ひとりが得をしようとした結果、社会全体では大きなコストが発生してしまった。一人ひとりがトイレットペーパーを買いだめするという得な行動した結果、全員が損をすることになってしまった。
 いじめも同様の現象である。
 いじめを傍観するというのは一人ひとりにとって楽な「選択」である。得な「選択」である。しかし、その結果、いじめが荒れ狂う学級になってしまっては、全員が損をする。
 事例を挙げる。
 

 現在中三なので受験生ですが、この時の仲間のほとんどは、小学校時代の基礎ができていなかった為からか、とても苦労しています。
 (朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、41ページ)


 
 この子供の学級は荒れてしまった。小学六年生の一年間、満足に学習が出来ない状態になってしまった。そのため「基礎ができていな」い状態になってしまった。受験で苦労することになってしまった。
 いじめが荒れ狂う学級で勉強をするのは難しい。いじめが荒れ狂う学級で生活するのは苦しい。当然、本人の将来に影響がある。
 いじめが荒れ狂っている学級では、みんなが損をする。
 そして、それは一人ひとりが自分にとって得な「選択」をした結果なのである。


(注1)
 「トイレットペーパー騒動」
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E9%A8%92%E5%8B%95

(注2)
 それだけではない。店側にも殺到する客に対応するコストが発生する。問屋にも異常な量の注文に対応するコストが発生する。製紙会社にもコストが発生する。増産しなければならなくなる。
 さらに、その後がある。何しろ人が使うトイレットペーパーの量は一定なのである。皆が買いだめをしたら、その後トイレットペーパーは売れなくなる。
 このような一時的な需要に対応するのには大きなコストがかかる。

2015年06月30日

【いじめ論17】社会的ジレンマ

 石油ショック当時、人々は買いだめに走った。その結果、社会全体で大きな損失が発生してしまった。既に論じた通りである。
 一人ひとりが得をしようとした結果、社会全体では大きな損失が発生した。自分にとって得な行動した結果、結局、全員が損をすることになってしまった。
 これは、「社会的ジレンマ」と呼ばれる状況である。
 「社会的ジレンマ」をロビン・ドーズは次のように説明する。(注1)(注2)
 

 (a)一人ひとりの個人は、社会の他の人々がたとえ何をしようとも、社会的に協力しない選択(例えば、子供を増やすこと、可能な限りエネルギーを使うこと、環境を汚染すること)をすることによって、社会的に協力する選択をした場合よりも多くの利益を得る。しかし、(b)もし、全員が協力したとすれば、全員が協力しないより、全員にとってよい結果になる。


 
 「トイレットペーパーが無くなる」という噂を聞いた時、一人ひとりの人間は、トイレットペーパーを買いだめすることも出来るし、何もしないでいることも出来る。自分の得になる行動を「選択」することも出来るし、社会全体の得になる行動を「選択」することも出来る。「非協力」を「選択」することも出来るし、「協力」を選択することも出来る。
 全員が「協力」を「選択」すれば、社会の成員全体が得をする。トイレットペーパー不足は起こらず、探し回る必要がなるなる。
 しかし、全員が「非協力」を「選択」すれば全員が大きな損をする。トイレットペーパーは不足し、探し回らなければならなくなる。全員が苦労することになる。
 一人ひとりが自分の得になる行動を「選択」すると、社会全体としては全員が損をする。
 「社会的ジレンマ」とは、このような特徴を持つ状況である。
 確認しよう。
 

 a 一人ひとりの個人としては、協力を選択するより非協力を選択した方が得をする。
 b しかし、全員が非協力を選択した場合は、全員が損をする。


 「社会的ジレンマ」は様々な領域に存在する。ドーズは、人口問題、エネルギー問題、環境問題を例とした挙げた。
 もちろん、「社会的ジレンマ」は教育にも存在する。いじめも「社会的ジレンマ」である。
 個人がいじめを傍観するという得な「選択」をした結果、全体としていじめが荒れ狂う学級になってしまう。いじめが荒れ狂っていては、結果的に全員が損をする。
 一人ひとりが自分にとって得な「選択」をした結果、全員が損をする。
 それが「社会的ジレンマ」なのである。
 


(注1)
  Robyn M. Dawes "Social dilemmas",1980,p.169

(注2)
 日本における「社会的ジレンマ」研究の先駆者は山岸俊男氏である。
 次の本を参照のこと。
 
  山岸俊男『社会的ジレンマのしくみ』サイエンス社、1990年

2015年08月18日

【いじめ論18】いじめは社会的ジレンマなのである

 「社会的ジレンマ」とは、次のような特徴がある状況であった。

 a 一人ひとりの個人としては、協力を選択するより非協力を選択した方が得をする。
 b しかし、全員が非協力を選択した場合は、全員が損をする。

 いじめは社会的ジレンマである。(注)
 この二つの特徴を持っているのである。

 a 一人ひとりの個人としては、傍観者になる方が得である。
 b しかし、全員が傍観者になった場合は、全員が損をする。

 ある子供がいじめを見たとする。個人としては傍観する方が得である。止めようとするのは危険なのである。いじめを止めようとした結果、いじめられたという話を多く聞く。

 グループ内の交換日記に、順番にいじめがはじまり、次は誰をターゲットにするかというなかで、晶子さんがやめようと言い出したことでやられはじめたと書いていた。
 (武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、2004年、65ページ)

 いじめられたきっかけは「やめようと言い出した」ことである。いじめを止めようとした結果、自分がいじめられることになってしまったのである。
 いじめを止めようとするのは危険である。だから、傍観者になるのは、個人としては楽な「選択」である。得な「選択」である。
 しかし、全員が傍観者になり誰もいじめを止めないと、いじめが横行する状態になってしまう。それは、学級の成員全員にとって損な状態である。
 先に、学級が荒れたため受験で苦労したという事例を挙げた。

 現在中三なので受験生ですが、この時の仲間のほとんどは、小学校時代の基礎ができていなかった為からか、とても苦労しています。
 (朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、1999年、41ページ)

 この子供の学級は荒れてしまい、小学六年生の一年間、満足に学習が出来ない状態になってしまった。そのため「基礎ができていな」い状態になってしまった。受験で苦労することになってしまった。
 荒れて、いじめが横行する学級で勉強をするのは難しい。生活するのは難しい。いじめが横行する学級では、全員が損をする。
 全員が損をしたのは、一人ひとりが個人として得な傍観を「選択」した結果なのである。個人として得な「選択」した結果、全体としては全員が損をする状態になってしまう。
 これは正に社会的ジレンマである。
 いじめは社会的ジレンマなのである。


(注)

 いじめを社会的ジレンマと捉える発想は次の論文にある。
 
  明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」
   『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年

 また、次の本にもある。
 
  山岸俊男『日本の「安心」はなぜ消えたのか』集英社、2008年
 

2015年08月28日

【いじめ論19】クールビズ問題も社会的ジレンマだった

 結局、いじめは全員にとって損である。しかし、全員が損をするいじめをやめることが出来ない。それはいじめが社会的ジレンマだからである。
 同様の事例を見てみよう。全員が損をしている状態を変えられなかった事例である。
 日本の夏は暑い。しかし、数年前までは、多くの会社員が上着を着てネクタイを締めていた。これは明らかに夏に適した服装ではなかった。汗だくになりながら、全員が苦しい思いをしていた。快適性という点では不合理であった。
 また、エネルギーの無駄であった。上着を着て快適なように冷房を強くせざるを得なかった。
 だから、だいぶ前からクールビズが提唱されていた。夏は、涼しい服装をしようというのである。政府も旗を振った。古くは、1970年代の省エネルックである。
 しかし、会社員の服装はほとんど変わらなかった。それは、この問題が社会的ジレンマだったからである。
 全員が上着を着てネクタイをしている状態で、自分だけ軽装になる訳にはいかない。
 服装は相手に対する敬意の表現でもある。だから、自分だけ軽装になった場合、相手が敬意を表しているのに自分は表さないことになってしまう。
 だから、全員がネクタイをしている集団内で、一人だけネクタイをしないのは困難である。「失礼な奴」と思われる可能性が高いのである。「失礼な奴」と思われるくらいならば、ネクタイを締めた方が得である。
 つまり、ネクタイを締めるのは、一人ひとりにとっては得な選択だった。そして、一人ひとりが自分にとって得な行動をした結果、社会全体としては大きな損失になってしまった。
 これは社会的ジレンマである。

 a 一人ひとりの個人としては、ネクタイを締めた方が締めないより得をする。
 b しかし、全員がネクタイを締めた場合は、全員が損をする。

 上着を着てネクタイを締めたせいで、暑さで体調を崩す。上着を着た人を基準にオフィスの冷房の温度が設定されて、エネルギーの無駄になる。冷え性の人が冷房の寒さで体調を崩す。
 これは全員が損をしている。しかし、それをやめることは出来なかった。
 なぜか。全員が同時にネクタイを外すのならば、外せる。「いっせいのせ」で全員がネクタイを外すなら、外せる。しかし、一人だけ外すことは出来ない。「失礼な奴」と思われてしまうからだ。
 政府がクールビズを勧めようと、状況は同じである。政府の勧めに従って、みんながネクタイを外すなら、外せる。しかし、みんなが政府の勧めに従うことはありえない。それならば外さない「選択」をする方が得である。
 羽田孜元首相を思い出してみよう。羽田孜元首相は省エネルックを一人だけ着続けて、変人扱いされてた。変人扱いされても着続けるのは信念の人である。信念の人しか大多数と違う服装は出来なかった。
 政府の勧めに国会議員すら従わなかったのである。国会議員すら従わない政府の呼びかけに一般国民が従うはずがない。
 政府が呼びかけたくらいでは、クールビズ問題は解決しなかった。(注)
 それはクールビズ問題が社会的ジレンマだったからである。


(注)
 クールビズ問題は数年前にかなり改善された。
 なぜ、改善されたのか。それはこの先の文章で論ずる。

2015年09月04日

【いじめ論20】「いじめは許されない」といくら説諭しても解決できないのは社会的ジレンマだから

 夏にネクタイをすると、暑く苦しい。しかし、苦しい格好を多くの会社員がしていた。それは大多数の会社員がネクタイをしていたからである。所属集団の大多数がネクタイをしていたからである。
 政府は省エネルックを提唱した。「涼しい格好をして省エネしましょう」という趣旨の呼びかけをした。これは個人の「心・意識」に働きかけようとしたのである。「心・意識」を変えようとしたのである。
 しかし、それは効果がなかった。政府の呼びかけに国会議員すら従わなかった。
 なぜか。ネクタイを外したくても外すことは出来なかったのである。そのような状況があったのである。
 集団の大多数がネクタイをしているという状況がある。服装は相手に対する敬意の表現でもある。自分だけ外せば、相手が敬意を表しているのに自分は表さないことになる。この状況は一人では変えられない。相手がネクタイを外さないと、こちらも外すことが出来ないのだ。
 大多数がネクタイをしている状況下では、ネクタイをするのが得な「選択」になる。相手の服装にこちらも合わせなくてはならなくなる。自分だけが相手に敬意を表さないのはまずいからだ。
 クールビズ問題は「心・意識」の問題ではなく集団の問題だった。社会的ジレンマであった。一人ひとりが自分が得な「選択」をした結果であった。だから、政府が「涼しい格好をして省エネしましょう」と呼びかけても効果が無かったのである。
 いじめも同様である。
 集団の大多数がいじめを傍観する状況下では、個人としてはいじめを傍観するのが得な「選択」になる。いじめを「容認」するのが得な「選択」になる。
 教師が「いじめは人間として絶対に許されない行為だ」などと説諭する。個人の「心・意識」に働きかけようとする。「心・意識」を変えようとする。
 しかし、それではいじめはほとんど解決しない。それは、いじめが「心・意識」の問題ではなく集団の問題だからだ。社会的ジレンマだからだ。一人ひとりが自分が得な「選択」をした結果だからだ。
 いじめが横行してはクラスの雰囲気が悪くなる。びくびくしながら生活せざるを得なくなる。勉強が出来る落ち着いた環境ではなくなる。
 ネクタイで自分の首を絞める。いじめを傍観して自分の首を絞める。自分で自分の首を絞めているのである。
 社会的ジレンマは「自分で自分の首を絞める」状況なのである。
 「首を絞める」のは苦しい。しかし、大多数の人間が「絞め」ている状況では、自分だけが「絞め」るのをやめる訳にはいかない。
 これが社会的ジレンマの構造である。
 だから、解決が難しいのである。
 

2015年09月11日

【いじめ論21】社会的ジレンマを解決するには「爆発」が必要

 社会的ジレンマは解決が難しい。それは、一人ひとりが自分が得な「選択」をした結果だからである。
 クールビズ問題も社会的ジレンマであった。夏にネクタイをするのは、個人にとっては得な「選択」であった。無難な「選択」であった。その結果、社会全体としては大きな損失が発生していた。
 しかし、最近、クールビズ問題は大筋で解決された。現在、夏には、多くの会社員がネクタイを外し、上衣を脱いでいる。夏の暑さに適した服装をしている。
 なぜ、クールビズ問題は解決されたのか。それは東日本大震災で福島第一原発が「爆発」したからである。また、火力発電所が止まったからである。それによって、夏の電力不足が深刻化したからである。
 電力不足が深刻化し、オフィスの冷房の温度が上げられた。あらゆる場所で節電がおこなわれた。
 現実に電気が足りないのだから、節電は必須である。だから、冷房をやめたり、弱めたりする必要がある。その状況下ではネクタイを外す必要がある。ネクタイをしていては節電が徹底できないのである。
 だから、節電のためにみんながネクタイを外すと想定できる。みんながネクタイを外すと信じることが出来る。政府でさえ作ることが出来なかった集団の成員への信頼感が「爆発」によって作られたのである。
 クールビズ問題は社会的ジレンマである。一人だけネクタイを外すことは難しい。全員がネクタイをしている中で、一人だけ外すと「失礼な奴」と思われるのである。しかし、全員がネクタイを外すならば、ネクタイを外すことが出来る。全員がネクタイを外しているならば、ネクタイを外しても失礼にならない。全員が一斉にネクタイを外すならば、何の問題もない。だから、ネクタイを外すことが出来る。
 重要なのは、「みんながネクタイを外す」という「予測」が「爆発」によって生じたことである。実際にみんながネクタイを外している状況が生じたことである。みんなが外すなら、自分も外せるのである。
 社会的ジレンマを解消するためには「爆発」が必要だった。「爆発」によって、「みんながネクタイを外す」という「予測」が生じた。全員が行動を変える状況が生じた。
 一度できてしまった社会的ジレンマを解決するためには「大変な力」が必要である。全員の行動を一斉に変える「大きな力」である。
 それは、クールビズ問題の場合は福島第一原発の「爆発」であった。深刻な電力不足であった。
 いじめの場合はどのような事態が「爆発」なのか。どのような事態によって、「みんながいじめをやめる」と子供が「予測」するようになるのか。〈全員がいじめ行動をやめる〉状況が生じるのか。


2015年09月18日

【いじめ論22】いじめを解決する「爆発」とは何か

 教師が「いじめは人間として絶対に許されない行為だ」などと言う。道徳の授業で語る。しかし、それに子供は従わないだろう。
 それは、クールビズを提唱した政府に会社員が従わなかったのと同じである。会社員は自分だけネクタイを外す訳にはいかなかった。政府の呼びかけに集団の成員全員が従うならばネクタイを外すことが出来る。しかし、政府の呼びかけにそのようなものすごい影響力があるとは思えない。それならば、ネクタイは外さない方が安全である。
 同様に、教師が「いじめは人間として絶対に許されない行為だ」などと言っても、子供はその言葉に従わないだろう。子供も自分だけいじめをやめる訳にはいかない。いじめを容認するのをやめる訳にはいかない。
 教師の言葉でみんながいじめをやめるか。それが問題なのだ。みんながやめるならば、やめられる。しかし、みんながいじめをやめない状態で、自分だけやめるのは危険である。
 いじめは社会的ジレンマである。みんながいじめをやめるならば、自分もやめられる。みんながいじめをやめないなら、自分もやめられない。
 いじめを解決するためには他者の行動の「予測」が変わることが必要である。「いじめを全員がやめる」という予測を子供が持つことが必要である。
 政府が呼びかけても解決しなかったクールビズ問題は「爆発」によって解決した。福島第一原発が爆発し、電力不足が深刻化したことによって解決した。
 「爆発」が他者の行動の「予測」を変えた。「爆発」による深刻な電力不足によって、「みんながネクタイを外す」という「予測」が生じた。みんなが外すなら、自分も外せるのである。
 それでは、いじめの場合の「爆発」とはどのような事態か。
 「爆発」の例を挙げよう。
 向山洋一氏の実践である。

 クラスで席がえをします。すると、ある女の子のとなりになった男の子を、まわりの子がはやしたてます。本人も、いやがります。
 これは、クラスの男の子の間で、暗黙のうちに、時には公然と差別をされてきた女の子がいたということです。
 これに近いことは、けっこう生じます。
 注意深く見ていると見つかるものです。これをほうっておくと、その子から給食を受けとらないという事態にまで発展します。
 このようなことは、小さなうちに教師がとりあげ、とりあえず毅然と対処することが必要となります。
 これは、闘いです。闘いですから勝たなくてはなりません。
 まずは、現象をとりあげます。

 ○○君。となりの人と机を離してはいけません。つけなさい。

 子供は、しぶしぶつけます。
 ここから、「闘い」は始まります。

  ……〔略〕……

 ○○君、どうして机を離したのですか。理由を聞かせて下さい。

 毅然と言います。
 こんなことを許してはならないという教師の気迫こそ大切です。
 まわりの子はシーンとしてます。
 しぶしぶ机をつけた男の子は、何も言いません。黙って下を向いています。(多くの場合、このようになります)

 ○○君、どうしたのですか。理由を聞かせて下さい。

 教師は、更に追いうちをかけます。
 教室はシーンとなっています。

   ……〔略〕……

 男の子は黙っています。
 絶対、中途にしてはいけないのです。

 ○○君、どうしたのですか。そうですか。言わないのですか。では、言うまで聞きましょう。

 このように言います。

   ……〔略〕……

 ここらあたりで、多くの子は、べそをかきます。
 べそをかいたら、一応はしおどきです。

 ○○君。自分から、いけないことをしたと思っているのですね。
 (○○君はうなずきます)
 先生は、こんなことが大嫌いなのです。二度と言わないで下さい。

 こうやって、○○君から離れます。教室は少し、ほっとします。
 が、二の矢がとびます。
 さっき、野次をとばしていた△△君や××君をそのままにしてはおけません。
 でも、この段階で、はやした全員をとりあげるのは考えものです。
 中心になった、一人か二人をとりあげます。

 △△君、立ちなさい。あなたはさっき○○君をひやかしてました。あれは何のことですか?

 前よりもっと教室は緊張します。△△君は黙っています。
 もう一人くらい立たせます。

 ××君。あなたはさっき○○君をひやかしていました。あれは何のことですか。

 時には、とてもいいことを言う子も出ます。
 「ごめんなさい。ぼくは悪いことをしました。もうしません」

   ……〔略〕……

 こういう子が一人出れば、他の子も次に続きます。
 でも、多くは立ったままでしょう。
 そんな時、教師は聞いてやります。

 △△君、あなたは良いことをしたのですか。

 ふつうの子なら、がぶりをふります。

 △△君、悪いことをしたのですね。

 △△君は、頭をこくりとします。
 そうしたら「もう二度としないで下さい」と言ってすわらせます。××君も同じにします。ここまでやって、更につけ加えます。

 ○○君のことを、はやした人全員立ちなさい。

 こんな時、みんな立つものです。

   ……〔略〕……

 立った子は、短くしかります。
 「正しいことをしたと思う人は手をあげてごらんなさい」
 誰も手はあげません。
 「先生は、こういうことが大嫌いです。今度やったら許さないですよ」
 こう言ってすわらせます。(注)
 (向山洋一『いじめの構造を破壊せよ』明治図書、1991年、29~38ページ)

 教師はいじめを厳しく追及した。これは「爆発」である。
 このような教師がいる学級でいじめをするのは「自殺行為」である。いじめをすれば、厳しく追及をされる。この状況下では、いじめをするのは著しく困難である。そのような困難を乗り越えて、いじめをする子供はほとんどいないだろう。
 だから、子供は「みんながいじめをやめる」という「予測」を持つ。みんながいじめをやめるなら、いじめをやめることが出来る。教師の追及が「爆発」として機能したのだ。
 この事例と対照的な事例を先に挙げた。
 同様のいじめに対して、教師が説諭した事例である。

 「君たち。君たちは、人を差別したり、いじめたりすることは、とっても悪いことだって知ってるネ」
 「……」
 「君たち、自分が、リカと同じようにされたらどんな気がする? 嬉しい? 学校へくるのが楽しくなる?……〔略〕……」
 「……」
 「……〔略〕……こんなふうに毎日毎日、リカをいじめている。このことの方が、二年や三年のツッパッてる子よりうんと悪い、ものすごく悪い、人間として許せないくらい悪い!! って思ってる。人間には、許せる誤ちと許せない誤ちってものがあるのよ。服装違反をしてることは許せても、人間をバカにする、いじめる、差別するってことは許せない。……〔略〕……」
 http://shonowaki.com/2015/02/post_116.html

 教師が話していて、子供は黙っているだけである。教師の話を黙って聞いていれば、それで済むのだ。楽なものだ。
 これでは恐くない。「みんながいじめをやめる」という「予測」が生じない。みんながいじめをやめないなら、いじめをやめる訳にはいかない。
 社会的ジレンマを解決するためには「爆発」が必要である。「大きな力」が必要である。教師の説諭はそのような「大きな力」にはならない。
 この教師は言う。「いじめる、差別するってことは許せない」
 「許せない」ならば、直ぐに「罰」を与えるべきである。いじめた者に苦しい思いをさせるべきである。
 しかし、この教師は「許せない」と言うだけなのだ。いじめた者は「許せない」と言うのを聞くだけで済む。これでは、〈いじめをしても教師の説教を聞くだけで済む〉と教えているようなものである。〈いじめはたいしたことではない〉と教えているようなものである。〈人間として最低の行為をして説教されるだけ〉という構造が間違っているのだ。
 この事例と向山洋一氏の事例を比べて欲しい。向山洋一氏の実践では、いじめをした子供が追及される。いじめをした子供が苦しい思いをする。
 次のようにである。

 ○○君、どうしたのですか。そうですか。言わないのですか。では、言うまで聞きましょう。

 原理的に、この追及は子供が「理由」を言うまで続く。
 しかし、「理由」を言う訳にはいかないのだ。「理由」を言うとその内容をさらに追及される。隣の子供と机をつけない「理由」を正直に言ったら、怒られるに決まっている。だから、子供は黙るしかなくなる。子供は窮地に陥ったのだ。
 さらに、傍観者(扇動者)も追及される。

 △△君、立ちなさい。あなたはさっき○○君をひやかしてました。あれは何のことですか?

 「ひやかし」がいけないのならば、学級の成員の多くが追及を受ける可能性がある。だから、「前よりもっと教室は緊張」するのだ。
 重要なのは、その追及を学級の全員が見ている事実である。いじめをすると、教師に追及され窮地に陥る。さらに、傍観者(扇動者)も窮地に陥る。そして、その事実を学級の全員が見ている。
 向山洋一氏は「いじめる、差別するってことは許せない」などと言わなかった。言葉では言わなかった。
 向山洋一氏は子供を追及したのである。机をつけない「理由」を訊いたのである。「理由」を言うまで許さないという厳しい姿勢を見せたのである。つまり、行動で「いじめは許さない」姿勢を見せたのである。
 この教師の行動が「爆発」として機能した。子供に「みんながいじめをやめる」という「予測」を持たせた。みんながいじめをやめるから、いじめをやめることが出来た。「爆発」によって、いじめが解決された。
 「爆発」の一例を示した。社会的ジレンマを解決するためには「爆発」が必要である。「大きな力」が必要である。それは「いじめは許さない」と言うことではない。実際に「いじめは許さない」姿勢を見せることである。いじめが許されていない事実を見せることである。


(注)

 次のように引用した文章の表記を変えた。

  囲みを段下げにした。

 これは、私のコンピューターで書籍通りの表記が出来なかったためである。

2015年09月25日

【いじめ論23】いじめの〈発生メカニズム〉

 いじめを解決するためには「爆発」が必要であった。「大きな力」が必要であった。
 隣の子供と机を付けない子供に対して、向山洋一氏は言った。

 ○○君、どうしたのですか。そうですか。言わないのですか。では、言うまで聞きましょう。
 http://shonowaki.com/2015/09/22_1.html

 
 そして、本当に「言うまで聞き」続けるのだ。子供は「言うまで」許してもらえない。「言うまで聞き」続けるのは「爆発」である。それは、子供にとっても、教師にとっても大変なことである。
 なぜ、このような「爆発」が必要なのか。それは、いじめが社会的ジレンマだからである。一度できてしまった社会的ジレンマをなくすのは困難なのだ。だから、「爆発」が必要であった。「大きな力」が必要であった。
 「爆発」は無くて済めばその方がいい。そのためには、いじめの予防が重要である。いじめが発生していなければ「爆発」は必要はない。社会的ジレンマが発生していなければ「爆発」は必要ない。「大きな力」は必要ない。
 予防のためには〈発生メカニズム〉を知る必要がある。いじめはどのように発生するのか。社会的ジレンマはどのように発生するのか。それを知る必要がある。
 既に、いじめの〈発生メカニズム〉を考えるための重要な鍵となる事実を述べた。いじめは二極化する。いじめが多発する学級といじめが無い学級とに極端に分かれる。中間が少なくなる。正規分布にならない。
 
    〈いじめを傍観する者の数〉は二極化している
     http://shonowaki.com/2015/06/14_1.html
 
 このような二極化が起こるのは、いじめが集団的現象だからである。周りの人々の行動が〈環境〉になるからである。お互いが影響を与え合うからである。
 お互いが影響を与え合った結果、いじめが無い学級が発生する。逆に、いじめが多発する学級が発生する。そのように二極化する。
 初期状態では、いじめを傍観する者の割合が学級によって大きく違う訳ではない。それが時間が経つにつれて二極化するのである。いじめを傍観する者が多い学級と少ない学級に二極化するのである。
 大まかに、二極化する過程を説明しよう。初期状態での小さな差が大きな差になる。いじめを傍観する者が多ければ、影響を与え合い傍観する者がさらに多くなる。いじめが多くなる。いじめを傍観する者が少なければ、影響を与え合い傍観する者がさらに少なくなる。いじめが少なくなる。
 最初の小さな差が、最終的に大きな差になってしまう。極端に違う状態になってしまう。社会的ジレンマが発生してしまう。
 このような社会的ジレンマの〈発生メカニズム〉を小川幸男氏は次のように説明する。(注)


 ある活動に対して、協力する生徒と、協力しない生徒は二つに分かれる。その活動に対する自らの行動の選択肢は、協力、非協力の二つしかないからである。しかし、実際に協力しようとする傾向は、……〔略〕……連続して様々に分布する。その時点で、同じ協力をしている生徒の中にも、多くの生徒が協力しているから協力している生徒もいれば、少人数しか協力しなくても協力している生徒もいる。
 これを図式化してみる。
rinkai.gif

 図1は、横軸に「ある時点で実際に行動に『協力』している生徒の割合(%)」、縦軸に「“横軸のある時点の割合以上ならば、自分も協力する”と考える生徒の割合(%)」をとるったものである。
 また、図1のグラフの棒グラフを左から累積していくと図2のようなグラフができる。図2のグラフの縦軸は、「実際に協力している生徒が横軸の割合のとき、協力しようと思う生徒の割合」を示している。
 図3は、図2のグラフを一般化したものである。
 この図からわかることは、自然の状態では次のようになることである。

 イその時点で実際に協力をしている割合が図3のA点より多ければ、その後に点Cの多くの生徒が協力している状態まで自然に上がる。
 ロその時点で実際に協力をしている割合が図3のA点より少なければ、その後、点Bのほとんどの生徒が協力しない状態まで自然に下がる。

 例えば、図3で65%の生徒が実際に協力しているときには、協力してもよいと考えている生徒は79%いる。つまり、65%の生徒が実際に協力している状態を見せれば79%の生徒は協力をしだすわけである。さらに79%の生徒が協力すれば、91%の生徒が協力してもよいと考え協力する。というように、この場合結果として95%の生徒が協力し、協力しない生徒が5%だけ残る状態で安定する。
 逆に、45%が実際に協力しているときには、協力してもよいと考える生徒は35%である。つまり、45%の生徒が実際に協力している状態を見せると35%しか協力しなくなってしまうのである。さらに、35%の生徒しか協力していない状態を見ると、22%しか協力しなくなってしまう。最終的な結果として、7%の生徒しか協力しなくなってしまうのである。
 多くの生徒が協力するようになる相互協力状態になるか、多くの生徒が協力しない相互非協力状態になるかの境目はこの場合、A点だということになる。


 A点より協力する人数が多ければ協力状態になる。少なければ非協力状態になる。坂を上るか、坂を下るかである。
 初期状態での小さな差が大きな差になる。いじめを傍観する者が多ければ、それを見ていじめを傍観する者がさらに多くなる。そして、最終的には、いじめ状態(非協力状態)に陥る。
 いじめを傍観せず止める者が多ければ、それを見ていじめを止める者がさらに多くなる。そして、最終的には、いじめが無い状態(協力状態)になる。
 最初の小さな差が最終的に大きな差になる。極端に違う状態になる。二極化する。
 それは、周りの人間の行動が〈環境〉になるからである。周りの人間の行動によって、自分の行動を決めるからである。
 確認しよう。協力者は次のように変化した。

 好循環  65%協力 → 79%協力 → 91%協力

 65%が協力しているのを見て14%が協力に加わる。それを見て12%が協力に加わる。そして、最終的には91%が協力するよい状態が発生する。
 逆も同様の原理である。

 悪循環  45%協力 → 35%協力 → 22%協力 → 7%協力

 45%しか協力していないのを見て10%が非協力に転ずる。それを見て11%が非協力に転ずる。それを見てさらに15%が非協力に転ずる。そして、最終的には7%しか協力しない悪い状態が発生する。
 最初の小さな差によって、極端に違う二つの状態が発生した。91%が協力する状態と7%しか協力しない状態である。
 周りの人間の行動によって、自分の行動を決める。それによって、雪崩れ的な変化が生じる。極端な状態が発生する。
 これが社会的ジレンマの〈発生メカニズム〉の理論モデルである。いじめの〈発生メカニズム〉の理論モデルである。


(注)

 次の論文である。

   明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」
   『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年

 なお、小川幸男氏は長年にわたる研究仲間である。

2015年10月02日

【いじめ論24】いじめの解決が難しい理由

 社会的ジレンマは、周りの人間の行動を環境として発生した状態である。お互いに影響を与え合った結果がその状態なのである。
 だから、非協力状態に陥ってしまった場合は、それを変えるのは難しい。いじめが横行する状態に陥った場合は、それを解決するのは難しい。
 もう一度、図3を見ていただきたい。
 
rinkai3.gif
 
 非協力状態は次のように発生する。

 悪循環  45%協力 → 35%協力 → 22%協力 → 7%協力

 周りの人間が45%しか協力していないのを見て10%が非協力に転ずる。それを見て11%が非協力に転ずる。そのような形で最終的には7%しか協力しない状態で安定する。これが社会的ジレンマ状態である。7%しか協力していない状態である。
 この社会的ジレンマ状態を変えるためにはどうすればいいのか。非協力状態から協力状態に変えたいのである。しかし、現状は7%で安定してしまっている。たとえ35%に協力者を増やしても、7%に戻ってしまう。
 図3から分かる結論は次の通りである。社会的ジレンマを解決するためには、協力者を一気に増やすしかない。7%しか協力していない状態から、協力者をA点(52%)以上に増やすのである。過半数を超える人間を協力者にしなくてはならない。
 もし、協力者を7%から65%に増やすことができれば、次のような好循環が起こる。

 好循環  65%協力 → 79%協力 → 91%協力

 周りの人間の65%が協力しているのを見て14%が協力に加わる。それを見て12%が協力に加わる。そのような形で最終的には91%が協力する状態に改善される。
 しかし、どのように協力者を7%から65%にするのか。7%に陥ってしまっている社会的ジレンマ状態をどのように変えるのか。非常に難しい。
 だから、解決には「爆発」が必要である。「大きな力」が必要である。
 既に、いくつかの「爆発」の例を挙げた。
 例えば、クールビズ問題である。夏に上着を着てネクタイを締めると苦しい。しかし、周りの人間がそうしているため自分もそうせざるを得なかった。この社会的ジレンマはどのように解決されたのか。
 東日本大震災で福島第一原発が爆発した。また、火力発電所が止まった。そのため、深刻な電力不足が起きた。停電になり、電気が止まった。冷房が止まった。
 その状況下では、上着を着てネクタイを締めていることは困難である。それでは、あまりにも暑い。だから、周りの人間がクールビズに協力するという「予測」が生じる。好循環が起きる。

 好循環 7%協力 ⇒ 65%協力 → 79%協力 → 91%協力

 爆発によって、協力者が7%から65%に増える。それを見て、協力者がさらに増える。そして、最終的には91%が協力する。大多数が、上着を脱ぎネクタイを外す。
 爆発によって、クールビズ問題が解決された。会社員が夏に適した服装をするようになった。社会的ジレンマが解決されたのである。逆に言えば、爆発が起きなければ社会的ジレンマは解決されなかっただろう。
 いじめを解決した事例も挙げた。向山洋一氏がいじめ行動を追及した事例である。

 ○○君、どうしたのですか。そうですか。言わないのですか。では、言うまで聞きましょう。
 ××君。あなたはさっき○○君をひやかしていました。あれは何のことですか。

 http://shonowaki.com/2015/09/22_1.html


 いじめをした当人だけでなく、傍観者(扇動者)も追及された。追及され苦しい思いをすることになった。
 この追及が「爆発」として機能した。「大きな力」として働いた。その結果、好循環が生じ、いじめが解決された。社会的ジレンマが解決された。
 つまり、社会的ジレンマを解決するために必要なのは「爆発」のような「大きな力」である。それによって協力者を一気に増やすことである。7%から半数以上に協力者を増やすことである。例えば、65%に協力者を増やすことである。
 まとめよう。

 社会的ジレンマ解決のために必要な変化 7%協力 ⇒ 65%協力

 こうまとめてみると、社会的ジレンマを解決する難しさが分かる。いじめを解決する難しさが分かる。
 7%協力を65%協力に変えなければならないのである。ほとんどの人間が協力していない状態を半数以上の人間が協力する状態に変えなくてはならないのである。
 そのような変化を生じさせるには「爆発」が必要である。「大きな力」が必要である。
 だから、「いじめは人間として絶対に許されないことだ」と説諭しても効果が無いのだ。言い聞かせても、いじめは解決しないのだ。そのような普通の方法では7%協力を65%協力に変えることが出来ない。
 いじめを解決するのは大変難しいことなのである。社会的ジレンマを解決するのは大変難しいことなのである。
 いじめの〈発生メカニズム〉の理論モデルを使って、いじめの解決が難しい理由を説明した。解決のためには「7%協力 ⇒ 65%協力」の変化が必要なのである。そのような大きな変化を起こすのは大変難しい。

2015年10月09日

【いじめ論25】いじめの予防を理論モデルで説明する

 前回、いじめの〈発生メカニズム〉の理論モデルを使って、いじめの解決が難しい理由を説明した。いじめの解決のためには「7%協力 ⇒ 65%協力」のような大きな変化が必要なのである。これは非常に大きな変化である。いわば学級で「革命」が起きたようなものである。
 いじめを解決するためには、7%しか協力していない状態を過半数が協力する状態に変える必要がある。しかし、そのような大きな変化を起こすのは大変難しい。それは「革命」を起こすようなものなのである。
 社会的ジレンマを解決するのは難しい。いじめを解決するのは難しい。「革命」は簡単には起こせない。
 だから、いじめの解決は難しい。それならば、最初からいじめを発生させなければよい。社会的ジレンマを発生させなければよい。
 つまり、いじめを予防すればよいのである。それでは、いじめの予防とはどのような状態なのか。前回と同じように、いじめの〈発生メカニズム〉の理論モデルを使って説明しよう。
 再度、図3を示す。

rinkai3.gif

 A点に注目いただきたい。
 A点より協力者が多ければ、協力状態に到る。A点より協力者が少なければ、非協力状態に到る。A点が、坂を登るか、坂を下るかの分岐点である。
 協力者がA点以下の場合は非協力状態に陥る。例えば、45%しか協力していない場合は次のような悪循環に陥る。

 悪循環  45%協力 → 35%協力 → 22%協力 → 7%協力

 45%しか協力していないのを見て10%が非協力に転ずる。それを見て11%が非協力に転ずる。最終的には7%しか協力しない状態になる。これが非協力状態である。7%しか協力せず、いじめが多発する状態である。
 それでは、協力者がA点以上の場合はどうなるか。協力状態になる。例えば、65%が協力している場合は次のような好循環が発生する。

 好循環  65%協力 → 79%協力 → 91%協力

 65%が協力しているのを見て14%が協力に加わる。それを見て12%が協力に加わる。最終的には91%が協力する状態になる。これが協力状態である。91%が協力し、いじめが無い状態である。
 A点が分岐点として、好循環になるか、悪循環になるかが分かれる。いじめが無い状態になるか、いじめが多発する状態になるかが分かれる。(注1)
 だとすれば、A点以上に協力者の数を維持すればよいのである。A点以上に協力者の数を維持することが、いじめの予防である。(注2)

 いじめの予防 = A点以上に協力者の数を維持すること

 A点以上に協力者の数を維持すれば、悪循環が起きない。非協力状態に陥らない。いじめ状態に陥らない。つまり、A点以上に協力者の数を維持することがいじめの予防である。
 A点以上に協力者の数を維持して、悪循環を起こさないようにするのである。
 くだけた言い方をすれば、いじめを予防するとは、いじめを起こさないことである。いじめを傍観する者(非協力者)を一定数以上に増やさないことである。逆に言えば、いじめを容認しない者(協力者)を一定数以上に維持することである。A点以上に維持することである。
 図3から分かるのはA点以上に協力者を維持すればよいという事実である。
 周りの人間の行動を見て、自分の行動を決める状況がある。周りの人間の行動が環境になるのである。「いじめの原因はいじめ」なのである。
 そのような状況下においては、いじめを傍観する人間を増やさないことが予防である。協力者を増やすことがいじめの予防である。いじめ行動を起こさせないことがいじめの予防である。
 以上、いじめの〈発生メカニズム〉の理論モデルを使って、いじめの予防を説明した。
 それでは、具体的にどのようにいじめを予防するのか。どのように協力者を増やすのか。A点以上に協力者数を維持するのか。それは次回以降に論ずる。


(注1)

 これは、あくまで理論モデルである。大筋の説明である。
 もちろん、現実はもっと複雑である。
 今後詳しく論ずる。

(注2)

 先の論文で小川幸男氏は言う。

 多くの生徒が協力するようになる相互協力状態になるか、多くの生徒が協力しない相互非協力状態になるかの境目はこの場合、A点だということになる。
 つまり、相互非協力状態に陥らないようにするためには、ある臨界点A以上にみんなが協力している状態をつくることなのである。逆に言えば、臨界点A以下に協力状態を下げないことが必要である。

 「相互非協力状態に陥らないようにするため」には、「A点以上」の協力が必要だという原理を述べていた。

2015年10月16日

【いじめ論26】いじめ観のパラダイム転換

 注目していただきたい事実がある。それは「いじめの〈発生のメカニズム〉」を説明するために心的な用語を全く使っていない事実である。「いじめの解決が難しい理由」「いじめの予防」を論ずるために心的な用語を全く使っていない事実である。「心」「道徳意識」などの用語を全く使っていない事実である。
 この連載の最初で、私は次のように述べた。

 いじめについて広く信じられている考えがある。それは「悪い心がいじめを引き起こす」という考えである。「悪い道徳的意識がいじめを引き起こす」という考えである。
 この考えはあまりにも一般的すぎて、教育界で疑われることはなかった。その考えを信じている者も、特定の考えを「信じている」と自覚すらしていないだろう。

 ……〔略〕……

 この考えは、広く信じられている。いじめは心・道徳意識の問題であるという考えは、多くの人が信じ、疑いすらしない考えなのである。
 しかし、この一般的な考えは、正しいのだろうか。いや、正しくない。

 ……〔略〕……

 いじめが、心・道徳意識の問題であるという考えは間違っているのだ。それは部分的な間違いではない。根本的な間違いである。
 だから、「悪い心がいじめを引き起こす」・「悪い道徳的意識がいじめを引き起こす」という考えは、全く別の考えに変えなくてはならない。

 ここまでの論述で「全く別の考え」を示した。
 それは〈いじめは社会的ジレンマである〉という考えである。
 いじめを止めるのは危険である。それは、自分がいじめのターゲットになるかもしれないからである。だから、個人としてはいじめを傍観する方が得である。しかし、全員が傍観していじめが横行する学級になっては全員が損をする。
 一人ひとりが個人として得な「選択」した結果、全体としては全員が損をする状態になってしまう。これが社会的ジレンマである。
 いじめを社会的ジレンマと捉え、詳しく説明した。いじめを社会的ジレンマの〈発生メカニズム〉の理論モデルで説明した。いわゆる「臨界質量」の理論モデルで説明した。
 概略をもう一度述べよう。
 協力者の数が臨界点(図3のA点)以下の場合は、次のような悪循環に陥る。

 悪循環  45%協力 → 35%協力 → 22%協力 → 7%協力

 45%しか協力していないのを見て10%が非協力に転ずる。それを見て11%が非協力に転ずる。最終的には7%しか協力しない状態になる。
 いじめとはこのような状態である。7%しか協力していない状態である。
 この状態を変えるのは難しい。なぜか。それはお互い影響を与え合って陥った状態だからである。
 もし、協力者を35%に増やしたとしても、また同じ原理で7%に戻ってしまう。7%は安定した状態なのである。
 だから、いじめ状態の解決は難しい。いじめの解決のためには臨界点を超える協力者が必要になる。7%の協力者を過半数以上に増やさなくてはならない。
 そのようにいじめの解決は難しいのだから、予防が重要になる。予防とは臨界点以上に協力者を維持することである。逆に言えば、非協力者(いじめを傍観する者)を一定数以上に増やさないことである。協力者を一定数以上に増やすことである。図3のA点以上に増やすことである。
 ある一定数以上に協力者を維持することが大切である。いじめ状態に陥ることを予防するためには、傍観者を増やさないことが大切である。いじめ行動を起こさせないことが大切である。
 私は、既に次のようなスローガンを掲げていた。

 いじめの原因は心ではない。
 いじめの原因はいじめである。

 より正確言えば、いじめ状態の「原因」はいじめ行動の発生である。いじめは周りの人間の行動を環境として生じる状態である。いじめは社会的ジレンマである。
 そう考えるから、いじめ予防のイメージがわく。いじめ対策のイメージがわく。それは、過半数以上に協力者を増やすというイメージである。A点以下にしてはまずいというイメージである。
 そのようなイメージは、いじめを「心」「道徳意識」の問題と考えていては出てこない。
 先の引用に続いて私は次のように述べていた。

 間違ったいじめ観を基にしていては、有効ないじめ対策を作ることは出来ない。間違ったいじめ観は、歪んだ基礎のようなものである。歪んでいるので、その上に建物を建てることは出来ない。建てようとすると倒れてしまう。
 有効な対策のためには、正しいいじめ観が必要である。
 つまり、いじめ観のパラダイム転換が必要なのである。
 以下の論述で私がおこないたいのは、そのようなパラダイム変換である。いじめを捉える枠組み自体を変えることである。いじめを心・道徳意識の問題と捉える枠組みに代わる新しい枠組みを提供することである。

 ここまでの論述で、「いじめ観のパラダイム転換」をおこなった。「間違ったいじめ観」を正した。「新しい枠組みを提供」した。
 それによって、「いじめ対策を作る」ことが出来るようになった。「建物を建てる」ことが出来るようになった。
 どのように「建物を建てる」のか。
 今後、詳しく論じていく。

2015年10月23日

【いじめ論27】〈情報の非対称性〉によって、いじめが発生する

 いじめは社会的ジレンマである。しかし、いじめは一般的な社会的ジレンマではない。いじめには特殊な傾向がある。どのような特殊性があるのか。まず、それをはっきりさせよう。
 そのために、いじめとクールビズ問題とを比べる。クールビズ問題は一般的な社会的ジレンマである。一般的な社会的ジレンマと比較すると、いじめの特殊性が分かりやすくなる。
 クールビズ問題においては協力・非協力が一目で分かる。その人がネクタイを締めていれば、クールビズに非協力である。締めていなければ協力である。ネクタイを締めているか、いないかは一目で分かる。それによって、クールビズに非協力か、協力かが一目で分かる。つまり、協力者の割合は一目で分かる。
 それに対して、いじめにおいては協力・非協力が一目で分からない。いじめをしている者がいたとする。もちろん、いじめをしている者はいじめに賛成の立場である。しかし、その他の大多数はどうなのか。多くの場合、大多数の者は何もしないであろう。この大多数の者はいじめに賛成の立場なのか。そうとは限らない。いじめに批判的である場合も多い。「いじめは悪い」と思っている場合も多い。しかし、それは他の者には分からない。いじめに対する賛否が一目では分からないのである。つまり、いじめにおいては協力者の割合が一目で分からない。いじめに対して批判的な者の割合は一目で分からない。
 誰かがいじめをしている行動は見える。しかし、いじめに批判的な内面の「思い」は見えない。いじめを扇動する声は聞こえる。しかし、いじめに批判的な内面の「声」は聞こえない。
 つまり、いじめ状況においては、いじめを容認する側の情報だけが伝わるのである。いじめに批判的な側の情報は伝わらないのである。「いじめは悪い」と思っている側の情報は伝わらないのである。
 まとめよう。


 クールビズ問題 → 協力者、非協力者の両方の情報が伝わる
 いじめ       → 非協力者の情報だけが伝わる


 クールビズ問題においては、クールビズに協力している側の情報も、協力していない側の情報も両方伝わる。しかし、いじめにおいては、協力していない側の情報だけが伝わる。
 いじめには、このような〈情報の非対称性〉がある。いじめを容認する側(非協力者)の情報しか伝わらないのである。「いじめは悪い」と思っている側(協力者)の情報は伝わらないのである。(注1)(注2)
 この〈情報の非対称性〉がいじめの特殊性である。いじめは特殊な社会的ジレンマなのである。
 いじめには〈情報の非対称性〉がある。この事実から、次の重要な原理を導き出すことが出来る。

 大多数の子供が「いじめは悪い」と思っている状況下でも、いじめは発生しうる。

 子供は不完全な情報を基に行動を「選択」している。いじめを容認する側の情報だけを基に行動を「選択」している。非協力者の情報だけを基に行動を「選択」している。
 いじめ行動だけが見える。いじめを容認する行動だけが見える。しかし、「いじめは悪い」と思っている内面は見えない。つまり、本当は「いじめは悪い」と思っている方が多数派であっても、それは分からない。傍観者が「いじめは悪い」と思っていても、それは見えない。
 このような状況下では、いじめを容認する側の割合が過大に見積もられる。現実において見えているのは、いじめ行動がおこなわれ、それを咎める者がいない状況である。その状況では、子供はいじめが容認されていると判断するだろう。何もしない傍観者は、いじめを容認する側にカウントされるだろう。
 このような不完全な情報を基に行動を「選択」すれば、偏りが出る。いじめを容認する側の情報を基に行動を「選択」すれば、いじめを容認する「選択」をすることになる。非協力を「選択」することになる。
 だから、集団内の大多数の子供が「いじめは悪い」と思っていても、いじめは発生しうる。「いじめは悪い」と思っている多数派の「思い」は見えず、いじめ行動だけが見えるのだから。
 このような構造によって、いじめが発生する。それは情報が不完全だからである。一方の情報だけが入るからである。その情報を基に行動を「選択」しているからである。
 〈情報の非対称性〉によって、いじめが発生するのである。


(注1)

 もちろん、いじめを止めようとする者がいれば、それは見える。協力者の情報は伝わる。
 しかし、そのような行動をしない状態では、「いじめは悪い」と思っている事実は伝わらない。協力者の情報は伝わらない。


(注2)

 先の論文で小川幸男氏は次のように述べている。

 「暴力」や「いじめ」をしないという行為が意識されずに、「暴力」や「いじめ」をするという行為のみ意識されるため、少数の非協力者が「暴力」や「いじめ」の行為をしただけで、実際よりも多くの者が「暴力」や「いじめ」の行為を感じとってしまう。そのことが、非協力状態が広がりやすくなる原因となっている。

 小川幸男氏は、これを「一面性のできごと」という用語で説明している。


2015年11月20日

【いじめ論28】大多数を占める傍観者が〈いじめ容認派〉にカウントされてしまう

 いじめを予防するためには過半数以上の協力者を維持することが必要である。社会的ジレンマに陥らないためには一定数以上に協力者を維持することが必要である。図3のA点以上に協力者を維持することが必要である。
 しかし、いじめには〈情報の非対称性〉がある。いじめを容認する側の情報だけが入ってくる。いじめ行動は見える。しかし、「いじめは悪い」と思っている内面は見えない。
 つまり、いじめにおいては、協力者の数とは「協力者の予測数」なのである。この点で、いじめはクールビズ問題とは違う。クールビズ問題ならば、ネクタイをしている者の数は一目で分かる。協力者の実数が分かる。しかし、いじめに反対の立場である者の数は一目では分からない。協力者の数は一目では分からない。「予測」するしかない。だから、いじめにおいては「協力者の予測数」なのである。
 「予測」において問題になるのが傍観者である。傍観者をどちらの側と見るかで、結果が大きく変わってくる。
 傍観者の割合は大きいのである。(注1)
 深谷和子氏の調査によると、いじめを傍観した者は九割に達する。


 まず、「クラスのいじめをやめさせようとして、あなたは何かしましたか」と聞いてみた(表4ー1)。「いじめ」の解決に向けて何もしなかった者、すなわち全くの傍観者だった者は、小学校で六一%、中学校で六七%にものぼる。
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 むろん「多少働きかけれみたが、途中で断念した」と言っている者も二、三割いるが、個別に聞き取りをしてみると「やめなよ」ぐらいで、形勢不利とみてか、早々と断念しているケースが多く、これもほとんど傍観に近い。したがって、先の全然しなかった者と合わせると、九割にもなる。友だちの窮状に対して、何とかしようと懸命に働きかけた者は、たったの一割でしかない。
 傍観者はいじめっ子たちにとって、その行為を支持してくれている強い味方なのだから、当事者以外の九割から支持されている「いじめ」であれば、大人が何を言おうと彼らが勢いづくのは当然だろう。(注2)


 いじめを傍観した者は九割に及んでいる。
 傍観している者は、内面はいじめに否定的かもしれない。しかし、傍観している者の内面は見えない。
 だから、「いじめっ子」には「その行為を支持してくれている」ように思える。「強い味方」のように思える。また、傍観者にも、他の傍観者が「その行為を支持」しているように思える。
 いじめ行動は見える。しかし、傍観している者の内面は見えない。すると、いじめを「支持」している者が九割いるように見える。「いじめっ子」にもそう見えるし、傍観者にもそう見える。
 いじめ行動が発生している状況では、傍観者は〈いじめ容認派〉にカウントされる。そして、傍観者の割合は大きい。傍観者の割合は九割に及ぶ。
 つまり、いじめ行動が発生しそれを放置した場合、九割以上の〈いじめ容認派〉が存在するように思えてしまう。協力者が一割以下だと思えてしまう。
 これでは、いじめ状況に陥ってしまう。図3のBの状態になってしまう。社会的ジレンマに陥ってしまう。
 〈情報の非対称性〉によって、〈いじめ容認派〉の情報だけが伝わる。その結果、九割を占める傍観者が〈いじめ容認派〉にカウントされてしまう。それによって、加速度的にいじめが蔓延するようになる。いじめ状況に陥ってしまう。
 いじめ予防には過半数以上の協力者が必要である。しかし、いじめにおいては協力者の数とは、実際には「協力者の予測数」である。傍観者の内面は見えないからである。さらに、いじめには〈情報の非対称性〉がある。だから、「予測数」にはバイアスがかかる。いじめ行動だけが見えるため〈いじめ容認派〉が過大に見積もられる。大多数を占める傍観者が〈いじめ容認派〉にカウントされてしまうのである。


(注1)

 いじめを加害者・被害者・観衆・傍観者の「四層構造」と捉えたのは森田洋司・清水賢二氏である。『いじめ ――教室の病』(金子書房、1986年)を参照。


(注2)

 深谷和子『「いじめ世界」の子どもたち』金子書房、1996年、52ページ

2015年11月27日

【いじめ論29】行動レベルでの変化を起こすことで傍観者を〈いじめ否定派〉にする

 いじめ行動が発生している状況では、傍観者は〈いじめ容認派〉にカウントされる。〈いじめ容認派〉と見なされる。そして、傍観者の割合は九割に及ぶ。傍観者は圧倒的な多数派なのである。
 その九割が〈いじめ容認派〉にカウントされては、いじめ状態に陥ってしまう。図3のBの状態になってしまう。社会的ジレンマに陥ってしまう。
 しかし、傍観者が〈いじめ否定派〉にカウントされれば、落ち着いた状態になる。図3のCの状態になる。
 傍観者の内面は不明なのだから、傍観者はどちらにもカウントされる可能性がある。傍観者は〈いじめ容認派〉と見なされる可能性がある。逆に、〈いじめ否定派〉と見なされる可能性もある。傍観者がどちらにカウントされるかで大きな違いが生じる。いじめ状態になるか、それとも落ち着いた状態になるかの違いが生じる。
 しかし、いじめには〈情報の非対称性〉が存在する。いじめ行動は見える。しかし、いじめに否定的な内面は見えない。そのため傍観者は〈いじめ容認派〉にカウントされてしまう。バイアスがかかるのである。
 このバイアスに対処する方法は原理的に次の二つである。

 1 いじめ行動を発生させない。
 2 反いじめ行動を発生させる。

 顕在的な行動が集団に大きな影響を与える。はっきと見える行動によって、集団の状態が大きく変わる。だから、行動レベルでの変化を起こせばよいのである。
 いじめ行動の発生を抑止すれば、いじめ行動が見えなくなる。それによって、傍観者は〈いじめ容認派〉にカウントされなくなる。〈いじめ容認派〉と見なされなくなる。
 また、反いじめ行動の発生を促進すれば、反いじめ行動が見えるようになる。それによって、傍観者は〈いじめ否定派〉にカウントされるようになる。〈いじめ否定派〉と見なされるようになる。
 顕在的な行動が傍観者の解釈を変える。傍観者が〈いじめ容認派〉に入れられるか、〈いじめ否定派〉に入れられるかを変える。「協力者の予測数」を変える。
 つまり、いじめを予防するためには、傍観者が〈いじめ容認派〉にカウントされるのを防止すればよい。〈いじめ否定派〉にカウントされるようにすればよい。「協力者の予測数」を過半数以上にすればよい。図3のA点以上にすればよい。
 そのためには、上の1・2の状況を作ればよい。いじめ行動を発生させず、反いじめ行動を発生させるのである。
 ここまでの論述をまとめよう。

 1 いじめは社会的ジレンマである。
 2 いじめを予防するためには過半数以上の「協力者」が必要である。
 3 しかし、いじめには〈情報の非対称性〉がある。
 4 いじめ行動を放置すると傍観者が〈いじめ容認派〉と見なされ、過半数以上の「協力者」が維持できなくなる。いじめ状態に陥ってしまう。
 5 だから、いじめ行動を抑制する必要がある。また、反いじめ行動を促進する必要がある。

 いじめにおいては、大多数を占める傍観者の内面は不明である。だから、顕在的な行動の影響が大きくなる。そのような状況下では、いじめ行動が発生すること自体が協力者数の「予測」を大きく左右する。いじめ行動が放置されていれば、子供は集団内でいじめ行動が容認されていると「予測」する。〈いじめ容認派〉が多数派であると「予測」する。いじめ行動が多発する。結果として、いじめ状態に陥ってしまう。だから、いじめ行動が適切に抑制される必要がある。
 スローガンとして述べれば次のようになる。

 いじめの原因はいじめである。
 だから、いじめ行動が適切に抑制されなければならない。

 いじめ状態の「原因」はいじめ行動である。いじめ行動が放置されていると、子供はいじめが容認されていると思ってしまう。〈いじめ容認派〉が多数派だと思ってしまう。〈情報の非対称性〉があるからである。
 その結果、「協力者予測数」が図3のA点以下になってしまう。そして、坂を転げ落ちるようにいじめ状態に陥ってしまう。
 それを防止するためには、行動レベルの変化が必要である。いじめ行動を抑制し、反いじめ行動を促進するのである。
 行動レベルの変化を起こすことが〈情報の非対称性〉のバイアスへの対処である。〈いじめ否定派〉が多数派であることを傍観者に「見せる」のである。

2015年12月04日

【いじめ論30】休み時間に教師が存在するといじめは抑止される

 ノルウェーの都市ベルゲンでの調査を基にダン・オルウェーズは言う。

 ベンゲン研究では、休み時間および昼休みにおける監督方法といじめとの関係を調べることができた。この研究に参加した約四〇の小学校および中学校において、こうした時間に『生徒と一緒にいる教師の数』といじめの件数との間には、はっきりしたマイナスの関連性が認められた。つまり、こうした時間に監督している教師の数(生徒一〇〇人あたりの教師の数)が多ければ多いほど、その学校のいじめの件数は少なかったのである。(注1)

 休み時間に「生徒と一緒にいる教師の数」と「いじめの件数」とは「はっきりしたマイナスの関連性」があった。休み時間に教師がいるといじめは少なくなる。教師がたくさんいればいるほど少なくなる。
 この事実をどう解釈するか。
 これは、いじめが社会的ジレンマである証拠である。先に私は次のように述べた。

 1 いじめは社会的ジレンマである。
 2 いじめを予防するためには過半数以上の「協力者」が必要である。
 3 しかし、いじめには〈情報の非対称性〉がある。
 4 いじめ行動を放置すると傍観者が〈いじめ容認派〉と見なされ、過半数以上の「協力者」が維持できなくなる。いじめ状態に陥ってしまう。
 5 だから、いじめ行動を抑制する必要がある。また、反いじめ行動を促進する必要がある。

 休み時間に教師が存在するといじめが少なくなる事実はこの理論と整合している。
 私は〈いじめ行動を抑制すれば、いじめ状況は発生しない〉という趣旨を述べていた。
 教師が存在する状況は、正にいじめ行動の抑制である。教師が存在する事実が集団の状態を変える。
 教師の「監督」下でいじめをするのは難しい。いじめをすれば教師に注意される。いじめをするのが難しいので、いじめ行動は発生しない。いじめ行動が発生しなければ、傍観者は〈いじめ容認派〉と見なされない。過半数以上の「協力者」を維持できるので、いじめ状態に陥らない。
 教師の存在がいじめを少なくする事実はこのように解釈できる。いじめは社会的ジレンマなのである。集団の問題なのである。
 この事実を基にオルウェーズは次のような対策を提案する。

 いじめの大部分は、登下校時より学校内で起きる。すでに見たように、休み時間や昼休みの時間に比較的多くの教師が生徒たちと一緒にいる学校では、いじめはあまり起きない。したがって、適当な数の外部の大人(訳者注-たとえばPTAのメンバー)が昼休み時間に生徒と一緒に過ごすことや、学校側が生徒の活動について適切に監督することが重要である。このことは昼休みの時間(多くの学校では、大人の監督なしに生徒たちは完全に野放しにされている)にもあてはまる。このことを実行する一つの確実な方法は、休み時間や昼休みの監督が円滑に行なわれるようなはっきりした計画を作ることである。(注2)(注3)

 つまり、オルウェーズは次のような論理を述べている。

 a いじめは主に休み時間に起こる。
 b 休み時間に教師がいれば、いじめは発生しにくい。
 c だから、教師(またはそれに代わる大人)が休み時間に子供を「監督」すればよい。

 これは具体的な事実を基にした論理である。そして、a~cが密接に繋がっている。論理の飛躍が無い。
 休み時間に教師が存在するといじめが抑止される。
 これは明確な事実である。この明確な事実は、いじめという複雑な現象を理解するための手がかりになる。(注4)
 いじめを社会的ジレンマと捉える理論はこの事実と整合している。社会的ジレンマとしてまとめよう。

 1 休み時間に教師(またはそれに代わる大人)がいるといじめ行動が発生しにくい。
 2 いじめ行動が発生しないならば、傍観者は〈いじめ容認派〉にカウントされない。
 3 よって、教師が存在するといじめ状況に陥りにくい。

 いじめを社会的ジレンマと捉える理論は、いじめを集団の問題と捉える理論である。集団の状態と捉える理論である。
 教師の存在が集団の状態を変える。教師の存在がいじめ行動を抑制する。いじめ行動の抑制が傍観者の解釈を変える。傍観者が〈いじめ容認派〉と見なされるのを防止する。〈いじめ容認派〉が多数派と見なされるのを防止する。それによって、いじめ状況に陥ることがなくなる。
 教師の存在が集団の状態を変える。教師の存在がいじめを抑止するのである。


(注1)

 ダン・オルウェーズ著 松井賚夫・角山剛・都築幸恵訳『いじめ こうすれば防げる』川島書房、1995年、45ページ

(注2)

 同、96~97ページ

(注3)

 原著では傍点の部分を強調に変えた。

(注4)

 確かに、〈休み時間に教師が存在するといじめが抑止される〉のは当たり前の事実である。しかし、文部科学省を含めてほとんどの論者が、この当たり前の事実を踏まえていないのである。
 文科省は、いじめを防ぐために「道徳教育」をおこなうと言う。それは、いじめをおこなう者の道徳意識が低いと考えるからである。
 しかし、既に述べたように、それは間違った論理である。また、何の成果も出ていない。「道徳教育」によって、いじめが減ったというエビデンスはない。
 それに対して、オルウェーズの論理は現実にいじめを減らしているのである。そして、その論理には、「道徳意識」も「心」も想定されていない。いじめを減らすためには「道徳意識」も「心」も必要なかったのである。
 いや、「道徳意識」や「心」を想定すること自体が問題を見えにくくしているのである。

2015年12月11日

【いじめ論31】教師の「不在」がいじめを発生させる

 前回、休み時間に教師が存在するといじめが少なくなる事実を述べた。
 教師の存在が集団の状態を変える。教師の存在がいじめ行動を抑制するのである。
 この「教師」とは〈教師の役割〉のことである。「教師の存在」とは、「教師」と呼ばれている者がその場にいることではない。その場で、教師が〈教師の役割〉を果たしていることである。
 教師が〈教師の役割〉を果たしていない場合は、当然、いじめ行動は抑制されない。
 次の事例を見ていただきたい。教師が〈教師の役割〉を果たしていない事例である。教師が「不在」である事例である。

 学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった。
 ……〔略〕……
 昨日、探りを入れた結果、「この先生ならいける」と、子どもたちは思ったのであろう。大樹君は昨日以上に、私が話している時に、口をはさむようになる。大声で、全然関係のない話をし始める。
 私が注意しても、聞こうとしない。逆に、「うるさいなー。先生、いちいち注意するなよ」というようなふてくされた態度をとる。
 見かねた俊介君が、「大樹君、静かにしいや!」と勇気を出して、注意してくれる。しかし、その注意に対して、
 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」
 (俊介君のおうちではおじいさんが豆腐屋さんをしておられた)
 あっけに取られた。「小学3年生になったばかりの子どもやで。一言注意されたぐらいで、ここまで言うのか?」と思った。
 勇気を出して注意をしてくれた俊介君。罵声を浴びせられ、「先生、何とかして! 助けて!」という目で私を見つめた。
 でも、私は何もできなかった。動けなかった。大樹君に対してどうしたらいいのか、俊介君に対してどうしたらいいのか、まったくわからなかった。
 でも、他の子どもたちはしっかりみていた。
 「この先生、あかんわ」
 「あんなひどいことしたはんのに注意もできひんわ」
 「あーあ、情けな」
 というような雰囲気が子どもたちの間を流れたことだけは、教師二日目の私にもわかった。(注1)

 教師が全く〈教師の役割〉を果たしていない。いじめ行動を抑制していない。
 この教師は子供に負けている。これでは、この教師に従うより、乱暴な大樹君に従った方が安全である。教師に従うのは危険である。「あんなひどいことしたはんのに注意もできひんわ」という教師に従うのは危険である。
 この学級には、実質的に教師は存在しない。〈教師の役割〉を果たす者がいないのである。「ひどいことした」者を注意をして、学級の秩序を保つ者がいないのである。監督者がいないのである。
 監督者がいなければ、学級が荒れる。この事例では「学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった」のである。
 〈教師が教師として存在する学級〉ではいじめは発生しにくい。しかし、〈教師が教師として存在しない学級〉ではいじめが発生する。〈教師が「不在」である学級〉ではいじめが発生する。

 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」

 このような発言を許してはいけない。この発言自体がいじめ行動なのである。
 だから、教師はこの発言を撤回させなければならない。大樹君にこの発言の非を認めさせ、俊介君に謝罪させなければならない。(注2)(注3)
 それが出来るから学級の正当な秩序が保たれるのである。それが出来るから教師なのである。〈教師の役割〉を果たすから教師なのである。子供に負け、いじめ行動を放置しているようでは、それは実質的に教師ではない。

 「この先生、あかんわ」
 「あんなひどいことしたはんのに注意もできひんわ」
 「あーあ、情けな」
 というような雰囲気が子どもたちの間を流れた。

 これはもう実質的に教師として認められていないのである。監督者として認められていないのである。当然、子供はこの教師を無視して行動するようになる。結果として、学級は弱肉強食の状態になる。乱暴な大樹君のやりたい放題になる。
 先に私は次のようなスローガンを述べた。

 いじめの原因はいじめである。
 だから、いじめ行動が適切に抑制されなければならない。

 この事例では、教師が〈教師の役割〉を果たせず、いじめ行動を抑制できなかった。いじめ行動を放置してしまった。
 いじめ行動を放置していては、〈いじめ容認派〉が多数派に見えてしまう。乱暴な大樹君の行動だけがはっきりと見えるのだから、〈いじめ容認派〉が多数派に見えるのは当然である。人は顕在的な情報に反応するのである。いじめ行動がおこなわれ、それが通ってしまっている。教師は注意すらしていない。学級の成員に見えているのはそのような状態である。
 これでは、坂を転げ落ちるようにいじめ状態に陥ってしまう。現に、この事例では「学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった」のである。
 注目していただきたい事実がある。それは、乱暴な大樹君に対して俊介君が注意をしている事実である。つまり、この段階では協力者が存在したのである。〈いじめ否定派〉が存在したのである。教師が大樹君のいじめ行動を適切に抑制していれば、〈いじめ否定派〉が多数派に見えたはずである。大樹君に自分の発言の非を認めさせ、俊介君に謝罪させていれば、学級の正当な秩序が保たれたはずである。
 しかし、教師はいじめ行動を適切に抑制できなかった。大樹君の行動を適切に指導できなかった。それによって、〈いじめ容認派〉が多数派に見える状況になってしまった。非協力者が多数派に見える状況になってしまった。結果として、学級は三日で「騒乱状態」になってしまった。
 教師が「不在」であることが集団の状態を変える。教師が「不在」であると、いじめ行動は抑制されない。すると、〈いじめ容認派〉が多数派のように見えてしまう。いじめ行動は顕在的だからである。そのようないじめ行動が放置されては、集団はいじめ状況に陥っていく。この意味で、「いじめの原因はいじめ」である。
 だから、いじめ行動は適切に抑制されなければならない。いじめ行動を抑制するのは、〈教師の役割〉である。監督者の役割である。
 教師が〈教師の役割〉を果たさず、いじめ行動を放置した時、集団はいじめ状態に陥る。教師の「不在」がいじめを発生させるのである。


(注1)

 向山洋一編著『学級崩壊からの生還』扶桑社、1999年、126~128ページ


(注2)

 この発言がされること自体が異常事態である。

 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」

 だから、この発言をどう指導するかは本筋ではない。この発言を防止するためにはどうすればよかったのかが本筋である。
 この発言の前に問題があるはずである。

 ……〔略〕……大樹君は昨日以上に、私が話している時に、口をはさむようになる。大声で、全然関係のない話をし始める。
 私が注意しても、聞こうとしない。逆に、「うるさいなー。先生、いちいち注意するなよ」というようなふてくされた態度をとる。

 「昨日」の段階で「注意」が必要だったのである。教師が話している時に「口をはさむ」のを許してはいけなかったのである。
 また、指導自体が私語を許す「ぬるい」構造になっているのである。


(注3)

 指導時間内でおこなわれたいじめを教師が注意・指導できない事態は深刻である。
 これは、教師がいない休み時間にいじめ行動がおこなわれたのとは意味が違う。
 つまり、監督者であるべき教師に監督能力が無いことが明らかになってしまったのである。教師の能力の無さを学級の成員全員が見てしまったのである。教師が「不在」であることが明らかになってしまったのである。
 これでは、三日で「騒乱状態」になるのも当然である。


2015年12月18日

【いじめ論32】教師の存在がいじめ行動を抑制する

 いじめ行動は適切に抑制されなければならない。いじめ行動を抑制するのは、〈教師の役割〉である。監督者の役割である。
 教師が〈教師の役割〉を果たさないと、集団はいじめ状態に陥る。いじめ行動を放置すると、集団はいじめ状態に陥る。教師の「不在」がいじめを発生させるのである。
 前回、教師がいじめ行動が抑制できなかった事例を挙げた。

 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」

 教師はこのいじめ行動を抑制できなかった。指導できなかった。
 このいじめ行動をどう抑制すればよかったのか。どう指導すればよかったのか。
 思考実験してみよう。(注1)
 まず、第一声はこうである。気迫を込めて言う。

 大樹君、立ちなさい。
 今言ったことをもう一度言ってみなさい。

 通常は、大樹君は立ったまま黙るはずである。大樹君は、ついかっとなって言った。しかし、落ち着いてみると「マズいことを言ってしまった」と自分で気がつくのである。感情モードから思考モードに変わるのである。(注2)
 黙っているので、次のように追い打ちをかける。

 どうしたのですか。
 今言ったばかりです。
 覚えているでしょう。
 言ってください。

 大樹君はさらに黙り続ける。
 大樹君がとても申し訳なさそうしていたら、助け船を出す。(注3)

 黙っているということは悪いことをしたと思っているのですね。

 この言葉に大樹君が頷いたら言う。

 悪いことをしたと分かったのですね。
 では、俊介君に謝りなさい。

 謝ったら、俊介君に聞く。

 俊介君、いいですか。

 俊介君が頷いたら、大樹君の指導は完了である。
 続いて、全体に対して指導をする。

 人のお家の仕事をとやかく言って、相手をバカにするのは差別です。
 先生は、差別は絶対に許しませんよ。

 こう言って、全体に対していじめ行動は許さないという宣言をするのである。
 大筋でこのような流れの指導になるだろう。これで必要な指導がされた。
 大樹君の発言を許さず、撤回させる。悪いと認めさせる。そして、俊介君にきちんと謝罪させる。
 この指導で学級の正当な秩序が保たれる。教師が〈教師の役割〉を果たしたのである。いじめ行動を適切に抑制したのである。これが教師が存在する状態である。監督者がいる状態である。
 先の事例と比べて欲しい。先の事例では、教師が〈教師の役割〉を果たせなかった。いじめ行動を放置してしまった。教師が「不在」であった。監督者がいない状態であった。
 その結果、坂を転げ落ちるようにいじめ状態に陥ってしまった。「学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった」のである。
 「いじめの原因はいじめ」である。いじめ行動を放置すれば、いじめ状態に陥ってしまう。だから、いじめ行動を適切に抑制しなければならない。
 そのためには教師が〈教師の役割〉を果たす必要がある。教師が存在する必要がある。教師の存在がいじめ行動を抑制するのである。


(注1)

 教師の指導中にこのような発言がされること自体が異常な事態である。
 だから、本来は、このような発言がされないように前もって手を打っておくべきである。
 しかし、この異常な発言をどう指導したらいいかを考えることは有益である。いじめ行動の抑制の例を示すことができるからである。
 だから、これは思考実験である。


(注2)

 感情モードを思考モードに変えるためには、静寂が必要である。緊張した雰囲気が必要である。静まりかえった教室に一人で立っているから、自分の言動を反省できるのである。だから、教室が騒がしい時には、静かにさせる必要がある。静かにさせるには様々な方法がある。
 しかし、その前提として、教師が差別に対して〈強い怒り〉を持っていることが重要である。教師の〈強い怒り〉は子供に伝わるのである。


(注3)

 この段階で大樹君が反省の色を見せない場合は、さらなる手立てが必要である。
 例えば、次のようにである。

 大樹君が言ったことがよいと思う人は手を挙げなさい。ほら。誰も手を挙げていないよ。みんな、君がしたことが悪いと言っているよ。

 集団が大樹君の言動を支持していないことを顕在化させるのである。

2016年01月22日

【いじめ論33】反いじめ行動を発生させることによって、いじめを抑止する

 顕在的な行動が集団に大きな影響を与える。行動は見える。しかし、内面の「思い」は見えない。〈情報の非対称性〉があるのである。
 だから、いじめ行動が放置されれば、〈いじめ容認派〉が多数派に見える。いじめ行動が目立って見えるからである。多くの生徒が「いじめは悪い」と思っていたとしても、〈いじめ容認派〉が多数派に見える。内面の「思い」は見えないからである。
 顕在的な行動が集団に大きな影響を与える。そのようなバイアスがある。
 このバイアスに対処する方法として次の二つを挙げた。

 1 いじめ行動を発生させない。
 2 反いじめ行動を発生させる。

 行動のレベルで変化を起こすのである。
 既に、1については説明した。いじめ行動の発生を適切に抑制すれば、バイアスの悪影響は防止できる。いじめ行動が抑制されれば、当然〈いじめ容認派〉が多数派には見えない。
 以下、2を説明する。これは1と逆の発想である。顕在的な行動が大きな影響を与えるのならば、反いじめ行動を顕在化させてしまえばよい。反いじめ行動を発生させることが、集団によい影響を与える。反いじめ行動を顕在化すれば、〈いじめ否定派〉が多数派に見える。
 実は、初期値においては、多くの学級で〈いじめ否定派〉が多数派なのである。だから、それを顕在化させればよいのである。行動の形にすればよいのである。
 次の小川幸男氏の実践を見ていただきたい。反いじめ行動を発生させる実践である。「いじめや暴力をしない」ことを生徒に宣言させるのである。(注1)


 できれば入学した当初に、生徒の思いを吸い上げる形で「決意文」「宣言文」を作らせる。そして、その「決意文」「宣言文」を集団で採択させる。
 教師が「いじめはやめよう」と思いを語るだけでは、余り効果はない。自分たちで決意をした形をつくることが重要である。
 他の生徒も「いじめや暴力をしないと宣言したこと」をお互いに確認しあうことが大きな目的である。だから、採択の際には挙手をする、起立をする、あるいは署名をするなど賛成したことが他の生徒にも見える形を必ずとる。……


 小川幸男氏は次のような「宣言文」を採択させた。
 生徒会として「いじめ・暴力徹底追放宣言」を採択させた。(注2)


いじめ・暴力徹底追放宣言
            ―いじめ・暴力をなくし、住みよい学校を!―

私達、生徒会の基本方針は「住みよい学校をつくることです。私達生徒一人ひとりは、 誰もが「楽しい学校生活を送る権利」を持っています。 この「権〔原文のママ〕を侵害することは誰にもできません。
 しかし、“いじめ”や“暴力”という行為は、この「権利」を侵害するものです。これはいじめられた人の身になって考えれば、よく分かることだと思います。
ですから、“いじめ”や“暴力”を許してしまっては「住みよい学校をつくる」ことはできません。だからこそ、私達生徒は一人ひとりを互いに大切にし合い、「住みよい学校をつくる」ため、“いじめ”や“暴力”を徹底的に追放しなければなりません。
 よって、Y中学校生徒会は次の事を宣言します。
1 どんな理由があっても、“いじめ”・“暴力”を許さない学校をつくっていこう。
2 不正なことには、「やめよう」と言おう。
3 問題が起こった時は“暴力”・“力関係”で解決せず、クラスで討議し、自分達の力で解決していこう。

                 平成6年1月29日
                  Y中学校生徒会


 このような「いじめ・暴力徹底追放宣言」の採決は有効である。
 いじめに反対する宣言を生徒自身が採択したのである。挙手・起立・署名などの行動が「他の生徒に見える形」で採択したのである。
 これは反いじめ行動である。生徒集団はいじめに反対している。その事実を行動の形で顕在化したのである。
 反いじめ行動を発生させることは重要である。反いじめ行動を発生させることには次のような効果がある。

 〈いじめ否定派〉が多数派であることを見せる。

 いじめに反対する宣言が挙手・起立・署名など「他の生徒に見える形」で採択された。集団の大多数がいじめに反対している事実が示されたのである。
 通常、「いじめは悪い」という内面の「思い」は、行動として顕在化することはない。いじめを傍観する傍観者が大多数を占めるからである。しかし、宣言を採択する形式を取ることで、反いじめ行動が顕在化したのである。
 反いじめ行動が見えるようになった。それによって、学級の大多数が〈いじめ否定派〉にカウントされるようになる。〈いじめ否定派〉と見なされるようになる。生徒は「〈いじめ否定派〉が多数派である」と感じるだろう。
 このような宣言が採択されては、いじめをするのは困難である。
 いじめは社会的ジレンマ現象である。いじめる者は、自分たちの行動が集団に容認されていると感じるからいじめをおこうなうのである。それが、実際は少数派だったらどうだろうか。集団に容認されていないことが分かったらどうだろうか。いじめを続けるのは難しいだろう。
 〈いじめ否定派〉が多数を占める中では、いじめをおこなうのは困難である。だから、〈いじめ否定派〉が多数派であるという事実を見えるようにすることが重要である。
 「いじめや暴力をしない」という宣言を採択することによって、〈いじめ容認派〉が多数派に見えるバイアスに対処することが出来た。顕在的な行動が集団に与える影響が大きいというバイアスに対処することが出来た。〈情報の非対称性〉に対処することが出来た。
 反いじめ行動を発生させることによって、いじめを抑止できたのである。


(注1)

  小川幸男「社会的アプローチによる世論づくり」『楽しい学級経営』明治図書、1994年10月


(注2)

  明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年


2016年01月29日

【いじめ論34】反いじめ行動の顕在化が協力者を雪崩れ的に増やす

 生徒会が「いじめ・暴力徹底追放宣言」を採択する。挙手・起立・署名など「他の生徒に見える形」で採択する。
 このような宣言が採択されては、いじめをおこなうのは困難である。集団の大多数がいじめに反対を表明しているのである。その状態で、いじめをおこなうのはとても困難である。
 なぜ、困難なのか。それはいじめが社会的ジレンマだからである。
 もう一度、図3を見ていただきたい。
 
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 協力者の初期値がA点以上ならば、好循環が起きる。協力者が増えることによって、さらに協力者が増える。そして、最終的にはC点まで協力者が増える。
 逆に、A点以下ならば、悪循環が起きる。協力者が減ることによって、さらに協力者が減る。そして、最終的にはB点まで協力者が減る。
 最初の小さな違いが、最終的には大きな違いになる。それは、他人の行動を見て自分の行動を決めるからである。社会的ジレンマだからである。
 だから、初期値が重要なのである。小川幸男氏は「いじめ・暴力徹底追放宣言」を採択させた。「入学した当初」に採択させた。これによって、協力者の初期値はA点以上になる。協力者がA点以上なのだから、好循環が起きる。協力者はC点まで増える。雪崩れ的に落ち着いた状態になる。
 既に論じたように、いじめには協力者(いじめ否定派)の数が目に見える形では分からない構造がある。これは、いじめと掃除とを比べてみると分かる。掃除では、掃除をしている者が協力者である。掃除をしていない者が非協力者である。〈掃除をしてるか、していないか〉は見て分かる。掃除では、目で見える形で協力・非協力が分かる。行動の形で協力・非協力が分かる。
 しかし、いじめでは、目で見える形で協力・非協力が分からない。行動の形で協力・非協力が分からない。いじめでは、いじめをする者やいじめを止める者は少ない。行動をしている者は少ない。大多数の者が傍観者なのである。傍観者は行動をしていない。行動をしていないので、目で見える形で協力・非協力が分からない。
 つまり、いじめでは協力者の実数は分からない。「予測」するしかないのだ。だから、「協力者の予測数」が問題なのである。生徒がどう「予測」しているかが問題なのである。
 そして、この「予測」には特定のバイアスがかかっている。「協力者の予測数」は、少なく見積もられがちなのである。それは、いじめ行動だけが発生するからである。いじめている様子だけが見えるからである。いじめ行動が発生し、それが咎められていない。そのような状態では、集団内でいじめが認められているように感じられる。傍観者が「いじめを容認」しているように感じられる。
 このように、「協力者の予測数」は目に見える行動によって大きく左右される。いじめ行動が発生していれば、「協力者の予測数」は少なくなる。〈いじめ容認派〉が多く見積もられる。
 これが〈情報の非対称性〉である。顕在的な行動の影響が大きくなるバイアスである。内面で「いじめは許せない」という「思い」を持っていても、それは見えないのである。
 「いじめ・暴力徹底追放宣言」を採択させる実践は、このバイアスの悪影響を防止するものであった。さらに、バイアスを逆に利用するものであった。小川幸男氏は反いじめ行動を発生させたのである。宣言文の採択という形で発生させたのである。(注)
 宣言文の採択によって、「いじめは許せない」という「思い」が顕在化した。行動の形になった。この行動によって、「協力者の予測数」は多くなる。〈いじめ否定派〉が多く見積もられる。他者の行動の「予測」が大きく変わる。
 宣言の採択によって、生徒は「みんなはいじめをしないであろう」と「予測」するようになる。この「予測」が自分の行動を変える。生徒はいじめ行動をしないようになる。もともと、多くの生徒は、いじめを「自発的」におこなう訳ではないのだ。他者の行動に合わせているだけなのだ。
 「いじめ・暴力徹底追放宣言」を採択させる影響は大きい。反いじめ行動を起こす影響は大きい。それはいじめが社会的ジレンマであるからである。いじめに〈情報の非対称性〉があるからである。宣言の採択によって〈情報の非対称性〉の悪影響を防止できるからである。
 反いじめ行動の顕在化によって、協力者を雪崩れ的に増やすことが出来たのである。


(注)

 「いじめ・暴力徹底追放宣言」を採択させる実践は以前からあった。
 しかし、小川幸男氏はいじめを社会的ジレンマと捉え、〈情報の非対称性〉に対処することを意図して実践をおこなったのである。A点以上に協力者を維持することを意図して実践をおこなったのである。この点で小川幸男氏の実践は新しい。
 また、いじめを社会的ジレンマと捉える論理は、小川幸男氏が既に次の論文で論じている。
 
  明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年
 
 もちろん、私は小川幸男氏の論文を引用して論じている。しかし、長い文章の複数箇所に引用が分かれているので、解りにくくなっている。
 だから、この事実を特に注記しておく。


2016年02月05日

【いじめ論35】いじめを知っていたにも関わらず教師は解決できなかった

 顕在的な行動が集団に大きな影響を与える。それは、行動だけが意識されるという〈情報の非対称性〉があるからである。このようなバイアスに対処する方法として次の二つを挙げた。

 1 いじめ行動を発生させない。
 2 反いじめ行動を発生させる。

 前回までで、この二つを詳しく説明した。
 この論述は、読者の皆さんにはあまりにも「当たり前のこと」に思えたかもしれない。
 しかし、その「当たり前のこと」が当たり前になっていないのである。
 例えば、大津市のいじめ自殺事件を受けて、平野博文文部科学大臣(当時)は次のように言う。

 いじめが背景事情として認められる生徒の自殺事案が発生していることは大変遺憾です。子どもの生命を守り、このような痛ましい事案が二度と発生することのないよう、学校・教育委員会・国などの教育関係者が担うべき責務をいまいちど確認したいと思います。
 いじめは決して許されないことですが、どの学校でもどの子どもにも起こりうるものであり、その兆候をいち早く把握し、迅速に対応しなければなりません。文部科学省からの通知等の趣旨をよく理解のうえ、平素より、万が一の緊急時の対応に備えてください。(注1)

 平野大臣は「その兆候をいち早く把握し」と言う。「兆候」の「把握」を強調する。これは〈いじめの「兆候」を「把握」できなかったから、対応できなかった〉という「いじめの兆候」論である。(注2)
 しかし、大津市のいじめ自殺事件の実体はそのようなものではない。既に分かっていたいじめを解決できなかったのである。教師がいじめ行動を適切に抑制できなかったのである。
 第三者調査委員会の調査報告書には次のようにある。

 ア担任は.複数回,AがBから暴行を受けている場面を見ており.その度にBを制止しているし.クラスの生徒から「いじめちゃうん。」という言葉を聞いたり.Aがいじめられているので何とかして欲しいという訴えも聴いている。また,Aが.Bから暴行を受けたことについては.養護教諭をはじめとして他の教員から担任に報告か入っている。そして.担任自身も10月3日に養護教諭からBがAを殴ったことの報告を受けた際.「とうとうやりましたか。」と発言している……(注3)

 担任は「暴行を受けている現場を見て」いた。「いじめられているので何とかして欲しい」と生徒からの訴えを受けていた。「兆候」どころか、教師はいじめの明白な事実を知ってた。知っていたにも関わらず、解決できなかった。
 いじめ行動を適切に抑制できなかったのである。
 別の事例を見てみよう。鹿川裕史君が自殺した事件である。

 担任はトイレに捨てられていた裕史くんのスニーカーを洗ってやりながら、「ぼくにできるのこれだけだ」と言った。
 教師でも「バリケード遊び」〔椅子や机を積み上げ人を閉じこめる「遊び」〕をやられて泣きそうになるものもいた。担任もBに殴られて肋骨を痛めたことがあった。それから生徒になめられる。授業中に乱闘騒ぎがあっても知らんふりをしていた。(注4)

 教師は鹿川君がいじめられていることを知っている。スニーカーがトイレに捨てられていたことを知っている。洗いながら「ぼくにできるのはこれだけだ」と言ったのである。
 つまり、教師は知っていたにも関わらず、いじめを解決できなかった。教師自身が「殴られて肋骨を痛め」ても適切な手が打てない。「授業中に乱闘騒ぎがあ」っても止めることが出来ない。(注5)
 いじめ行動を適切に抑制できなかったのである。
 このように、知っていたにも関わらず、いじめを解決できなかった例は多い。
 深谷和子氏の調査では次のような結果が出ている。

 小学校でも中学校でも、「担任は『いじめ』を知っていた」とする者が三分の一、「たぶん知っていた」とする者を合わせると、八割を越える者が「担任はいじめを知っていた」と答えている。担任の知らない「いじめ」は一五%前後であり、「いじめ」は見えにくいと言っても、クラス内の「いじめ」の大半は担任の視野に入るものだ、ということになる。(注6)

 「八割を越える者が『担任はいじめを知っていた』と答えている」のである。
 教師はいじめを知っていた。しかし、それを解決できなかった。いじめ行動を適切に抑制できなかった。そのような事例が多くある。
 それにも関わらず、文部科学省は「兆候」の「把握」を強調する。〈いじめを知っていたにも関わらず、解決できなかった〉という事実は「無視」される。
 やはり、いじめ論において、「当たり前の考え」は当たり前になっていない。
 もう一度、述べる。いじめ行動を発生させないことが重要である。反いじめ行動を発生させることが重要である。それはいじめが集団の問題だからである。心の問題では無いからである。
 この「当たり前の考え」が当たり前になっていない。中核的な問題だと意識されていない。だから、詳しく論ずる必要があったのである。


(注1)

 「すべての学校・教育委員会関係者の皆様へ[文部科学大臣談話]」平成24年7月13日

(注2)

 「いじめの兆候を把握できなかった」は虚偽の論法
  http://shonowaki.com/2015/03/post_121.html

(注3)

 大津市立中学校におけるいじめに対する第三者調査委員会『調査報告書』

(注4)

 武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、2004年、21~22ページ

(注5)

 「無法地帯」では、いじめが多発する
  http://shonowaki.com/2015/05/post_119.html

(注6)

 深谷和子『「いじめ世界」の子どもたち』金子書房、1996年、40ページ


2016年02月12日

【いじめ論36】子供は教師ではなく子供集団に従う

 大津市のいじめ自殺事件でも、鹿川裕史君の事件でも、教師はいじめを解決できなかった。いじめの事実を知っていたのに解決できなかった。
 教師は「権力」を持っている。命令し、従わない者には罰を与える。最終的には、成績として評価をする。これは大きな「権力」である。
 それにも関わらず、子供は教師に従わなかったのである。
 なぜ、子供は教師に従わないのか。
 小川幸男氏は言う。

 ……〔略〕……多くの学校の場合、すでに上級生が相互非協力状態や、協力状態が下がった状態になっている。入学当初の相互協力状態が落ちている。
 生徒にとって、非協力行為を選んでいる上級生と、様々な規制を行う教師ではどちらが影響力が強いか。これは明らかに、上級生である。中学生である彼らにとって、教師よりも上級生の方が「意味のある他者」として存在するからである。従って、上級生が非協力状態行為を選ぶ生徒生徒〔原文のママ〕が多いと、教師の規制よりも上級生の影響の方を強く受け、下級生の中にも非協力行為を選ぶ生徒が出てくる。(注1)

 教師より、上級生の方が「影響力」が強い。教師より上級生の方が「意味のある他者」として存在する。(さらに、同級生の方が「意味のある他者」として存在する。)
 なぜか。それは、子供にとって重要なのは子供集団の中で位置を占めることだからである。教師に従っても、子供集団の中で位置を占めることは出来ない。

 子供は教師ではなく子供集団に従う。

 教師より子供集団の方が「影響力」が強いのである。
 子供が子供集団に従う例を見てみよう。女子校生のスカートである。(注2)
 極端なミニスカートを着ている女子校生がいる。多くの教師はこのようなスカートを着ることには反対である。
 しかし、教師がいくら反対しても、彼女達は極端なミニスカートを着るのをやめない。それは集団の成員の大多数がミニスカートを着ているからだ。集団内でミニスカートを着ることが「常識」になっているからだ。
 実は、大阪ではロングスカートが「常識」になっている。それに対して、東京の女子校生は何と言ったか。

 東京の女子高生に大阪の写真を見せると「東京だと浮くけど、かわいい」と評判は上々。(『日本経済新聞』2013年12月22日)

 ロングスカートだと「浮く」のである。大多数がミニスカートを着ているからである。「浮」かないためには、ミニスカートを着る必要がある。
 この状況で、教師に従うのは危険である。ミニスカートを着るのをやめるのは危険である。それでは、「浮」いてしまう。それでは集団内での位置を失ってしまう。
 これは社会的ジレンマなのだ。集団内で特定の「常識」が出来てしまっている。一人だけでそれをやめる訳にはいかない。一人だけでやめては「浮」いてしまう。集団内での位置を失うことになる。
 いじめも同様である。いじめにおいても、子供は子供集団に従う。教師の説諭の効果が無かった例を見てみよう。(注3)

 「どういうことなのか、まわりの人、答えなさい!! リカとどうして机をはなさなきゃいけないのか説明しなさい。私は、君たちが中学生になってはじめての授業だからと一週間は黙って様子を見てきたけど、もう我慢できない!! どうしてリカのまわりだけ机の位置が乱れるの!! アキオ、答えてください!!」
 リカの両サイドの子どもたちが目をそらす。いわゆる優等生のアキオは、不服そうな表情のまま、わずかに自分の机をリカの側に寄せる。
 私は邪険にアキオの机を引き寄せ、リカの両サイドの子どもたちの机も強引に移動させる。子どもたちは、机の脚に自分の足をからませながら、素知らぬ顔で私を見つめ、私に机を動かせまいと抵抗している。私は、子どもたちをにらみすえながら荒々しく机や椅子を動かす。子どもたちは、私の力とけんまくに押されながらも、まわりの子どもたちと顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあっている。

 この子供達は教師には従わなかった。「顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあって」いたのである。子供は子供集団に従っていたのである。
 教師に従うことより、仲間集団に従うことの方が重要だったのである。一人だけでいじめをやめる訳にはいかない。一人だけやめては「浮」いてしまう。集団内での位置を失ってしまう。
 子供は教師ではなく子供集団に従うのである。


(注1)

 明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年

(注2)

 女子高生のスカート長さが東京と大阪で違う理由
  http://shonowaki.com/2015/05/11_1.html

(注3)

 熱血教師が「いじめは絶対に許されない」と言っても効果は無かった
  http://shonowaki.com/2015/02/post_116.html

2016年02月19日

【いじめ論37】子供集団の影響力を使って、いじめ行動を抑制する

 教師がいくら言っても、女子校生はミニスカートを着るのをやめない。
 教師に従うことより、仲間集団に従うことの方が重要なのである。一人だけミニスカートを着るのをやめては「浮」いてしまう。集団内での位置を失ってしまう。
 いじめも同様である。子供は教師ではなく子供集団に従う。
 いじめは社会的ジレンマなのである。社会的ジレンマであるいじめ状況を発生させないためには、次の二点が重要である。既に詳しく説明した通りである。

 1 いじめ行動を発生させない。
 2 反いじめ行動を発生させる。

 いじめ行動を発生させないことが重要である。発生したいじめ行動は適切に抑制することが重要である。しかし、いじめ行動を抑制できていない例が多い。
 なぜ、抑制できないのか。
 それは「教師が抑制しようとしている」からである。より正確に言えば、「教師が一人で抑制しようとしている」と子供が「解釈」しているからである。子供にとって、教師は「意味のある他者」ではない。
 子供は教師ではなく子供集団に従う。教師に従うことより、子供集団に従うことの方が重要なのである。だから、教師に従って、一人だけでいじめ行動をやめる訳にはいかない。それでは、一人だけ「浮」いてしまう。集団内での位置を失ってしまう。
 だから、いじめの抑制のためには、「子供集団がいじめに反対している」と子供が「思う」ことが重要である。そう「思う」から子供はいじめ行動をやめるのである。
 つまり、2によって1が容易になる。「反いじめ行動が発生」していると「いじめ行動の抑制」が容易になる。子供が反いじめ行動を起こしている事実が、教師の指導の「解釈」を変えるのである。
 例えば、先に示した「いじめ・暴力徹底追放宣言」の採択である。(注1)

いじめ・暴力徹底追放宣言
            ―いじめ・暴力をなくし、住みよい学校を!―

私達、生徒会の基本方針は「住みよい学校をつくることです。私達生徒一人ひとりは、 誰もが「楽しい学校生活を送る権利」を持っています。 この「権〔原文のママ〕を侵害することは誰にもできません。
 しかし、“いじめ”や“暴力”という行為は、この「権利」を侵害するものです。これはいじめられた人の身になって考えれば、よく分かることだと思います。
ですから、“いじめ”や“暴力”を許してしまっては「住みよい学校をつくる」ことはできません。だからこそ、私達生徒は一人ひとりを互いに大切にし合い、「住みよい学校をつくる」ため、“いじめ”や“暴力”を徹底的に追放しなければなりません。
 よって、Y中学校生徒会は次の事を宣言します。
1 どんな理由があっても、“いじめ”・“暴力”を許さない学校をつくっていこう。
2 不正なことには、「やめよう」と言おう。
3 問題が起こった時は“暴力”・“力関係”で解決せず、クラスで討議し、自分達の力で解決していこう。

                 平成6年1月29日
                  Y中学校生徒会

 この「いじめ・暴力徹底追放宣言」は反いじめ行動である。生徒集団がいじめに反対している事実を行動の形で示したのである。
 このような反いじめ行動が発生していれば、いじめ行動を抑制しようとする教師の指導は「子供集団の意思」と「解釈」される。「子供集団の意思」だと「解釈」するから、子供は従う。
 だから、子供が「いじめ・暴力徹底追放宣言」をしている状況では、教師によるいじめ行動の抑制は容易である。「いじめ・暴力徹底追放宣言」は「子供集団の意思」である。教師はそれに従うように子供を促すだけでよい。
 つまり、いじめ行動の抑制に成功した事例は次のような構造になっている。

 子供集団(教師) → 子供

 それに対して、いじめ行動の抑制に失敗した事例は次のような構造になっている。

 教師 → 子供集団

 教師 対 子供集団という構造になっている。例えば、先の野口良子氏の事例は、教師一人が子供集団と戦う構造になっている。(注2)
 これではいじめ行動の抑制は成功しない。教師と子供集団が対立した場合、子供は子供集団に従うのである。
 例えば、向山洋一氏は同様の場面で次のように指導する。(注3)

 私はクラス全員に聞きます。クラス全員を教師の側につけることは大切です。

 みんな聞いたでしょう。○○君は、何となく机を離したそうです。先生は違うと思ってます。○○君は、何となく机を離したと思う人は手をあげてごらんなさい。

 子供たちは手をあげません。あげても一人か二人でしょう。
 私は言います。

 ○○君。みんなは君の言うことがおかしいって。先生もおかしいと思う。
 どうして机を離したのですか。

 教師が「何となく机を離した」という答えを否定しているのではない。子供集団が否定しているのだ。「子供集団の意思」なのだ。教師はそれをはっきりさせただけである。
 向山洋一氏は「クラス全員を教師の側につけることは大切です」と言う。いじめ行動の抑制において、意図的に子供集団を味方につけているのである。
 子供集団が反いじめの「意思」を示している。反いじめ行動を起こしている。そのような状況下で、教師はいじめ行動の抑制に成功することが出来る。
 だから、1のためにも2が重要になる。子供集団が反いじめ行動を起こすことが重要になる。
 つまり、子供の行動を変えるためには子供集団を変えることが重要になる。子供集団を変えることによって、子供の行動を変えるのである。子供集団が反いじめ行動を起こしているという状況下で、教師による指導が可能になる。いじめ行動の抑制が可能になる。
 子供集団の影響力を使って、いじめ行動を抑制するのである。


(注1)

 明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年

(注2)

 熱血教師が「いじめは絶対に許されない」と言っても効果は無かった
  http://shonowaki.com/2015/02/post_116.html

(注3)

 向山洋一『いじめの構造を破壊せよ』明治図書、1991年、39~40ページ
 なお、原文では囲みの部分を段下げで表記した。


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